5.食虫花
◇
食虫花。
虫を食べる花。
その言葉を思い出した途端、頭の中が真っ白になった。
息苦しく、視界すら白くなっていくのは、あまりにも大きな動揺のせいだ。どうにかその動揺から立ち直って逃げ出そうと思っても、食虫花の腕の力に抗うことが出来なかった。
「もう少し忘れたまま愉しんでもらいたかったけれど」
彼女はあたしの耳元で言った。
「思い出しちゃったのなら、仕方ないわね」
嬉しそうに、楽しそうに、食虫花は笑っていた。
彼女の蜜が体中に廻り始めると、考えをまとめることすら難しくなっていった。逃げなくてはという気持ちが段々と失われていく気がした。
それではいけないと強く思いなおそうとしても、絶えず流しこまれて来る蜜によってその思考を乱される。
その繰り返しは、言葉に出来ないほど苦しいものだった。
「久しぶりね、蝶。元気そうでよかった」
わざとらしく食虫花は言った。
あたしの名前を知る人物。あたしの事を把握している人物。今も身体に残る傷と深い関わりのある人物。
記憶の甦りもまた、あたしの動きを鈍らせる要因の一つだった。
「お前がいなくなって寂しかったのよ。可愛い蝶。またお前の悲鳴を聞かせてちょうだい」
その手に触れられただけで、あたしの身体が強張っていく。
「蜜が欲しいのでしょう? たくさんあげる。死んでもいいってくらいあげる。思い残すことがなくなるくらいあげる」
「――いや」
やっとその声は出た。
「見逃して」
無様であろうとも、醜かろうとも、懇願せずにはいられなかった。
「お願いよ、見逃して」
しかし食虫花はあたしの頭をそっと撫でながら、再び蜜を流しこんできた。
「何の罪もない花を枯らしておいて、自分は命乞いをするの?」
その声はとても柔らかかったけれど、優しさの欠片すら持っていないようだった。
「そこに倒れている花がどんなに命乞いをしても蜜吸いをやめなかったのに……」
口から口に移されていく蜜の味に、あたしは悶えた。
毒でも盛られているようだった。もう何を訴えても無駄な事は明確だった。あたしはもう帰ることが出来ない。
分かりきった未来があたしの眼から涙を流させた。
口を離し、食虫花は呟いた。
「お前は本当に馬鹿な子ね」
その声が不思議と頭に響き渡った時、あたしの身体に大量の蜜が流れ込んだ。
◇
ふと目を覚ますと、見覚えのある部屋にいた。
森の外れにある古い屋敷。月の城よりも小さいけれど、十分立派な建物。あたしはその外観を思い出していた。
あの屋敷には魔女がいる。
それは胡蝶達に伝わる噂だった。
食虫花。甘くて濃厚な蜜で虫を惑わし、理性を狂わせ、最後にはその肉体を逆に喰らってしまう恐ろしい野生花の魔女。
彼女はかつて優しい魔女だったらしい。
しかし、今は違う。胡蝶にとっては危険な存在だ。絶対に近づいてはいけない。
此処に連れ込まれた胡蝶は、もう生きては帰れない。
そんな場所からあたしはどうにか逃げ出したのだ。
今さら遅いのに、鮮明に記憶は甦って来た。
前にもこの部屋に寝かされていた。特に拘束されたりはしなかった。今も拘束はされていない。ただ、身体に力が入らなかった。大量に蜜を流しこまれた身体を動かすことが出来なかった。
ぼんやりと横になりながら、あたしは虚しく室内を眺めていた。あたしはどうなるのだろう。どうされたのだっただろう。
全身の古傷が疼いた。癒されたはずの傷が記憶を取り戻してぱっくりと裂けようとしているかのように怯えている。
この傷をつけたのは彼女だ。
あたしは喰い殺されるところだった。
彼女は遊びながら獲物を食べる。獲物の精神をずたずたにしながら、肉体をずたずたにする。わざと急所を外しながら、捕まえた獲物で数日間遊ぶという肉食者によくある恐ろしい本性を彼女もまた持っている。
そんな女にあたしはまたしても捕まった。
月の姿が遠ざかっていく気がした。もう会えないかもしれない。華にも、もう会えない。力が失われていくのが分かった。
前に食虫花は言っていた。
一度捕まえた獲物をただ殺すなんて勿体無い事はしない。心も体も全てを手に入れてからその命を貰う。けれど、逃がすなんてことはもっとしない。獲物は獲物。どんなに親しげに接した所で肉に過ぎない。そんな心変りは期待しない方がいいと。
「死にたくない……」
あたしはぼんやりと呟いた。
「帰りたい……」
解れそうな言葉を繋ぎ合わせて、あたしは誰も居ない部屋に命乞いをした。
扉が開く音がした。
目を動かすと、部屋の向こうで誰かがこちらを覗いている。食虫花だ。彼女しかいない。けれど、よく姿が見えなかった。ぼんやりとしか見えない。倦怠感が強すぎて、見る力さえも残っていないようだった。
「起きたのね、蝶」
あたしの名前を彼女は呼ぶ。
食虫花はまっすぐ近寄り、寝ているあたしをそっと撫でた。
「傷がすっかり癒えてよかったわね」
皮肉を込めたその声が耳を撫でつける。
ぼやけた視界でも、彼女の美しい顔が笑みを浮かべているのが分かる。あたしの頭を撫でるその手は、まるで優しさでも宿しているかのようだった。
けれど、彼女には優しさなんてない。
少なくとも、あたしに対する優しさなんて一欠けらも持っていない。
「お前が月に拾われたと聞いて」
食虫花の手が頬に触れる。
甘い香りがきつくて、あたしは呼吸すら苦しかった。
「私はすごく安心したのよ」
彼女の手が服の中へと滑りこんできた。けれど、何も感じなかった。何かを感じられるほど、力が残っていなかった。
どうしてこんなにあたしは疲れているのだろう。
「お前が下らない虫に食べられてしまうのではないかと心配していたから」
食虫花の鋭い爪が、あたしの皮膚に傷をつけた。
その傷を抉りながら、彼女は恍惚とした吐息を漏らしていた。
その吐息を聞きながら、あたしはぼんやりと自分の置かれている状況を感じていた。この女に慈悲はない。慈悲がないと言う事を、数ヶ月前に散々身体で教えられた。
「月の所に帰りたい……」
あたしはぽつりとその言葉を漏らした。
懇願ではなく、ただの、気持ちだった。
食虫花の手が止まった。血の漏れだす肌から手を離し、彼女はあたしの身体を乱暴に引き寄せる。力が出ないあたしは、大人しく食虫花に従うしかなかった。
彼女に触れられながら、あたしは自分の体内に蜜が流しこまれるのを感じた。
「やめて」
あたしは食虫花に言った。
「もう欲しくない」
食虫花は笑っていた。
あたしの言葉を無視して、構わずに蜜を流しこみ続ける。
「月はお前の事を心配するでしょうね」
食虫花の声が耳元で聞こえた。
「お前を助けようと城を抜けだすでしょうね」
彼女が何を言いたいのか、あたしには分かった。
記憶の甦りがとても残酷に感じた。そうだ。あたしは月の城に伝えたくて走ったのだ。月のいる城の者に伝えたくて走った。
伝えたら、死んでもよかった。
助けてもらいたくて走っていたのではなかった。
この大地に謀反をもたらそうとしている者がいる。他ならぬ月の命を狙う者がいる。彼女は怪しげな術を使い、月の事を常に見張っている。
謀反人は食虫花。
事が起きる前に退治をした方がいい。
あたしは聞いてしまったのだ。他ならぬ食虫花から、死地へ赴く哀れな胡蝶への土産にと聞いてしまったのだ。
彼女はまさかあたしが逃げ出せるとは思っていなかった。
けれど、あたしは逃げ出した。逃げ出して、月のいる場所にまで辿りついてしまった。
「月には手を出さないで……」
あたしは食虫花の顔を見つめ返した。
「あたしはどうなってもいいから」
食虫花は目を細める。
「お前は本当に馬鹿な子ね。こんなちっぽけな胡蝶の命と、この大地の女神の命。それが対等だとでも思っているの?」
「お願い。月には手を出さないで」
「私はずっと、ずっと、あの月が欲しかった。お前が生まれるよりもずっと前から、あれが子供の頃からずっと捕まえるチャンスを窺っていた。本当に可愛い子ね、お前は。せっかく逃げだせたのだから、見て見ぬふりをして何処か別の場所に逃げればいいものを、ああやって月の城に素直に向かってしまうなんて」
「月には――」
言いかけたところで、彼女の爪が胸元に当てられた。躊躇うことなく傷つけられ、赤い血がすっと流れ出す。その血を食虫花はそっと舐め取っていった。
「お前が逃げたのは想定外だったけれど」
食虫花がふとあたしに語りかける。
痛みと酔いでぐらぐらとした視界の中で、あたしはどうにか食虫花の言葉を聞いていた。彼女は再びあたしの身体を爪で裂いた。
「お前が記憶をなくして森を彷徨いだしたことも、月に好かれて愛され始めたことも、私にとっては好都合だったわ」
食虫花が密着してくる。
甘過ぎるその匂いは吐き気がしてくる程だった。けれど、抵抗が出来なかった。何も出来ないまま、あたしはただそこにいた。
「お前を預かったと月には知らせた」
その言葉を聞いた途端、淀みかけていた思考が急にはっきりとしてきた。
「会いたければ一人で来るようにと知らせた」
「何を……」
するつもりなの、と言う暇もなく、食虫花はあたしを抱きしめたまま、あたしの背中を爪で裂いた。痛みと共に血がどくどくと流れ出す。
密着すると、食虫花の鼓動が早まっているのが分かった。何かを我慢している。前にもこんな事はあった。彼女は何かを我慢しながら獲物と接する。
その我慢が解かれた時が、獲物の命が消える時。
「月は来るでしょうね」
食虫花はそう言いながら、指についたあたしの血を眺めていた。
「お前みたいな小さな虫けらのために、自分が女神であることを忘れて、剣を携えて、私を討伐しに来るでしょうね」
「そんな」
「私は負けない。今度こそ月の命は貰う」
食虫花は断言した。それは、呪いでも込められているかのような声だった。
「お前のせいで月の大地は終わる。女神の命は私のもの。月は私には敵わない。お前を盾にすれば月は何もできない。ただ黙って屈服するでしょうね」
「そんなことって……」
「お前を食べるのはその後よ。月の大地が枯れていくのを眺めながら、ゆっくりと存分に楽しませて貰うわ」
消えてしまいたい。
その時、間違いなくそう思った。泡となってこの場で消えることが出来たらどんなにいいだろう。この状況を無かったことに出来たらどんなに幸せだろう。
助けに来ないでいい。
月が無事ならそれでいい。あたしの事は諦めて、城に留まっていて欲しい。自分の未来を諦めるなんてことは想像も出来ないほど悲しいことだった。
華に会いたい。月に会いたい。
でも、今ここで、一人きりで死んでしまった方が、月を守る大きな手段となるかもしれないとあたしは思い始めていた。
生きた状態のあたしを見れば、月はきっと躊躇うだろう。
食虫花の言いなりになってしまうかもしれない。
それではいけない。あたしに出来るのは、月に、あたしの事を諦めてもらうことだ。救ってくれなくていい。足を引っ張るくらいなら、救ってくれなくていい。
「蝶」
短い声が頭に響いた。
食虫花の表情から一切の笑みが消えていた。脅しとも、苛立ちとも取れるその表情が、あたしの目に深く焼きつく。
「お前、もしかして、死にたいとか思っている?」
頭の中にまで響く声。その声に揺さ振られると、体中に痛みが走った。
「例えお前が自ら死んだとしても、私はお前を利用する術を知っている」
食虫花の温もりが肌を刺してくる。
その吐息が項にかかり、寒気が生まれた。
「お前の亡骸を見れば、月は動揺する。その動揺こそ、私の突くべき場所」
それは安易に想像できる事だった。
あたしの外出を止めようとした月の姿が頭を過ぎる。
――あたしは本当に馬鹿だった。
月の忠告を払いのけたがために、こんな事になってしまうなんて。
再び身体に触れられて、濃すぎる蜜が体内に流しこまれる。身体が火照り、血と共に汗が噴き出た。味わえば味わうほど、あたしは動けなくなっていく。蜜がこんなにも身体に害を及ぼすものだなんて、あたしはこの女を知るまで知らなかったのかもしれない。
荒くなっていく吐息。その胸の上下を確認するように、食虫花はあたしの胸元にそっと手を置いた。
「さあ、どうするの?」
食虫花は訊ねてきた。
「それでも死にたいのなら今ここで殺してあげる。その方が楽だわ。お前の亡骸を月に見せつければそれでおしまいだもの」
どちらにしても、あたしが月にもたらすものは絶望でしかない。
それなら。
「死にたくない」
あたしは正直に言った。
「月に会いたい」
魔女に引っ張り出されたのは、本心からの願いだった。
食虫花の手があたしの身体を撫でていった。
「お前は本当に馬鹿な子ね」
食虫花は感情のない声で言った。
「せっかく月に知らせに行ったのに、月を誘き出す餌になってしまうなんて」
その言葉が終わる時、あたしの身体には新たな傷がつけられた。