1.華
◇
「君は売れ残ったわけではない」
わたしの手を引いて歩く青年は、昨夜もそんな事を言った。
太陽の光のような黄金の髪は長く、背中で一つにまとめられている。それが獣の尻尾のようにひょこひょこと動くのが面白くて、わたしは全く退屈しなかった。
歩きだしてからすでに三時間ほどは経ったのではないだろうか。それでも、この美しい色彩の森は終わらず、わたし達の目指す場所もなかなか見えなかった。
目的地となる場所をこの目で見たのは森に入る前の事だ。
夕暮れに浮かび上がるような古めかしい城の形は今でも鮮明に思い出せる。
月の城というその場所。
そこに住まうのは月と呼ばれる女で、生き神であり、とても尊くて恐れ多い存在であるのだと青年は言った。
そこにわたしは売られることになっていた。
一カ月ほど前、城の使いと名乗る者が花の注文に来た。
花売りの青年はとびきりの人工花を用意すると告げて、わたしを選んだ。けれど、わたしは自分に自信がなかった。
わたしと同世代の人工花達はとっくに売られてしまっている。
わたしだけが買い手もつかず、華という名前までつけられて、花売りの家の中で居候する羽目になっていたのだ。
――至急、年頃の人工花が欲しい。
それが、そんな花売りの家に舞い込んできた注文だった。その条件にぴったりと合うのがわたししかいなかっただけだ。
青年はわたしに何も語らなかったけれど、そんな事情はよく知っていた。
いちいち説明されるまでもないこと。
それでも青年は、わたしを何も知らないと思っているかのように勇気づけるのだ。
「市場で君を誰も買わなかったのは、皆、君の魅惑的な容姿に遠慮してしまったからさ」
売れ残った夜、わたしが華という名前をもらったその夜に、彼は優しくそう言った。
わたしの銀髪を撫でながら、彼は始終微笑みを浮かべ、崩さなかった。
「心配せずとも華はきっと大物になる。もう少し大人になる頃には、もっと凄い家に買われる事になるさ」
「けれど、兄さま? わたし、花と言うものは早く売られてしまう方が魅力的なのだと聞かされてきました」
「おやおや、誰にそんな事を聞いたんだい?」
「お母様がそう言っておりました。でないと、お母様のようになってしまうのだと。お母様のようになってはいけないとも言っておりました」
わたしがそう言うと、花売りの青年は深く溜め息を吐き、小さく唸るように、或いは、困惑するように母の名を呟いたのだ。
「――ともかく、いくら自分の母親だからといって彼女の話を盲信するのは間違いだ。君の主人は今のところ私であるのだから、私の言う事を信じていなさい」
冷静に落ち着いた声で言われ、わたしは深く肯いた。
それが、つい二カ月ほど前の事だった。
その時は、こんな未来なんて予想すらしなかった。
今から向かう場所を想像し、わたしは緊張していた。わたしだけではなく、花売りの青年もまた緊張していた。
月という名の女神は、わたしを気に入ってくれるだろうか。
条件は年頃の人工花というだけであったが、どうして突然そんな注文を寄こしてきたのだろう。
人工花が欲しい者は春一番の市場に赴く。
そこで花売りの連れた人工花の子供達を眺め、自分の気に入った花の子をそれなりの価格で購入するものだった。
わたしもまた、同世代の花の子たちと共にこの春に市場に赴いた。
客の受けは決して悪くなかったと思う。市場に訪れていたいい恰好をした人間達がわたしの顔をよく見つめ、よく触り、花売りの青年に何やら話しているのも目にしていた。
けれど、どういうわけか彼らはわたしを買ってくれなかった。
同世代の花の子たちがどんどん売られていくのを見ていると、わたしの中には不安ばかりが募っていった。
どうしてわたしは売れ残ったのだろう。
その理由は分からないままだった。
青年も教えてはくれないし、わたしも訊ねはしなかった。ただ、寂しかった。仲間達は皆売られたのに、一人だけ寂しく青年の家に戻る羽目になったのが悲しかった。
そんなわたしが女神に売られることになった。
嬉しさの反面、恐ろしさもあった。
わたしは、どうして自分が売れ残ってしまったのかを未だに知らないままだ。
もしかして、人工花を購入する者が見逃せないほどの欠点がわたしにはあるのではないだろうか。だとすれば、女神と称される女がわたしを買ってくれるはずもないのではないだろうか。
この不安を度々花売りの青年に直接訴えた。城からの注文を受けて、わたしが連れて行かれる事が決められた日からずっとだ。
けれど、その度に青年は「大丈夫」とだけわたしに言って頭を撫でて笑みを浮かべるのだ。
わたしにはその笑みが、誤魔化されているようにしか思えなくて不満だった。
「華、ほら、見えてきたよ」
青年に言われ、わたしはハッと顔を見上げた。
いつの間にか青年の家の壁に掛けられていた絵画のような森が分かれ、その美しい命そのものが宿る緑の色彩の向こうに、あの神々しい城の足元があるのが見えていた。
あれが月の城。
開けっぱなしの門と高い壁の向こうに、異世界のような庭が広がっているのがここからでも見える。
神々しいのに、不思議と寂しい。
門は開けられているのに、まるで大きな檻のように見えてしまうのは何故だろう。
ふと、青年の手に力が籠ったのを感じた。
「さあ、あと少しだ」
わたしの反応を待たず、彼はわたしの手を引っ張って再び歩き出した。
◇
応接間。
女中が通してくれた部屋はそう呼ばれていた。
その言葉の意味は分からないけれど、その応接間という部屋には様々な飾り物があって、賑やかなものだった。
けれど、その賑やかさは何処か不自然だ。
まるで何もかもが幻であるかのように心が宿っていない。生きているはずの観葉植物ですら、造花であるかのようにそこにいる。
馬鹿なわたしでも、なんとなく分かることがあった。
彼らは決してこの部屋の主に好まれて置かれたわけではないのだ。誰かに好まれて置かれたわけではなく、ただそこに置かれているだけ。
「長旅御苦労」
応接間全体に、女の声が響いた。
わたしは花売りの青年と共に頭を下げていた。
そのわたし達に声をかける女は、豪勢な装飾の椅子に座っている。ただ座っているだけ。美しい声だが非常に気だるそうだった。
「本当なら私から出向きたかったが、城の者が出してくれないのでね」
自嘲気味に女は一人で笑っていた。
何がおかしいのかさっぱり分からない。花売りの青年もまた、じっと表情を変えずに頭を下げ続けている。
「ああ、すまない。顔を上げてくれ」
女がそう言って、やっと青年は顔を上げた。
わたしもそれに倣って顔を上げ、女の姿をようやく見ることが出来た。目にした途端、その美しさに息を飲んだ。
彼女は着飾ってなんかいない。
長い髪もただ下ろしているだけで、まとめようという努力の後も見られない。装飾も全く身に付けておらず、着衣も非常にシンプルなドレスのみだった。
ただ、そのドレスに包まれる肌が月の光のように白く、こちらをじっと見つめているその目は、夜空のように深みのある色を浮かべているのだ。
この女こそ、月。
この辺り一帯に広がる、月と名のつく大地に住まう生き物達から崇拝される生き神と呼ばれる者だ。
「ふうん。その子が人工花か……」
月は首を傾げる。
肩にかかっていた長い髪がだらりと下がり、妙に色気が生まれた。
「本当に人間の少女と変わらない見た目をしているんだな」
同意を求めるようなその視線に、花売りの青年はしっかりと頷いた。
「ええ、見た目は変わりませんが、人とは違う生き物です。我が家に代々続く月下美人によく似た白い花の家系の血を引く歴史の古い人工花で、両親ともに……」
と、青年の長い説明を月は片手で制した。
「説明はそのくらいでいい。その子を買うかどうかは、実は私が決める事ではなくてね」
そう月が言った時、応接間の扉がノックされた。
入れ、という月の短い言葉の後に、ゆっくりと扉は開かれた。
現れたのは若い女中に連れられた娘。わたしよりも少し年上で、月よりも少し年下といった所だろう。
けれど、問題はそこではなかった。
恐る恐る部屋に入るその娘には不思議な魅力があった。見る者を魔法にかけてしまうかのような可愛らしさ。
人間と変わらない姿をしているけれど、彼女もまた人間ではないと直感で分かった。
「そちらは……」
花売りの青年が目を丸くしていた。
この人間でない娘の正体を知っているらしい。
「驚かせたな。今回の注文はこの子のためだ。気に障ったか?」
「――い、いいえ。滅相もない」
月の視線に慌てて首を振る花売りだったが、その手がそっとわたしの手を掴んだ。まるで警戒しているかのような素振り。
その無意識の素振りは、月にも伝わっていた。
「嫌なら他を当たるが……」
「い、いえ、そういうわけでは……」
「それならその手を放して、その子をもう少しよく蝶に見せてやってくれないか?」
蝶。
それが、この娘の名前なのだろうか。
花売りの青年はやや躊躇いつつも、わたしから手を離した。青年を振り返ろうとしたが、彼は視線だけでそれを制してきた。
月は静かに目を細めた。
「蝶。見てみなさい」
月に言われるままに、蝶はわたしに近づいてきた。
何故だろう。近づかれると、得体の知れない緊張が生まれてきた。不思議と身体が強張る。その美しい手に触れられると、思わず声が漏れだしそうになった。
間近で見れば見るほど、蝶は月とはまた違った魅力のある娘であることが分かった。
愛らしく、魅惑的なその姿。ひと目で心を奪われてしまいそうなその眼差し。それなのに、奇妙な恐れが生まれるのは何故なのだろう。
花売りが彼女を警戒しているのと何か関係があるのだろうか。蝶に触られながら、わたしはじっと時間が過ぎるのを待った。
「――月」
蝶の唇から繊細な声が零れた。
少しの衝撃で壊れてしまいそうなほど繊細な硝子細工のような声だった。彼女の温かな色の目がじっと月を振り返る。
その手はわたしの肩に置かれたままだった。
「あたし、この子がいい」
その言葉の意味ばかりは、わたしでもすぐに理解出来た。
◇
花売りの青年が帰っていく姿が窓硝子から見えた。
華という名前をくれて、生まれてからずっとわたしの成長を見守ってくれた彼との別れは、恐ろしいほどにあっさりとしたものだった。
寂しさを感じない。わたしはもう売られてしまったのだ。わたしの主人は月という女神であり、もう彼ではない。正式な主人の住まう城にいる限り、わたしは寂しくない。
母も過ごしていた生家の事や、育ての親でありこれまでの主人でもあったはずの青年の本人の事はこれっぽっちも恋しくなかった。
そういうものなのだとわたしは知っていた。
単に人工花としての宿命と受け容れているだけの話ではなく、わたし達全てに共通する特性のようなものだと思っている。
それよりもわたしはまだ不安だった。
新しい主人の機嫌を損ねないでいられるかということが。そして、主人の傍に寄り添い、わたしの購入を決めてくれた娘の存在が妙に気がかりだった。
蝶と言う名のその娘は今、わたしのすぐ傍にいる。
人間離れした美しさを秘める年頃の娘。
大人になるかならないかの瀬戸際にいると思われるその姿。人工花には無い類の美しさと可愛らしさを宿したその姿は、血の通った人形のようだった。
「寂しくはないの?」
か細い声で蝶は訊ねてきた。
「あのお兄さんとずっと一緒だったのでしょう?」
「ええ。でも、全く寂しくありません。だってわたし、花として買われたのですから」
それは、偽りのない言葉だった。
人工花として売れ残った時の事を思い出すと、この上ない幸運に思えてならない。
「これから宜しくお願いします。お嬢様」
主人でない蝶を何と呼ぶべきか。こういう時はお嬢様でいいと花売りは言っていた。
その教えに従ったのだが、蝶は何故だか首を傾げた。
「華……だったかしら?」
蝶に名前を呼ばれると耳をくすぐられるような気持ちになった。
そんなわたしの戸惑いを分かっているうえなのだろうか、蝶はそっとわたしに近寄ると、じっと眼を合わせてきた。
密着すれば、彼女が人形なんかではなく本当に生きているのだということを教える温もりが伝わってくる。その温もりを味わいながら、わたしはじっと蝶の言葉の続きを待った。
「敬語じゃなくていいのよ」
蝶はわたしを見つめて言った。
「あたしの事は蝶とだけ呼んで」
「……でも」
「いいのよ。あたしも貴女と同じ。月に拾われて、月に囲われているだけの存在なの」
薄っすらと笑みを浮かべる蝶の幽玄な姿はうっとりとしてしまうほどだった。
囲われている、となれば、やはりわたしよりも立場は上だろう。
花売りはそう教えてくれた。けれど、その立場が上の者からの要望を無視する事も失礼にあたることだ。
「……分かった。よろしく……蝶」
「よろしく」
にこりと笑いながら蝶は言った。
その笑みはとてもさり気なくて、気をつけないと消えてしまいそうなくらいに危なっかしい美しさを持っていた。