雪江は正義の味方? 4
雪江は湯あみを済ませ、夜着の上から打掛けを羽織る。少し早く台所へ行った。もうすでに徳田には部屋を借りる承諾を得ていた。
台所へ行くと徳田が待ってくれていた。お茶の用意とあられ菓子を用意している。
「お前も大変だな」
徳田にはそれとなく言ってあった。難しい事情だし、加藤家のことなので詳しくは言えなかったが。
「ん、でもさ、このままだとあの二人がかわいそうでさっ」
「人の心は昔も今も変わりないぞ。愛情も嫉妬に変わると憎しみになることもある。じゃ、頑張れよ、オレ行くからな」
「うん、ありがと」
徳田が台所を出ていった。
雪江はそこで小さな灯りを手にして、龍之介と明知が来るのを待っていた。
薄明りの廊下、すぐに誰かがきた。衣擦れの音。よく見知った顔が現れた。湯あみの後のさっぱりとした表情で、紺地の着流しをきていた。
「あ、龍之介さん、早かったね」
雪江はそちらに灯りをむけ、笑いかけた。
しかし、龍之介と思われたその人物は、ふっと目を細めて笑う。丁寧な会釈をした。
「雪江殿。ここでございますか、ご自慢の台所というのは。広くて、使い勝手のよさそうな間取りでございますなぁ」
とおっとりとして言う。
「え、あっ、ごめんなさい。明知様? うわぁ、灯りが遠いから見間違えちゃった、ごめんなさい」
雪江は慌ててしまった。
龍之介だと思ったのに、明知だったようだ。この薄暗い状況だし、しかも相手は双子、それに見覚えのある着流しだったからだ。
「あ、こちらへどうぞ。ここに小さな部屋があるんです。中には椅子とテーブルがあって、・・・・あ、ごめん。テーブルって・・・・なんてったっけ」
龍之介にはテーブルで通じた。こういう時に何と言っていいかわからなくなる。龍之介がいたら、ほうら、武家言葉やこの時代の言葉を軽んじているからだと言われそうだった。
「まっいっかっ」とつぶやいた。質問されたらテーブルを指せばいいのだ。向こうが学んでくれる。
「さあ、中へ。お茶とお菓子、用意してありますから」
明知が近づいてきた。いつもの穏やかな顔で雪江の横を通り、その小部屋に入ろうとした。しかし、そのすれ違いざま、明知が雪江の腰に手をかけて、ぐっと抱きしめてきた。
頭でその状況を理解するよりも早く、雪江は叫んでいた。
「ギャ~ア」
明知もその声に驚いた様子で、すぐに雪江から手を放す。
そして、雪江は台所の入り口に同じ顔をした別人が立っているのを見た。
「あっ」
龍之介と明知は、同じ着流しを着ていた。そして、後から現れた人物がどう見ても明知だった。何事が起ったのかという驚きの表情が、龍之介とは別人だった。それによく見ると、若干、明知の方が細面の顔なのだ。こうやって二人を見比べると違いがわかった。
騙された。
雪江は、最初に入ってきた明知のふりをした龍之介を見た。やはり、にやにやしていた。
「そなたは夫もわからぬのか。すっかり騙された様子だったから、ちと、からかってみたのだ」
「もうっ、ほんとにびっくりしたんだから」
「うむ、ものすごい声だった」
本物の明知も、状況がわかり、笑いながら見ていた。
改めて二人を見る。
「ちょっと何よ、二人でさ。なんで同じ着物を着てるの」
まんまと騙された雪江は、恥ずかしさに別のことで文句を言う。
「いや、よく見よ。わしの方は小波の模様、明知殿は大波模様。武士ならばこの柄、一着二着はもっている代物」
「別に大波小波なんて、どっちだっていいのっ。こんな薄暗い灯りでどっちがどっちかなんてわかるわけないでしょ」
どうやら、二人は相談したわけでもなく、何気なく選んだ着物だったようだ。さすが双子である。
その双子が、二人並んで、雪江の向かいに座る。いつもの表情であれば、龍之介か明知かわかるが、さっきのように雪江を騙すつもりでいれば、わからないかもしれない。また、からかわれるかもしれなかった。大波と小波の着物の柄を見て確認し、さっと席をたった。
雪江は台所から、食紅をもってきた。指につけ、さっと龍之介の額の中央に赤い点をつけた。
「何をする」
龍之介はすぐに拭き取ろうとした。
「だめっ、私を騙した罰。ここにいる間は拭いちゃダメ、そのままにしておいて。わかったっ。目印にするんだから」
雪江が強い口調でそう言うと、少しは悪かったと反省している様子で、ぼそぼそと、「あい、わかった」と返事をした。
明知が笑っていた。
「本当に、お二人は仲の良いこと。幸せそうで、見ていて楽しい」
「あ、いえ、お恥ずかしいところを見せてしまって・・・・」
明知の言葉に、龍之介が口ごもる。
「以前は安寿も、子犬がじゃれてくるように、拙者に接しておりました。今はもうすっかりその様子が見て取れませぬが」
龍之介も雪江も真顔になる。二人でふざけている場合ではなかった。真剣に、安寿とのことを考えなければいけないのに。
「雪江、夕餉の前に安寿殿と話したことを教えてはくれぬか」
龍之介が言う。
「あっちの家で聞いたことを簡単に。あの八千代さんっていう側室にも会った。理子様が特別に選んだ人だって。女としての嫉妬をせず、子供がうまれても母としての感情を押し殺して、加藤家のために育てるって。安寿姫とうまくいくように、女同士の争いをしないように命令された側室だって、まずかった?」
それを聞いて、龍之介は驚いて明知を見た。
「そうなのですか」
明知はうなづいた。
「そのことは安寿も存じておるはず」
「ええっ、安寿姫、そのこと知ってたの?」
驚いていた。てっきり安寿がそれを知らなかったから、側室に嫉妬していたのだと思っていた。
「ここへ来る前にも安寿のところへ行きましたが、・・・・・・。雪江様もあちらの味方になったと言っておりました」
明知の言葉に面を食らった。なんでそうなるのか。
「きっと雪江殿が向こうの屋敷に行き、母上たちに入れ知恵されたと思ったのでしょう。こうなったらたぶん、もう・・・・まともに話ができませぬ。何か言えば、そのことにきっと裏があると思うでしょう。ますますこじれていく」
「そんなぁ」
「安寿の心は頑なになっております。ここへ来る前もそういう時期がありました」
明知はつらそうにしていた。
「ごめんなさい。私、またこじらせちゃった?」
雪江はシュンとしてしまった。良かれと思ってやった行動も助言のつもりで言ったこと、すべてが裏目に出ていた。
「いえ、雪江殿が悪いのではございません。安寿は八千代がどんな命令を受けて心を殺し、仕えている側室でも、感情をむき出しにした側室だったとしても同じことなのです。拙者が・・・・・・他の女人に触れることが許せないのでしょう」
「あ・・・・・・」
また、そこへ戻るのだ。
しかし、雪江にはその安寿の気持ちもわかる気がした。
さっき、龍之介がふいに雪江を抱きしめてきた。雪江は明知だと思っていたから、その行動に驚き、拒絶していた。一人の男性を思う女性にはそういう潔癖さがあると思う。
いくら好きな夫でも、他の女人を抱くとしたら、その人はもうすでに自分の見知った夫ではないのかもしれない。別の顔を持った他人に思えるかもしれなかった。
「ではどうすればよいのだ。そうなってしまった心を解きほぐすのは至難の技」
と龍之介が言ってしまった。慌てて謝る。
「あ、これは失礼なことを申しまして、誠に申し訳ございません」
明知は別に龍之介の言葉に気分を害した様子もなく、淡々と答えた。
「いえ、その通りでございます故」
「八千代さんが来る時期が早すぎたのかもしれない」
同じ顔が雪江を見る。
「まだ安寿姫は十六歳になったばかり。こういう年齢って、理想主義で相手に完璧を求めたり、白馬の王子様的な目で見るのよね。私の王子様は完璧で、寝食もしないし、トイレにも行かない。他の女の子を見ないっていう思い込みのアイドルに求めるそういう感じ」
龍之介が、もっときちんと言葉を選んで言えと、顔だけで抗議していた。
「その・・・・白馬の王子とは?」
明知の質問に、雪江は思わず笑った。明知は、白馬にお殿様だったから。
「自分の理想っていうか、姿見がいい人のことを、自分の都合よく考えてしまうこと。いつも笑っていてやさしいって思いこんでしまう。あの年頃は人間臭いことは嫌なの。自分の好きな人は変なことはしないって思ってるから」
「なんとも扱いにくそうな・・・・・・」
龍之介がそうつぶやいた。
「ねえ、明知様は安寿姫と八千代さん、どっちが好き?」
龍之介は、なんということを聞くかという表情で雪江を睨む。
明知は、その質問にじっと考え込んでいた。
「安寿は拙者の妻。掛け替えのない存在。安寿を失うことは考えられませぬ」
雪江はうなづく。やはり、明知は安寿を大切に思ってくれている。
「八千代は・・・・・・。心、動かされてはいないと言うと嘘になるかもしれません。あれは実にできたおなご。遊女の方がまだ、女としての心を持つことができるかもしれませぬ。そんな八千代のことを思うと、安寿への感情とは別の、愛情を向けているのかもしれませぬ」
「感謝ってことかな? 好きだという心じゃなくて」
「今のところは感謝かもしれませぬ。が、正直に申しますと、今後はどうなっていくのか拙者にもわかりませぬ。八千代が女としての心を持たずにいるのなら、拙者もそれを尊重しなくてはいけないと思っておりますが」
「そうよね。あの八千代さんって、きれいでいい人だからそれが難しい」
三人は重いため息をついた。
「八千代を国許に帰したら・・・・・・安寿は元通りの明るい姫に戻れるのではないかと思ったこともあります」
明知の心はわかる。しかし、そんなに単純なことではない。
雪江は否定していた。
「それだとあれだけの覚悟をしてきている八千代さんの心を踏みにじることになるし、そして理子様の面子も立たない。安寿姫も今後、余計にプレッシャーがかかるんじゃないかな。その後、絶対に皆がこれでよかったのかと心に引っかかるような結果になりそう」
「安寿姫に心の負担がもっとのしかかってくるという意味で・・・・」
龍之介が、雪江のカタカナ語の通詞をしていた。
「とりあえず、安寿姫の心がほぐれてくるのを待つしかないと思う。そして、ここにいる間に安寿姫が懐妊するといいんだけどね」
安寿が、明知を拒否している現在、そう簡単にはいきそうになかった。
雪江がため息をついた。
「あっちの世界ではね・・・・」
雪江が冷めてしまったお茶を飲みながら話す。
三人でこうして顔を突き合わせて話すのは初めてだ。同じ顔を並べて、なんだか不思議な感じがする。
「私がいた世界の日本は一夫一婦。長男が家を継ぐっていう所もあるけど、結婚しない人も増えてきて、あまりそういう事にこだわらなくなってきた」
雪江の言葉に、目を丸くする二人を見る。
二十一世紀に明知と安寿が生まれていたら、今のような問題は起らなかった。側室はあり得ないから。この問題は、今この二人が乗り越えていく課題ということだろう。誰もがこの世に生まれてきた目標、課題のようなものを持っているというから。
さっきの徳田の言葉を思い出していた。愛情はその矛先が変わったり、自分が投じた愛情と見合わないと嫉妬を呼ぶ。嫉妬はまだいい。その人のことを好きだという裏返しの表現だから。しかし、その先の憎悪に変わってしまうと取り返しのつかないことなりかねない。
今朝まで雪江には笑顔を向けていた安寿は、今はもう背を向けている。雪江はそれでもいい。もし、明知に対してそうなったら、取り返しがつかないことになる。
どうすれば、安寿の心は解けるのだろう。
雪江は明知に哀願していた。
「ねっ明知様。安寿姫のこと、もう少しこのまま見守ってあげて。見切らないでね。姫は自分でも気づかない自分に苦しめられている。明知様もつらいけど、安寿姫もつらい」
「それはよく存じています。拙者はまた、安寿の屈託のない笑顔を待っております」
龍之介は少し心配そうに言った。
「何か策はあるのか?」
雪江は首を振った。
「なにもない。でもね、私達にできることは安寿姫に笑顔を向けること、それだけ」