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安寿 1

 もう何日が過ぎたのかわからない。座敷の奥へ閉じこもったまま、数日がたっていた。


 初めは頭が痛いと言って臥せっていた。あの時は本当にそうだった。今は、目覚めると現実が待っていた。考えたくもない現実が。それだけで気分が悪くなった。

 夜が明けないでほしいと願ったりもした。それでいて眠れないでいる。暗闇に一人でいると、思い出したくないことばかりが頭の中を行き来していた。


 食事は、侍女が涙ながらに食べろと言うので、仕方なく運ばれたものを少し口にはしている。座敷から一歩も出たくないのに、御不浄ごふじょう(お手洗い)へは行かなくてはならない。湯あみもひっそりと済ませていた。

 眩しい陽の光に顔をしかめながら、安寿はよろよろと廊下へ出る。

 頭の中がぐるりと回り、自分の頭がどこを向いているのかわからなくなった。倒れると思った。


 その次の瞬間、侍女の奈津がさっと後ろから体を支えてくれて、安寿は倒れることは免れた。しかし、力なく、その場に座り込む。

「姫様っ」

「奈津、うろたえるな。大丈夫じゃ」

 安寿は頭に血を登らせるために首をぶんぶんと振り、顔を引き締める。そしてすっくと立ち上がった。


 心配性の奈津は、安寿のそんな姿にもうオロオロして涙ぐんでいた。きっと安寿が寝込んでいる時も泣いていたのだろう。目の前に自分よりも慌てふためいている人がいると、なぜか自分がしっかりしなければいけないと思い、心が少し落ち着いてきた。


 明知は、朝餉と夕餉の前に必ず、安寿の座敷の前で声をかけてくれていた。

「気分はどうだ」、とか、「一緒に食べよう」と言ってくれる。

 しかし、そんな明知にもまだ、安寿は顔を見せてはいない。今更、どんな顔をして会えばいいのか、どうやってその言葉に甘えればいいのかわからなかった。


 御不浄から戻って来た時、雪江が安寿の座敷の前で待っていた。にっこり笑いかけてくれる。その笑顔は、陽の光よりも眩しすぎて、まともに見られなかった。

 目を伏せ、会釈だけしてその前を通り過ぎた。後ろにいる奈津が、申し訳なさそうに深々と頭を下げていた。

 安寿が座敷に入ろうとしたとき、雪江が独り言のようにつぶやいた。


「そうして怒ったり、悩んでいるのってさっ。明日があるからだよね」


 安寿の足が止まった。


「明日があるから、大好きな人とも顔を合わせないでいられるんだよね」


 雪江は何がいいたいのか。

 明日があるのは当然のこと。だから安寿は朝が来なければいいと願っていた。そして翌日の陽の光を見ると、その現実に落胆する。そういう事を繰り返していた。

 安寿は雪江の方を見なかった。しかし、全身が耳になったかのように、雪江の言葉に聞き入っていた。


「私の知っている人、自分の命が尽きることを知ってる。それもそう遠い先のことじゃないって。だから、毎日を大切に生きてるの。死ぬことは怖くないって言った。でも、何よりも心残りなのは、大好きな人と別れなければならないこと。一生を添い遂げられるって一緒になったのにっ、てね」


 安寿はそのまま立ち尽くしていた。動けないでいた。


「ねえ、もし、明日が来なかったらどうする? 今のままで終えるつもりなの? 明日じゃなくて、あと一年しか大好きな人と一緒にいられないとしたら・・・・・このままでいいの? このままでいられるかな」


 一年しか一緒にいられない。その相手とはもちろん、あんじゅにとっては明知のことだ。

 明日が来るのが苦痛だったはずの安寿だが、もう頭の中は明知のことを考えていた。


「私は絶対に一緒にいる。向こうが鬱陶しいって言ってもまとわりついて、離れないよ。ねえ、考えてみて。あ、そいで、これ」


 奈津が、あわてて雪江の差し出したものを受け取る。

「悩むことも大切だと思うけど、それをずっと悩んでいても解決しないこともあるでしょ。それだったらさ、悩むだけ損じゃん。時間の無駄。じゃ、またね」

 それだけ言うと雪江は行ってしまった。安寿の返事は求めなかった。



 安寿はまた一人、閉じこもっていた。奥の締め切った暗い座敷に座っていた。頭の中を、雪江の言葉が占めていた。その言葉の意味を考えていた。


 あの側室が来るまでは、すべてがうまくいっていた。義母の理子も優しく、安寿だけを見つめてくれていた。よく二人で珍しい菓子を食べ、笑いあった。

 しかし、理子は側室である八千代を気遣った。なぜなのかわからなかった。理子も側室のことで苦労していたから、正室である安寿の味方をしてくれると思っていた。それなのに、事あるごとに八千代も呼ぶ。今まで理子と二人のお茶会が、三人となっていた。


 八千代は、安寿から見ても美しく明るく心惹かれる女性だった。

 その当時、十五の安寿と十九の八千代。四つの違いは大人と子供だった。八千代は、国許の城に仕えていたおなごと聞いていた。

 生まれながらの姫で、すべて侍女にまかせっきりの気の利かない安寿とは大違いだった。理子が立ち上がれば、すぐさま横に立ち、そのお手を支える。お茶がぬるい時は、それとなく控えている侍女に申し付け、入れ替えさせた。その侍女が叱られないようにとの配慮だ。女中上がりの八千代は、安寿の目から見ても、よくできたおなごに見えた。理子も気に入っているのがわかった。

 その八千代が、明知の相手をしたら、と考えた。そこで安寿の思考が止まった。あの愛する明知が他のおなごに触れる? 安寿以外の女人を、あの美しい八千代を抱く・・・・・・。

 そう考えただけで、頭の中は真っ白になった。腹の底がせり上がって来るような思いになり、吐き気を覚えた。ものすごい嫉妬の念が沸き起こった。


 八千代は、正室と側室との無益な争いをしない。八千代は女人としての心を殺してきている、そう聞いた。初めは安堵した。明知の心は安寿のもの、そう考えていいと思った。しかし、すぐに疑問がわいた。

 おなごにそんなことができるのか。

 人の心の中などはわからない。顔で笑っていても、心の中では憎んでいるかもしれないのだ。だから、八千代が明知のことを愛さず、子だけをなすつもりでも、いつの間にか愛してしまったら、と考えた。自分の心さえ、ままならないこともあるのに、人にそう命令されて心が殺せるのか、絶対に無理だと考えた。

 あの明知に優しくされて、心を動かされないおなごなどいないと思う。そして自分の子を盲目に愛するのが母親だろう。

 側室との無益な争いを避ける、そんなことは無理なのだ。


 火事の後、下屋敷に移り、安寿はますますふさぎ込んでいた。今のように自分の座敷に閉じこもった。あらゆるところに人がいた。そして笑っている。その笑いが自分に向けられているのではないかと疑いを持ったこともある。人が信じられなくなっていた。明るく笑う自分はそこにはいなかった。


 正和と雪江のところへ世話になり、少しは心も癒えたが、雪江も皆と同じようになっていた。

 雪江だけは味方だと思っていた。今まで誰にも言わなかったことをすべて打ち明けたのに。それなのに義母と八千代に言いくるめられて帰ってきた。

 がっかりした。雪江は他のおなごと違うと思っていたのに。この安寿の心を察して、一緒に泣いてくれるかと思ったのに。

 その笑顔が眩しくて、まともに見られなかった。その笑顔だけではなく、その存在もすべて拒否したくなっていた。


 雪江にはわからない。

 明知と同じ顔をした元気な正和を独り占めしているのだ。上屋敷には、実の父がいる。誰にも気兼ねなくいられる、そんな恵まれた雪江にこの安寿の気持ちなどわかるわけがなかった。

 しかし、雪江はそんな安寿の荒々しいむき出しの感情にも怯まず、毎日声をかけてくれる。


 雪江は今日、意味深いことを言って去って行った。もし明日がこなかったら、いや、もしこの命があと一年しかないとしたら、それでも今のように明知を拒否するのかと。



安寿の話、まだ続きます。重くてごめんなさい。このあとには軽い話が用意してありますので。

何年か前、自己啓発本にハマりました。むさぼるように読み、「なるほど」と思ったものです。でも、何かの苦難に陥ると、「なんだ、あんなものをいくら読んでも心はつらい、読んでも無意味なんじゃないか」と思ったものです。そのうちにそれを何度も繰り返していくと、悩む時間が短くなっていることに気づいたのです。まあ、もともと「悩んでも仕方がないことは考えない」という主義でもありましたが、私も三次元に生きている身、悩むこともあります。無駄ではないかと思っていた本の知識も決して無駄ではなかったと気づきました。

言ってみれば、自己啓発本とか人生を語るようなものは、インフルエンザの予防接種に似ています。読んでいれば心の苦悩が軽減されると。悩むことは悩んでいてもその期間は半減されると。

読んでいなければその悩みに食い尽くされていたかもしれません。そしてそれも何度も繰り返されることによる経験で、軽くあしらえるようになることもわかってきました。

悩んでいないで、行動すること。喧嘩をして、気まずい雰囲気が続いていたら、まず謝る。そしてなぜ自分がこんなことを言ったのかを相手に知ってもらう。考えていても始まらない、行動に移すことが大切だという答えに達した私です。そして深呼吸をすること。

そんなことを考えながら、この安寿の話を書いています。

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