利久とお光の秘密
安寿はあれから、自分の座敷から出ないらしかった。侍女も困り果てていた。
雪江が、安寿の心の傷を無神経に引っ掻き回してしまったのだろう。本当に申し訳ないと思っている。安寿のことを考えると胸がズキリと痛む。今はただ、安寿をそのまま見守ることしかできない。
久しぶりに、雪江はお光のところを訪れていた。十日ぶりだった。
ずっと気になっていたが、安寿たちが雪江たちの屋敷に入ってきてからは、何かと忙しく、外へ遊びに出ることができなかった。その間、二度ほど徳田にクッキーなどを届けてもらい、様子を見てもらっていた。
今回の外遊びにも、また小次郎と徳田を従えての外出だった。これは龍之介との約束だから仕方がない。徳田の仕事の都合に合わせて、昼過ぎから夕方の仕込み前までに帰るということになっていた。
お光は元気そうだった。雪江を見るとはじけるような笑顔を向けてくれる。顔色もよく、今朝は洗濯もしたと言った。
「利久さん、今、江戸にいないんですか?」
「昨日戻ってきました。今日はいつものお屋敷周りをしております」
ということは、ここ何日かはお光一人だったのだ。昼ばかりだけではなく、夜もずっと一人ぼっち。無理やり来ればよかったかと思う。
お光がお茶を入れてくれた。今日はちょっと形がいびつになってしまったシュークリームを持参した。
「お光さん、一人で寂しかったかなって思って・・・・」
雪江が曇った顔で言うと、お光が笑って言う。
「大丈夫です。利久がいないときはお梅さんという商家のお内儀さんが遊びに来てくださるのです」
「あ、そうなんですね」
「はい、利久のお得意様で、本当によくしてくれて感謝しております」
そう言って、お光が両手を合わせた。
シュークリームを二人で食べる。
「雪江様は、本当に不思議な菓子をお作りになられますね。まんじゅうほどに甘くなく、柔らかくてしっとりとして」
お光の口に合うようだ。
雪江は嬉しく、まくしたてていた。
「じゃ、また、シュークリーム、持ってきますね。クッキーもサクサクしていておいしいでしょ。パウンドケーキにクルミを入れてもおいしいし」
調子に乗ってぺらぺらとカタカナを連発していた。あっけにとられるお光。
「あ、え~と、そう料理の本を書いてありました。南蛮とか外国から来たお菓子だから・・・・」
やばい・・・・かも。カタカナってやばい、誤解される。
しかし、困惑気味だったお光は、すぐにいつもの笑顔になった。
「雪江様は勉学に勤しんでおられるご様子。私の知らない言葉をたくさんご存じのようで」
と、この場の雰囲気が気まずくならないように、そう言ってくれた。
ほっとする。でも、どこで誰が聞いているのかわからないのだ。本当に気をつけないといけない。
「お光さん、ずっと家にいるの? たまには一人で近くのお店とか行く?」
話題を変えていた。
「いえ、私は一人ではなるべく出かけないようにしております。魚や野菜などは馴染みの人がここまで売りに来てくれるので、不自由はしません。何か欲しかったら、向かいのお内儀さんに頼むこともできますし」
そうだった。長屋はたくさんの世帯が住んでいるから、魚屋も長屋に売りにくる。親しくなれば客の注文に合わせて入荷してもくれる。
「でも、・・・・利久が三日以上いないときは一人でこっそりと出かけることもあります」
お光がおかしそうにコロコロと笑った。
「え? 一人でどこへ?」
「はい、橋向うの若松屋で売られている酒まんじゅうに目がないのでございます。それで時々買いに出かけます」
ペロリとかわいらしい舌を出した。
「へ~え、そんなにおいしいの」
実は雪江もまんじゅうは好きだ。祖母もよく食べていた。
「私達がこの江戸に住みはじめた頃、近所の人に頂いたのです。すぐに気に入り、利久が毎日のように買ってきてくれました」
「やっぱり、利久さんってやさしいんだ」
お光は嬉しそうにうなづく。
「昨日、帰ってからすぐに買ってきてくれて、そのうちの一つが残っております。半分、お召し上がりになりませんか」
お光がすっくと立ち上がって、茶箪笥の中から大きい酒まんじゅうを取り出した。
「これを少し火鉢で炙ると、すぐに周りがふわっとして美味しいのです」
お光が火鉢の上の鉄瓶を取り除けて、金網の上へまんじゅうをおいた。
「利久はいつも二個や三個買ってくるので、こうして温めて少しづつ食べております」
お光は、金網の上のまんじゅうを見つめながら、何かを思い出したのだろう、笑いながら語った。
「ある日突然、この滑らかなこしあんの中に、丸めた紙が入っていることがあったのです。それも利久が買ってきたときだけ何度も続いたものですから、これはまんじゅう屋のせいではないと思い、利久に問いただすと、私の病いを直すための願掛けでございました」
「そんな願掛け、あるんですね。あまり聞いたことないけど、そのなにかって、大吉とかのおみくじの欠片とか入ってたんですか」
そういうと、お光がなにかに気づき、はっと口をつぐんだ。
「あ、はい。まあ、そんなもので・・・・」
突然、お光の歯切れが悪くなる。
お光が温めたまんじゅうを割って、その半分を雪江にくれた。
「お茶を入れ替えましょう」
とお光が鉄瓶を持って土間へ降りる。
雪江がそのまんじゅうを一口食べてみた。なるほど温めたせいか、ほんのり酒のいい香りが口の中に広がる。そして、こしあんのなめらかさと甘さが雪江の好みだとわかった。
「おいしいっ、私もファンに、あ、えっと馴染になろうかな」
「はい、ぜひとも」
お光は自分が褒められたかのように顔をほころばせていた。
二口目を食べる。咀嚼していると、何かが舌にあたる。異物だ。紙のようなものが入っていた。口から取り出すとそれは小さく丸めた紙だった。餡まみれだが、広げてみる。
あ、これは今、お光さんが言っていた願掛けかも。
「願掛けって、今も続いているんですね。ほら、私の方に入ってましたよ」
と、広げてみせた。
それは小さな十字の形をしていた。何も書かれていなかった。
お光が青ざめて振り返っていた。茶器をそこに置き、雪江が何を言うか恐れていた。その動揺に雪江の方も困惑していた。
「ごめんなさい。いけなかった?」
他の人が見たり、食べたりしたら願掛けの効果がなくなってしまうのかと思ったのだ。
しかし、お光は何も言わなかった。言えなかった。
急に動揺したのがまずかったのか、胸がゼイゼイし始めていた。今日は不思議なくらい落ち着いていたお光の胸が。そして咳こんでいた。
雪江が慌ててお光に駆け寄る。その場に座り込んでしまったお光を抱き起こした。お光は苦しそうに前かがみになる。苦しそうに咳き込み、その口に手ぬぐいをあてていた。
ゴホゴホという肺の中から響いてくる重い咳だった。
「ねえ、咳止めはどこ?」
以前によくきくと言っていた薬のことを思い出していた。お光は何も言えず、咳をしながら這いつくばって、襖の向こうの四畳半へ向かう。
雪江がそれを察して、四畳半へ入った。寝具の目隠しの衝立のところに置いてあった小さな瓶を手にした。
「これ? これが咳止めの薬ですか」
と尋ねると、お光がうなづいた。
雪江がすぐさま手渡すと、お光は咳の合間に少しづつ薬湯(煎じた飲み薬)を口にする。雪江は少しでも楽になるようにと、その背中をさする。
お光の体は華奢で、強く抱きしめると折れてしまいそうなくらい細かった。
薬湯を口にしてもまだ咳はすぐに収まらない。苦しそうで見ていられない。
とりあえず、布団を広げる。横になった方がいい。
そしてお光の帯を解き、上の着物を脱がせた。心細かった。このまま、お光がどうにかなってしまったらどうしよう。雪江にはどうしていいかわからない。だた、おろおろしているだけだ。情けないことに。
「ねっ、誰か呼ぼうか。利久さんはどこにいるの?うちの藩医、呼ぼうか、ねえ」
咳をしながらお光が首を振った。
「大・・・・丈夫でございます」
やっとお光が言った。口が利けるようになってきた。少しづつおさまっている様子だった。それでも必死で雪江はお光の背中をさすり続けていた。
今日は雪江がいた。たいして役には立たないが、一人で咳き込むよりはまだましだろう。これが一人だったらと考えると雪江の心はやりきれない。この苦しみを、たった一人で堪えなければならないのだ。
「本当に、もう大丈夫でございます。おかげ様で、だいぶ・・・・おさまって・・・・」
お光がそう言って、やっと仰向けに横たわった。ずっと這いつくばって、咳をしていたから、全身に力が入っていた様子だった。ほっとした表情を向けていた。
雪江もその横に座り込み、やっと肩の力を抜いた。よかった。落ち着いてくれた。一時は雪江自身がパニックになりそうだったのだ。
ふとお光の乱れた襦袢の胸元に目がいっていた。きらりと光るきれいなものがのぞいていたのだ。それに目を向ける。
それは、鎖代わりの細かい粒の木玉に繋がれたペンダントだった。その先には、雪江も見たことのあるものが下げられていた。
お光が雪江の視線に気づき、胸元に手を当てた。それが顔を出していることを知って、すぐさま襦袢の中にしまい込み、襟元を直した。
それは銀細工の小さな十字架だった。
「お光さんってクリスチャンだったの」
雪江は何も考えずにそう口にしていた。そう言ってから、その言葉の重要性に気づいた。
お光が再び青ざめていた。雪江に震えた手を合わせた。合掌していた。
「どうか、このことは内緒にしてくださいませ。見逃してください。私はこの通りの体、逃げたくてもとても逃げおおせません。あと少し、わずかな日々をあの人のそばで過ごしていたい、それだけなのです」
お光は雪江にそう頼み込んでいた。その必死の哀願に戸惑い、なんて言っていいかわからないでいた。
確かに今、お光が隠れキリシタンとして、奉行所に捕まったらお光は耐えきれないだろう。江戸時代の牢獄は寒く、暗く、不潔らしい。それよりも夫の利久と離れることが何よりもつらい事なのだろう。
なんでも心を開いて話せる存在だと思っていたお光が、こんなにも怯えた目で自分を見ていることにショックを受けていた。雪江が奉行所に訴え出ると思っているのか。
すぐにでもお光を安心させることを言わなければいけないと思った。
その時だった。
突然、雪江の背後から声がした。すぐ後ろに誰かがいた。
「雪江様、お静かに。お光がキリシタンなら、私も同罪でございます」
利久の声だった。さっきまでここにいなかった利久が、いつの間にか雪江のすぐ後ろにいた。思わず、ゾクリとし、肌が粟立っていた。振り返ることもできない。全く動けずにいた。まるで金縛りにあっているみたいだった。
それにどこから入ってきたのか、どうやって現れたのか、見当もつかなかった。
利久はさっと四畳半の襖を閉めた。お光も利久の突然の登場に驚いていた。
「外にお供の二人がおられました。すぐに雪江様がいらしているとわかりました」
帰ってきたのだ。それなら普通に表から入ってくればいいのにって思う。
「最近、私を探るどこかの忍びがうろうろしておりましたので、ちょいと警戒した次第です」
利久の言葉は落ち着いていて丁寧だった。それが返って恐ろしく感じた。
お光が怯えた目で利久を見ていた。そんなことをしてはいけないと言わんばかりに首を振る。
「私は雪江様に何かする気はございません。雪江様がこのことを黙っていてくだされば何事も起らないのでございます」
利久は声を上げて笑い、雪江の背後から離れた。そしてお光の枕元に座りなおした。極度の緊張から解放された。目に見えない張りつめていたなにかから逃れられたようだった。
利久は愛おしそうにお光を見つめ、額にかかっていた乱れた髪を直した。その利久の手を、お光が必死になってつかんで言った。
「お前様、どうか、雪江様を見逃してください」
哀願する声だった。利久のその手が、雪江に何かするのではないかというようにしがみついていた。利久は子供を諭すように言う。
「雪江様のお命は、この私がお助けしたのだぞ。そのお命を奪う阿呆がどこにいる」
しかし、お光は放さない。
どうやら、雪江に隠れキリシタンだということがばれて、利久が雪江を襲うかもしれないという不安に、お光が駆られているようだ。
それは雪江が奉行所に訴え出る可能性を考えているからだ。雪江はそういう事をしないということを主張しなければいけなかった。
「あのう・・・・」
雪江がやっと言い始めた。
「信じてもらえないかもしれませんが、私の育ったところには、キリスト教、えっとキリシタンの友人もいたんです。私には、今のキリシタンの禁教令の意味がよくわかりません。だから、誰にも言いません」
本当にそうだ。今はもうキリスト教を広めようとする司教もいないのだ。ただ、それを密かに信じている人々だけだった。
利久もお光も、意外そうな目で雪江を見つめていた。
そうだ。確かあと百年もすれば、このキリスト教は解禁になる。世の中に認められることになる。人に迷惑をかけずに、ひっそりと信仰している人たちには何の罪もないのだ。
「本当に、夫にも父にも言いませんから、安心してください。私、キリシタンじゃないけど、これだけは神に誓います」
と、十字を切る真似をした。
利久は微笑んでいる。
「やはり、雪江様は不思議なお方だ。初めて会ったあの夜も皆と違った氣を持っておりましたが、これほどだとは思ってもみませんでした」
もうさっきの怖い雰囲気は微塵もなかった。
しかし、急に利久の顔が引き締まる。何かに気づいたようだ。
「では、また」
利久はその場から、真上に跳躍していた。上を見ると一枚、天井板が外れていた。そこへさっと身を隠す利久。物音一つたてなかった。
その直後に小次郎が表の戸を開けていた。
「雪江様、何かございましたか?」
「え? あ、小次郎さん」
雪江が慌てて四畳半から顔を出した。
「あ、ううん。なにも・・・・・・。お光さんがちょっと咳き込んでいたから、今、横になってる」
雪江が何でもないという作り声で言うが、小次郎はいつになく真剣な表情で、家の中の様子をうかがっていた。しかも腰の刀に手をかけていた。すぐに抜刀できる構えだった。
「本当に何でもないの。今やっと咳が治まったからもう行くね。駕籠のとこで待ってて」
女性の寝ている部屋までは入ってこないとしても、小次郎は明らかに何かを感じ取っていた。この警戒心を解くには、雪江が帰るしかなかった。
「ね、挨拶してからすぐに行くね」
もう一度言った。
小次郎がやっと警戒を解いたようだ。
「はっ、では木戸のところでお待ちしております」
雪江は安心して大きな息をつく。
どうして小次郎は突然、家に入ってきたのだろう。いつもならいきなり他人の家の戸を開けるような不躾なことはしない人なのに。
それに利久も、まるでその小次郎の行動がわかったかのように天井裏へと隠れた。まるで・・・・・・そう。ごくりと唾を飲み込む。
忍者だ。利久は忍者のようだった。
お光は体を起こしていた。
「あの・・・・・・お供の方、誠に敏感なお方。すぐれた家臣をお持ちでございます」
「え? 小次郎さんのことですか」
「はい、ここに利久が現れて、この場の氣が変わったのです。それを悟ったのでございましょう。あの時の利久はかなり切羽詰まった様子でした。忍びの者がそんなに氣を丸出しにしてはいけないのです。忍びとして失格でございます」
と苦笑した。
「あ、やっぱり、忍びって、利久さん、忍者だったんだ」
「はい、実は私も同じ忍びの村で育ちました。秘め事が多すぎますね。私達夫婦は」
キリシタンに忍び。確かに秘密だらけだった。
けれども雪江の中にはそれを恐ろしいと感じる考えはなかった。忍者は時代劇でもかっこいいヒーローなのだ。思わず叫んでいた。
「すっごい、かっこいいっ」
その雪江の無邪気な喜び方に、お光も、天井裏で息を潜めていた利久までが頬を緩めていた。
雪江が立ち上がる。
その時、ぽつんと畳の上に落ちている小さな紙に気づいた。あのまんじゅうの中に入っていた紙だ。十字の形をしている。それを拾い上げた。
これがきっかけで、お光が動揺し、咳き込んでしまった。でももう今は話してくれる、そんな気がした。
「ね、もし差支えなければ教えてください。これってどういう意味があるんですか」
ただの十字架を形どった紙だ。キリスト教に関係するのは想像できるが、その意味がわからない。
お光が上にいる利久をちらりと見る。利久はうなづいた。
「これはおまぶり、と言って、そのクルスを形どった紙を飲み込むと病気が治ると言われているそうです」
「あ、それで利久さんが入れていたんですね」
「はい、まさかこのまんじゅうに入っていたとは、思ってもみませんでした。それで思わず驚いてしまって」
「へえ」
「私はこの江戸に来るまでは利久が隠れ(キリシタン)だったと知りませんでした。その紙の意味を問いただすと利久の亡くなられたお母様に教えていただいたことだと打ち明けてくれました」
「お光さんが信者になったのはつい最近なんですね」
「はい、でもこれを信じていれば、天国へ行けるという話を聞いて・・・・・・。本当に心が軽くなりました」
聞いたことがあった。天国に行くためにものすごい拷問にかけられても信仰を捨てなかった人々がいたということを。子供まで含まれていてその数は決して少なくないことを。
コホンと軽い咳ばらいが聞こえた。天井裏の利久だ。
「もういい加減にしろと言っております」
お光がいたずらっぽく言う。
「はい、私、もう行かなくては、じゃ、また来ますね」
やっと雪江が腰を上げた。
かなり重い運命を背負っている二人に気づいた雪江だった。