安寿 2 女は愛を糧に生きる
安寿は安房北条藩主、水野忠近の娘として生まれ、皆にかわいがられて育った。特に生母が同じすぐ上の兄、正成は、ことのほか、安寿を大事にしてくれた。
まだ、十四の春、近江水口藩の加藤家が安寿への縁談の話を持ち掛けてきた。この華やかなめでたい話に水野家は沸き立った。
戦国の世とは違って、嫁入りは人質替わりではなくなっている。それに水口藩は豊かなところだと聞いている。安寿の父は、加藤家と縁を作っておけば何かと有利だと考えていた。
しかし、この時、安寿の夫となる明知は体が弱いということもわかっていた。兄の正成は、しきりに明知との縁談を断るように言っていた。
熱が出ると寝込んでしまうような軟弱な御仁は、いつ命が尽きるかわからない。そんなところへかわいい妹をやれないと言った。つらい思いをさせたくないと。
それを聞いた忠近は、それも一理あると考えた。
父は、「それならば安寿に決めさせればよい」と言った。明知との縁談は、安寿の胸一つとされた。
皆の戸惑いとは裏腹に、安寿は明知との縁談の話が舞い込んできた直後から、恋をし始めていた。もう心の半分は、まだ見ぬ明知を偲んでいたから、この兄の反対に衝撃を受けていた。
安寿はすんなりと、この勧められた縁談を承知するつもりだった。しかし、兄の心配もわかる。他の家へ嫁ぐことになるのだ。その唯一頼りになる夫が、もし早く亡くなったとしたら、残りの生涯をずっと独りで過ごすことになる。
もしかすると、体の弱い夫のことを心配し続ける人生となるかもしれなかった。
そんなある日、ご正室の信子と母の美登里に呼ばれた。
周囲はすぐに安寿がこの縁談を断ると、そう思っていたらしい。しかし、なかなか返事をしないため、正室と側室の母が安寿の心を知ろうと呼びつけていた。
「殿が、安寿の心次第と申された。輿入れはおなごの一生の問題。断ってもよいのだぞ」
信子がそう優しく言ってくれた。安寿が遠慮して、この話を断れないと思っていたようだ。
それに気づき、はっとした。安寿は信子と母を見た。安寿の心は違っていた。
安寿は信子を見て、きっぱりと言った。
安寿がこの正室に、こうはっきりと物を言うことは初めてのことだった。側室の娘として、いつも控えめにし、まともに目を合わせたこともなかったように思えた。
「つらい思いや苦労をしない人生など、どこにもございませぬ。そのつらいことがわかっているのなら、それを逃れる道も見つかりましょう。それが出来ぬのなら、それを受け入れる覚悟もできましょう。体が弱いとされている明知様に、安寿が妻としてそのお体をいたわることもできます。そして、人の命がいつ尽きるなど誰にもわかりませぬ。達者な者でも突然、逝くこともございます。もし、その時が来たら、それも宿命と考えます。もちろん、今の安寿にはまだその覚悟はできてはおりませぬが、そう思ったのでございます。ぜひにもこのお話、お受けしたいと思っております」
物怖じせず一気に言った。それが安寿の心の内だった。具体的にそう考えていたわけではないのに、語り始めたらいつの間にかそう口に出ていた。
二人の母は、驚いて安寿を見ていた。まだ子供だと思っていた姫が、まだ顔も知らない御仁に恋をしていると知った。
「それに・・・・、お体が弱いなどとはじめから正直に伝えてくれた加藤家には誠実さがございます。普通はそういうことは伏せてしまわれます。それを明かしてくれた加藤家をも信頼いたします」
母が「あっ」と声を上げた。
縁談は普通、良いことは相手に言うが、都合の悪いことはどうしても伏せてしまう。そして、輿入れが済んだところで打ち明けるという話を聞いていた。
「そして、体が弱いなど、なにかの負を背負ったお方は、人の痛みもわかると思うのです。この明知様はご幼少のころから苦労をされていると思います。やさしいお方だと思うのです。もし、そうでなかったら、心を病んでいる、それならばわたくしにも何か手を差し伸べることができるかもしれませぬ。少しでもそのお心が軽くなられるようにと」
その時の安寿はそう考えていた。それが難しいことであるとわかっていた。でも、本気でそうしたいと思っていた。
母が信子を見た。何かを確信した顔だった。信子も満足そうにうなづいた。
「安寿、よくぞ申した。それでこそ、我が殿の娘じゃ。わらわも鼻が高い。美登里もよくぞ、このようなできた姫を産んでくれたのう」
「お方さま、もったいないお言葉・・・・・・」
母は信子の言葉に涙ぐんでいた。
それで話は決まったと思った。しかし、兄の正成は怒り狂っていた。なぜだと食い下がった。目の前に見えている不幸の渦に、わざわざ飛び込むのはばかげているとも言った。
「安寿にはわかるのです。それがわたくしの歩む運命の道だと」
「運命だと? 今なら断れば断れる、回避できる運命なのだぞっ」
「はい、存じております。それを受け入れ、その道を行くことに決めました。この運命はわたくしが自分で決めたのでございます」
それでも兄はまだ何か言おうとしていた。安寿はその前に今までにない厳しい顔をして見せた。
「兄上は、この安寿のためと申されますが、長い生涯ずっと、安寿が不幸だと思うすべてのことを取り除いてくれるのでございますか?」
正成は、安寿のその態度と言葉にたじろいでいた。
「あ、まあ。できる事ならそうしたい。それが兄の願いぞ。身内ならば当然のこと」
「兄上のお気持ちは大変ありがたいと思っております。けれど本当に安寿のことを思っていただけるのなら、温かく見守ってほしい、それだけでございます。目の前にある石につまづくかもしれないと一つや二つの石ならば取りのけることもできましょうが、ずっと続く道、それがいつまで続きましょうか。本当にわたくしのことを思っていただけるのなら、わたくしがその石に転んでも起き上がるところを見守っていてほしいのです。そういうことも身内の愛情だと思います」
兄は言葉に詰まっていた。安寿はもう何も言わず、黙って座っていた。
兄はわかってくれると思っている。もう明知のところへ輿入れすると決まっていた。兄がいくら反対しても行くのだ。だが、安寿はこの兄に祝福してもらい、この屋敷を出たかった。
やがて、兄が根負けしたという表情を見せて言った。
「あの小さな、泣いてばかりいた姫がなぁ。いつもわしの後ろにくっついていた姫が、いつの間にこんなにりっぱになって。もう安寿は、わしの小さな妹ではなく、加藤家に嫁ぐご正室の顔をしている」
兄が笑った。わかってくれたのだ。
十五の春、こうして安寿は近江水口藩の加藤明知のところへ輿入れした。
駕籠の中で、正室が最後に安寿に言った言葉を思い出していた。
「安寿はもう明知殿を慕っているが、あまりにもその想いが強いと後でこんなはずではなかったと後悔することもあろう」
安寿には、正室の言っていることがわからなかった。
「よいな。婚礼の儀の最中も花嫁は、ずっとうつむき加減でいるのじゃぞ。そして、夫となる明知殿を見てはならぬ。よいな」
「はい・・・・・・。しかし、なぜでございますか」
安寿としては、すぐにでも顔を見たいところなのに。
「初夜をむかえた翌日ならば見ても良い。それまでは、ただうつむいて、その気配を感じるのじゃ。隣に座って、うかがえる仕草、その声、話し方などそのすべてに意識をむけて恋をするのじゃぞ。今の想像の明知殿ではなく、実物にな。そして、その夫を受け入れ、妻となってから、そのお姿を見る。そうすれば、夫がどんなお姿であっても受け入れることができると、わらわはそう教えられて、ここへ嫁いで参った」
「お方様が?」
「そうじゃ、姫という立場のおなごは、皆、縁談が決まった時から、まだ見ぬ御仁を夢描いている。しかし、もしその夢と現実があまりにも違っていたらどうする? ずんぐりむっくりのあばた顔の御仁であったとしたら」
そうだ、そんな可能性もあるのだ。安寿はゴクリと喉を鳴らす。
「悪いお人ではないにしても、がっかりすることだろう。それはその御仁のせいではない。勝手に思い描いていたこちらが悪い、そうは思わぬか?」
「はい」と、言うほかなかった。
「向こうも同じことを考えていたとしたらどうする。美しい姫だと勝手に思われて、顔を見た途端、しかめられたとしたら、安寿も嫌であろう。もうそこで二人の間に見えない亀裂が生じるのではないか。まあ、安寿ほどの美貌であれば、向こうも嬉々としていると思うが」
本当にその通りだった。どうしても頭の中での明知は、安寿の理想とする御仁だった。きりっとしたお顔、兄のようにやさしく、安寿を守ってくれる、わがままを聞いてくれる、そんな人を想像していた。
もし、全く想像と違っていたら、がっかりすることだろう。それは明知の責任ではない。安寿の勝手な思い込みのせいなのだ。
「おなごとはな、愛を糧に生き、愛を人生の道しるべにする。そして愛があれば、どんな窮地にも立てる強さを持つことができるのじゃ。輿入れしたら、夫となる明知殿を愛せよ。そして、至らぬところがあれば、片目をつむり、喜ばしいことは必ず褒めるのじゃぞ」
有難いお言葉だった。
安寿は言われた通り、始終うつむき加減で婚礼の儀を済ませた。周りには初々しく奥ゆかしい姫だと囁かれた。
隣に座る明知は、長身のようだが、その身は細い。その声や話し方は、相手のことを思いやるやさしさがあると感じた。決して無理に自分の意見を押し通すような傲慢さはなかった。
そして、月明かりの下の明知は、穏やかで優しそうに見えた。顔まではわからないが、安寿に笑いかけてくれたのがわかった。白い歯がのぞいていた。
その影が近づき、安寿は目を閉じて横たわった。
その影に恋をした翌日、安寿は目覚め、横に寝ている明知を見た。許される瞬間だ。明知も安寿の気配に目覚めていた。
二人、横になったままで見つめ合った。
安寿には信じられなかった。このように美しく、やさしく微笑んでくれる御仁が、自分の夫なのだということが。
この御仁と生涯を共にする、いや、共に過ごすことができるのだと思うと、嬉しくて胸が震える思いだった。
あの時の安寿は最高に幸せだった。安寿の目から涙がこぼれた。
安寿は思い出していた。どんなに明知のことを想っていたか、どんなに愛おしいと思っていたのかを。
他の人は関係ない。八千代のことも考え過ぎていた。重要なのは、安寿が明知のことを愛していること、それだけだ。それさえ自分がわかっていれば、ぶれることはないのだ。
周りがなんと言おうと、誰が明知を好きであろうとも、安寿は自分の心を疑ってはいけなかった。
雪江が紅を置いていった。
雪江を火事の夜、助け出したという行商人が来ていたのだろう。
その紅は、燃えるような真紅だった。おとなしい色が好きだった安寿にはその激しい色は似合わないと思っていた。
しかし、今はその色を見た時から惹きつけられていた。つけてみたいという衝動にかられた。
締め切っていた廊下側の障子を開けるように言った。
ずっと詰めていた奥の座敷の襖も開ける。眩しいほどの冬の長い日差しが差し込んできた。
安寿の中の何かが変わった。心の奥、どん底まで落ちたということなのだろうか。この紅がきっかけになっていた。
手鏡を前にして、その紅を付けてみた。
その顔を見て、侍女の奈津がほぅとため息をもらした。それほどに、今の安寿には真紅の口紅が似合っていた。
八千代とは、今度こそうまくやっていけると思った。安寿のために、おなごとしての心を殺して生きるのではなく、お互いに明知を愛し、それぞれの子を一緒に育てていきたいと思っていた。それは言うほどに簡単ではないと思う。嫉妬もするだろう。口を利かぬ時もあろう。しかし、お互いに正直に生きる、その方が信頼できると思った。
そして、その子供たちの母になる。それぞれの子供には二人の母がいるのだ。安寿がそうだった。ご正室と生母である側室の母。二人の愛情をもらって育った。そんなふうにやっていきたいと思った。努力していきたいと思っていた。
夕餉前、いつものように明知が声をかけてくれた。安寿はそれを待っていた。甘えているかもしれないが、明知を待っていた。
「もしも明知様さえよろしければ、安寿の部屋でご一緒にお召し上がりくだされば幸いにございます」
と手をついて言った。
その晩、安寿は一人で考えていた。まだ、明知と夜を過ごす勇気がなかったが、それもすぐに迎えられると確信していた。
女人の紅だけでなく、化粧というものはやはり、何か魔力があると思う。その顔を美しく見せるだけではなく、本来持った気性をも変えてしまう何かがあると思った。
この紅のおかげで、一歩が踏み出せた。暗闇に閉じこもりのその中から抜け出ることができた。
雪江はなぜ、あの力強い色を選んでくれたのか。安寿に、心強くあれ、と語られているような気がした。
つけてみて、安寿自身、新たな自分になれた気がした。
きれいな人なのに、ものすごいキツイ化粧をする人を見かけました。まるで他人を威嚇するかのような化粧に振り向いてしまいました。
「なぜ?」という疑問。なんとなく、答えがわかりました。
自分の中にある弱さを人に知られたくない。だから相手に悟られないように、強さを表すようなキツイ化粧をするんだと感じました。
普通の化粧は、周りの人への気遣いです。私は・・・・・・気遣いしてないかも。