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蜜吸い  作者: ねこじゃ・じぇねこ
第三部
11/15

1.女神


 この大地の女神は三十年で代替わりする事が多いらしい。

 その事実を来客の有識者に告げられたのは、十五歳になった頃だった。私はその時、何も感じなかった。十五年も先の事は遠い未来に感じられて、恐怖もなにも感じなかった。子供を生むと同時に死ぬかもしれない。その可能性を耳にしても、少しも動揺は生まれなかった。

 ただ、この退屈な城での生活が、たった一人の我が子に押し付けられて、終わるのだとしか思わなかった。


 死なない確率は非常に低い。

 私の母も、その母も、さらにその母も、呪いにでもかかったかのように娘を生み落とすと同時に息を引き取ったのだそうだ。

 それがこの月の大地を統べる女神の特徴。

 私にもいつかその日が来る。


 長い間、それは単なる事実として私の頭に刷り込まれていた。私が子を生み死んだとしても、誰も困りはしない。

 生まれた子は、かつての私のように、城の者達に大事に育てられる。

 城の者達は誰も私の死を悲しまないだろう。

 だから、私は怖くなかった。

 けれど、今は少し違った。


 日が過ぎれば過ぎるほど、年が過ぎれば過ぎるほど、私は少しずつ三十歳に近づいて行く。子をいつの間にか宿し、産み落とすと同時に死んでしまうかもしれない事実が段々と重たく圧し掛かってきた。

 長年、私が死んでも、誰も悲しまないと思っていた。

 しかし今は、私が死んだら悲しむだろう者が現れてしまった。愛らしく、可憐で、心優しく、魅惑的なその人間でない娘の存在は、孤独であった私にとって、初めての寄り添える相手でもあった。


 彼女は胡蝶。

 森に沢山住まうごく当り前の虫の妖精。胡蝶の中でも一際美しい容姿を持つだけの娘。

 彼女は私の城の門の前にて座り込んでいた。ボロボロの胡蝶が倒れ伏した所を、私は窓辺から見つめていた。

 放っておくことは出来なかった。

 城を抜けだす事は禁じられていたけれど、城の者達の目を掻い潜って外に出なくては、気が治まらなかった。

 近づけば近づくほど、傷だらけの胡蝶の全貌が明らかになってきた。

 酷い有様だった。生きているのが不思議なくらい、彼女の肉体は所々食いちぎられていた。見た目は人間と変わらない胡蝶のそんな姿は、誰が見てもぎょっとしただろう。彼女の姿は女神と呼ばれる私ですら焦らせるものだった。

 そっと抱きあげてみれば、彼女はとても軽かった。

 見た目は大人と変わらないように見えるけれど、体重は殆ど感じなかった。

 そこが人間と違うのかもしれない。


「ここは……」


 抱き上げた途端、胡蝶が口を開いた。

 私はその声に答えた。


「月の城だ。お前を助ける。喋らずに暫くじっとしていろ」

「伝えなきゃ……」


 彼女はそう言ったかと思えば、すぐに意識を失ってしまった。


 ――温かい。


 鼓動も感じる。吐息も微かにだが漏れている。五体は無事なままで、わざと急所を外されている。無慈悲な者に随分と弄ばれたのだろう。ただ食べるのではなく、獲物を痛めつけて楽しむような恐ろしい者から命からがら逃げてきたのだろう。

 血が流れ、私の衣服を穢し始める。

 だがちっとも不快ではなかった。

 城に向かいながら、ふと月の光に照らされたその顔を見て、私はふと目を奪われた。その胡蝶の顔立ちがとても愛らしい事がそこでようやく分かったのだ。

 だから、というわけではない。

 ただ、私はその時から、この愛らしい胡蝶の事が気になり始めた。


「御主人様……」


 城に戻れば、女中や使用人たちが待ち構えていた。

 私が抜けだしたのを目にしていたらしい。ということは、口うるさい女中頭や執事なんかの耳にも入っている事だろう。


「その御方は……」


 彼らの目はまっすぐ胡蝶に向いていた。

 人と変わらない姿の者がこんなにも酷い有様となっているのだ。特に年頃の女中が怯えないわけがなかった。それなりの年齢の使用人ですらも、この胡蝶の姿には怯えているようだった。

 私は構わずにその場にいた全員に言った。


「誰か、手を貸してくれ――」

「月様!」


 私の声を遮って、その声が響いた。

 女中頭だ。やかましいのはいつも一緒。私の母の代から此処にいるせいか、子供の頃から、彼女は口うるさく私に指示してくる。

 彼女にとって私はいまだに子供と同じらしい。


「勝手に庭に出るなと何度言えば――」


 階段を降りながら彼女は文句を言う、そして、私が抱えている胡蝶に気付き、あからさまに眉をひそめた。


「何ですか、それは……」


 誰、と言わなかったのは、人間らしい反応かもしれない。

 胡蝶は妖精だ。どんなに人間らしい見た目をしていても、人間として扱われない。可愛らしく美しい彼女達は人間にとって害虫か愛玩かの二択だ。いつだって物として駆除され、取引される。


「酷い怪我をしている。手当てをしてほしい」


 女中頭が絶句する。

 彼女らしい反応かもしれない。けれど、私は知っている。口うるさいだけで、彼女は私のわがままを聞いてくれる存在でもある。頼み方はよく心得ていた。


「勝手に外へ出たのは悪かった。それは謝るから、どうか頼む」


 まっすぐ見つめると、女中頭は大きく溜め息を吐いた。

 やがて、茫然としていた女中達に指示を出し始め、彼女は強い視線を返してきた。


「詳しい話は後でゆっくり聞かせてもらいますからね」


 冷たい声だった。



 蝶。その名前以外の事を胡蝶は覚えていなかった。

 知識は存分に持ち合わせていたし、森生まれの森育ちにしては文字まで読めるくらいの学も有している。胡蝶にしては珍しい娘だった。

 しかし、彼女はどうしても自分に起こった記憶を思い起こせなかったらしい。

 あれだけの傷をつけた相手の事も、どうして月の城に逃げ込んだのかも、彼女は思い出せずに寂しそうに森を見つめるばかりだった。

 死の境を彷徨いつつ、奇跡的に蝶は順調に回復した。

 使用人たちに集めさせた野生花の蜜のお陰かもしれない。或いは、町より取り寄せた秘薬のお陰かもしれない。

 ともかく、蝶が傷を癒し、自分で歩けるくらいにまで回復した事は、私も嬉しかった。


 女中頭と執事は蝶の事で度々私に文句を言った。

 彼らは事あるごとに女神のくせにと女神なのだからと口にするけれど、彼ら自身が私の事を女神だと認めているとはとても思えない。

 長くこの城に仕える彼らにとって、女神は私の母から変わっていなかった。

 私を生み落とすと同時に死んでしまった母の時代から、彼らは抜け出せていない。


 母の事はもちろん覚えていない。母の話をしてくれる者は少ししかいない。そして、話だけでは掴み切れない。肖像画も私に微笑んではくれない。

 子供の頃、私は母の肖像画の下でよく泣いた。

 女中頭はそれをよく叱った。

 女神なのだからそんな事で泣いてはなりませんと私に言った。

 彼女は生前の母によく寄り添っていたらしい。だからだろうか。彼女は心のどこかで私の事を憎んでいるのではないかとさえ思ってしまう。

 執事はもっと長く城に仕えている。

 幼い頃の母のことも知っているらしい。聡明で、冷静で、常に己が女神であることを忘れずに振る舞っていたという母を崇拝し、その死には大いに嘆いたという。


 母はとてもよく出来た女神だったらしい。

 だから、彼らは月の姫の誕生を願った

 どうやら私が月の姫として、ただ次の月を生むだけの存在として、この世に生まれてくる事を心から願っていたらしい。

 しかし、現実は違った。私は母の死と引き換えに、母の生まれ変わりとして誕生した。

 そんな私は彼らにとってどんなに腹立たしい存在だろう。

 彼らは事あるごとに私に完璧さを求める。私が拾った胡蝶の不満もまた、私の責任であった。

 執事も女中頭も、蝶に対して直接何か言う事は無い。そこは有難いのだが、彼女への不満は私にだけ伝わってきた。


「あの胡蝶を飼われるなら紐で繋がないと――」


 私の部屋にて、声を潜めつつも、そうまくし立てたのは女中頭だった。

 蝶が回復を見せ、城の庭にまで出るようになってすぐに彼女は私に訴えに来た。


「別に飼うわけじゃない。保護しただけだ」

「だとしても、責任を持ってきちんと管理してくださいませ。あれが我が城を揺するような争いの火種になってしまえば、貴女が苦しむのですよ」

「今は蝶のしたいようにさせたい」


 女中頭の声を聞いていると頭が痛くなる。

 彼女の方も同じかもしれない。深く溜め息を吐くと、彼女は一歩乗り出して低い声で申し出た。


「それなら月様、せめて人工花をお買いくださいませ」

「人工花?」

「人の手で改良された花を利用し、胡蝶の好む蜜を我が城に置いておくのです。そうすればあの胡蝶も心を奪われ、必ずや城に戻って来ることでしょう」

「……別に蝶が帰って来たくなければ、帰って来なくたっていい」

「いいえ」


 きっぱりと女中頭が言い放つ。


「帰って来ないと困ります。もしも我らが大地を危機に陥れるような悪しき者があれを捕まえた時、貴女は冷静に彼女を切り捨てることが出来ましょうか?」


 問われ、私は黙りこんだ。

 出来ないだろうと答えるまでもなかった。

 黙りを決め込む私に対し、女中頭は大きく溜め息を吐く。

 彼女の心配は常に私の命が保たれることにある。けれどそれは、彼女が月の城に仕える者としての使命を全うするためだけの心配のように思えた。

 私個人を本心から心配し、母親のように愛してくれたことは一度もない。

 子供の頃、私は月の姫に生まれたかったと常に思っていた。


「月様」


 女中頭は冷たい声で言った。

 無表情の彼女はいつだって人形のように冷たい印象を醸し出す。


「御自身の立場をくれぐれもお忘れにならないように」


 やや乱暴に彼女は扉を閉めて去った。

 部屋に残された私は、ぼんやりと窓辺から森を眺めた。月の森という名前の場所。私の名を持つ場所は沢山あるようだけれど、そのどれも、私は足を運んだことがない。

 あの森で蝶に何があったのか。


 ――何を伝えたくて彼女は此処へ来たのか。



 蝶は見違えるほど元気になった。

 私によく懐き、森で目にした事を度々私に話した。穏やかに振る舞う彼女だったけれど、傷が癒える頃には一人で眠れなくなってしまった。

 彼女は毎晩、私の部屋で眠る。

 闇夜の支配する今現在も、彼女は私にくっついて眠っていた。

 私の隣で、私の温もりを感じないと、彼女は眠れない。

 そして、私の方も、蝶と共に眠ることがいつの間にか当り前の事となっていくことをぼんやりと実感していた。

 私が蝶と共に寝る事を執事も女中頭も咎めたりはしなかった。


 本来、彼らが私に求めている女神らしさとは、子を産むまで命を危険に曝さないことだけなのかもしれない。それさえ守っていれば、多くの事は黙認してくれる。

 亡き母の事さえ関わらなければ、彼らの距離感は私にとっても心地よいものだった。

 どうせ残り数年で私は死ぬ。

 生まれた娘に全てを押しつけて、思い重圧から解放される。

 ずっとそう思ってきたのに、毎晩、蝶の寝顔を見つめていると、ある種の恐怖が私の心を淀ませた。


 ――死にたくない。


 子を産むのが怖い。

 それは今まで感じたことがないような不安だった。

 どうせ産むのならば、月の姫を生みたい。そう思うのは何故か。顔も見ることが出来ないかもしれない娘のためではないだろう。

 孤独だと思っていた時は何も感じなかった。

 それなのに今は、数年後に起こる避けられない運命が怖くて仕方なかった。

 三十歳の頃に何が起こるのか、どうして子を宿すことになるのか、その一切を城の者は誰も教えてくれない。

 資料にすら書かれてはいない。

 ただ、月と名付けられたこれまでの女神の殆どが、子を産むと同時に命を落としてきた事実だけが記されている。


 私も同じなのだろうか。

 今より数年後、もしもまだ蝶がここにいたとすれば、彼女はどう思うだろう。

 そっと隣で眠っている蝶の頬に触れてみると、驚くほど柔らかかった。その柔らかさと温もりを感じていると、幼い頃には全く知らなかった安心感のようなものが私の身体を駆け廻っていった。


 女中頭は母と親しかったらしい。

 執事は母を崇拝していたらしい。

 肖像画でしか知らない先代の女神の事が、最近になって、ずっと頭に引っかかって仕様が無かった。

 漏れだす溜め息と共に、気だるさが全身から力を奪う。


 蝶と別れる日が今から怖い。

 けれど、怖い事は他にもある。

 私よりも先に、蝶が戻れなくなる危険性だ。


 怪我から回復した蝶は記憶を拾おうと必死だった。自分を死に追いやろうとした者がうろつく森へ、彼女は度々足を運ぶ。記憶を取り戻すためであると同時に、蜜を自分の手で集めるためでもあった。

 胡蝶にとってあの森は生まれ故郷であると同時に恐ろしい場所でもある。

 森に住まうのは胡蝶の好物の蜜を有する花ばかりではなく、胡蝶を好物とする虫の妖精や魔物もまたうじゃうじゃといる。

 毎年、沢山の胡蝶の卵が孵り、その子供たちが森で遊び始めるらしい。

 その後、蛹になるのは約半数。

 その蛹がきちんと羽化する確率も約半数。

 そして、羽化して美しい姿となって森を彷徨いだした後、伴侶を見つけて卵を残せる者となるとさらに数は少なくなる。


 多くは何処かで誰かの糧となる。

 蝶という名を持つこの胡蝶も、羽化までは行けたが卵を残す前に何者かに捕まり、喰われようとしていたのだろう。

 森に行く事は、何かに捕まるかもしれない事だ。

 毎日、無事に帰って来る度に、私は内心ほっとした。寝る前に、彼女の話を聞けば、危ない目に遭わない日が殆どないことがよく分かった。


 ――頼むから、もう行かないでくれ。


 そう言いたくなるのを堪えて、私は蝶の話を聞いた。

 彼女は行かなくてはならない。記憶の為だけではない。花と関わり、蜜を吸うことが胡蝶にとって必要不可欠な事柄である限り、彼女は森に行かなくてはならない。

 野生花なんて使用人に捕えさせてやると手を差し伸べても、彼女はその手を握り返してはくれないのだ。


 ――人工花か……。


 ふと、私は女中頭の言葉を思い出した。

 高価なものだと聞いている。町に暮らす人間達は、その美しい花の精霊を人工的に増やし、価値をつけて、売りさばいている。

 人工花を囲うことは、そのまま身分や権力を表すことでもある。


 実際に、我が城でも複数の花が買われてきたことがあるらしい。

 どれも野生花などではなく、非常に高価で、血統のしっかりとした歴史ある美しい人工花だったようだ。

 生憎、今のこの城には人工花はいない。

 私が生まれた頃は母の遺した者が一人いたらしいが、私の物心がつく頃に、庭に忍び込んだ蝙蝠の精霊にたぶらかされて残酷に散らされてしまったと聞いている。

 母の残した人工花の惨死に、誰もが悲しんだらしい。


 私はその姿を覚えていないが、絵の中の彼女のことは見たことがある。

 真っ白な髪に、赤い目を持つ、不思議な雰囲気の少女。此処に引き取られた時、彼女はまだ十二歳だったそうだ。私の母に愛でられ、母の死後、二十歳ほどの若さで不幸によって枯れてしまった可哀そうな高級品。

 月下美人によく似た血筋をもっているらしい彼女。

 同じ始祖をもつ花は、今も町で売られていると聞いた。

 どうせ買うならば、月の城に相応しいその花にしよう。

 私はぼんやりと考えて、瞼を閉じた。

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