雪江は正義の味方? 2
雪江は戸惑っていた。
まさか、ここで側室に会うとは思ってもみなかったのだ。理子と話して、安寿のことをわかってもらえれば、それでいいと思っていた。
雪江の中では、八千代という側室のイメージが出来上がっていた。テレビで見る意地悪そうな側室。明知にはいい顔をしてすり寄って甘い言葉をかけ、安寿の悪口をそれとなく言う、そんな軽い、はしたない女。
どうしよう。実際に会って喧嘩になったら。安寿の立場が悪くなるだろうかと心配し始めていた。
間もなく衣擦れの音がして、障子の向こうから声がした。
「八千代でございます」
すかさず理子が言う。
「入れ」
「はい」
す~と障子が開き、平伏した八千代がいた。うつむき加減で中へ入り、静かに戸を閉めた。
向き直り、再び理子と雪江に平伏した。
この時代の娘にしては、大柄だった。雪江と同じくらいの上背はありそうだった。
「甲斐大泉藩桐野正重殿のご息女。そしてその跡取り、正和殿の奥方でもある雪江殿じゃ」
「お初にお目にかかります。八千代と申します」
おもむろに八千代は顔を上げる。
目鼻だちのはっきりした美女だった。おまけに雪江を見て、花開くように笑顔を向けてきた。思わずつられるようにして、雪江も笑顔になっていた。
ええ? この人が側室? まさか、こんな人が。
安寿の話の印象と全く違っていた。
もっと普通の、作り笑いをし、ワザとらしい明るい声をだし、腹の底ではしたたかな事を考えている女性を描いていた。
しかし、この目の前の女性は違う。こんな爽やかな笑顔を人に向けられる人に、人を陥れるようなことは考えまいと感じていた。
「八千代さん?」
「いえ、雪江様、わたくしのことは、ただ、八千代とお呼びくださいませ」
と言ってくる。
「あ、でも・・・・私、さんの方が呼びやすいので」
そう言いながらも八千代から目が離せなかった。引き込まれるように見つめている雪江がいた。
「しかし・・・・」
八千代が食い下がっていた。
理子が言う。
「八千代、雪江殿は故あって武家言葉や、しきたりにはこだわらぬのじゃ、言いたいようにさせよ」
と助け舟を出してくれた。
「はい」
と八千代。今度は雪江の方を向く。
「雪江様。先ほど正和様をお見かけいたしました。ちょうど頭巾を取られ、駕籠に乗り込むところでございました」
「え、ああ」
「本当に驚きました。そっくりでございますね。明知様が戻っていらっしゃったのかと思ったくらいでございます」
すかさず、理子が嬉しそうに語った。
「そうであろう。全く別の環境に育っている故、その気性はちと、違っておるがな」
理子は、同意を求めるかのように雪江を見た。
「はい」とだけ答えた。
理子が、この八千代をかわいがっているということが伝わってきた。自分の娘と話をするような、そんな優しい目を向けていた。八千代も理子のことを信頼している様子で、慕っているのがわかった。
少しこの場にいると、段々と安寿の気持ちがわかってきた。
二人が仲がよいということもあるが、なんとなく、この二人の場が華やか過ぎて、他の人がくすんでしまう。雪江はそこへ入り込めないでいた。
理子も生まれながらの姫で、輝くような華やかさを持つ。一対一で接するときはこちらも引きこまれて、なんの違和感もないのだが、理子と八千代の二人を前にすると、その輝きで自分が阻害されているような印象を受け、なんとなく面白くないのだ。その場の中に入っていかれない、一人ぽつんと外に取り残されたような気分でいた。
雪江はむすっとしてしまう。何となく、面白くない。
「あの二人は、一卵性双生児ですから、当然です」
理子と八千代が、雪江のつっけんどんな物の言い方に目を丸くする。
「一見、二人は性格が違うように見えますが、考えていることは結構似ています。正和様は、照れ症で素直に言いたくても言えず、明知様は心の内をすんなり言える、それだけの違いです。あの二人は、人を大切にする心、やさしさなんてそっくりです」
と、早口でまくし立てていた。
理子が雪江の中の苛立ちを悟ったようだった。
「いや、わらわは何も正和殿がどうのと言ってはおらぬぞ。明知は体が弱いから中でできること、学問などに走り、正和殿は活発に外へ出て、剣の稽古をしている。そういう違いを申したまでのこと」
なんだか、雪江は投げやりになっていた。面倒くさくなっていた。
なぜ、雪江がここへきて、ぶすっとしてまでこんなことを話さなければならないのか。そういう自分も嫌になる。
きっと八千代とはこういう状況で出会わなかったら、意気投合し、ものすごく仲良くなれると思う。そんな気がした。しかし、今は立場も違うし、事情が込み入っている。この人は、安寿の敵なのだ。
「では、本題に入るかのう。雪江殿が今日、ここへ来たわけは、安寿に頼まれてきたのか。それとも哀れな安寿を見ていられずにここへきたのか」
理子は少し意地悪な言い方をしていた。しかし、その通りだ。いくら表面的に言い繕っても、そういう事を話したかったのだ。
「はい、私は沈んでいる気持ちを隠して、明るく振る舞う安寿姫が痛々しくて見ていられなくなり、ここへきました。怒らずに聞いてください。私は一方的に安寿姫の言うことを鵜呑みにし、立腹しておりました。ただ、それを見ているだけの理子様にも」
わずかに理子の眉が動いた。しかし、見事にポーカーフェイスを保っている理子。八千代は先ほど見せた笑みは消え、雪江の言葉を真摯に受け止めていた。
「でも、龍之介さん、いえ正和様に、物事は双方の言い分を聞いてからでないと判断してはいけないと言われ、軽々しく第三者が立ち入ることではないと叱られました。私も納得して今日、こちらへ参った次第です」
そう言って雪江は平伏した。
言い終わってからドキドキしていた。あまりにも正直すぎたかもしれなかった。理子のことを怒っていると言ってしまっていた。
「雪江殿・・・・・・」
理子だ。
「よくわかった。本当にそなたは・・・・。安寿のことを思ってくれている。礼を言うぞ。そして正和殿の言葉にも耳を傾けてよくぞ、ここまで来てくれた。胸の内を打ち明けてくれたのう。嬉しく思うぞ。多くのおなごは怒り狂っていると、他の者の申すことに耳を貸す余裕がなくなるのでな」
優しい声だった。
「申し訳ございません。不躾なことを申しまして」
再びそう言って頭を下げた。
「よいよい。その昔、綾にも叱られたことはあるが、初めてかもしれぬな。わらわに立腹したと申したおなごは」
ほっほっと笑う。
「本当にすみません」
また、龍之介に呆れられ、叱られるようなことを言ってしまった。
「よい、ではこちらも聞くぞ。安寿はどのように雪江殿に申したのじゃ。悪いようにはせぬ。あれが思っていたことをそのまま知りたいのじゃ。そうすれば、この先どうすればいいのかわかる。このままでは屋敷が建て直ったとしても、また元のようになろう」
「はい」
雪江はやっと顔を上げた。
「初めは、安寿姫も八千代さんと仲良くできると思ったらしいのです」
雪江は安寿から聞いたことを話した。初めの八千代の印象、しかし周りの侍女たちの噂、そして奥向きが二つに分かれていたこと、噂によって安寿の心も揺さぶられたこと、すべてを。
「今、現在の安寿姫は精神不安定なうえ、過敏な潔癖症になっています。明知様が他の女性に触れただけで嫌だと感じ、明知様が八千代さんのことを気に入っていて、もっとそちらへ行きたいのに、無理して安寿姫のところへ来ていると思い込んでいます。かなりの重傷です」
理子は目を閉じて聞いていた。八千代は少し思いつめたような顔をしてじっと畳の淵を見ていた。
「そして追い打ちをかけたのが、八千代さんの懐妊騒ぎです。あそこまで追い詰められていた安寿姫の心を打ちのめすには、充分過ぎたようです。それを聞いた瞬間、明知様のすべての愛が八千代さんに注がれたと思い込んでしまったと言ってました。もう明知様の顔もまともに見られなかったそうです」
雪江は喉がカラカラだった。興奮状態で体が熱い。それでも続ける。
「安寿姫は、それから自分の心の奥底を見てしまったんです。どちらが先に子を産むか、加藤家にとって第一子というものは掛け替えのないものにございます。それを二人で先を争う。そこには愛する明知様のお子を身ごもるということよりも、女人のドロドロとした自我のために産む、側室の顔を明かすために産むという目的を違えた自分に気づいたとのことでした。そんな自分が許せなくて、下屋敷の自室に閉じこもったと」
それでなくても十五、十六という年齢は、多感な時期である。箸が転んでもおかしいと言われる年頃だが、逆を言えば、それは箸が落ちただけでも悲しむということでもあると思う。それだけ感受性豊かな、繊細な心なのだ。だからこそ、真剣に些細な事でも悩む。
「安寿姫は、そんな自分の恐ろしい部分を夜叉の心と表現しておりました。そんな夜叉の心を持つおなごは、あの明知様にふさわしくないとも思ったようです」
雪江は安寿から聞いた心の内を全部話した。後はこの二人がどう受け止めて判断するかだった。
理子は涙を浮かべていた。八千代は唇をギュッと結び、その表情もかたかった。
「そうか、あの安寿が・・・・・・。そんなことを思って、一人で悩んでいたのだな。苦しかったろうに」
八千代がひれ伏した。
「わたくしが悪いのでございます。すべてわたくしが至らないばかりにこんなことに。来て早々、こんなことになってしまいました」
理子は首を振る。
「いや、わらわがきちんと安寿に言っておくべきだった。そなたのせいではない」
「いえ、わたくしが、きちんとお役目を果たせない、このわたくしの責任でございます」
雪江は二人の会話に違和感を覚えた。
八千代の存在が安寿を苦しめていることは本当だった。でも、お役目とか責任とか、ちょっと大げさに思う。それに理子もきちんと話さなかったとは? 一体、どういうことなのだろう。
雪江の理解できないという表情を読んだ理子が言った。
「この八千代はな、わらわが特別に探した側室なのじゃ。明知と安寿のためにな。そして、加藤家のために」
「はあ・・・・」
雪江にはそれでもよくわからない。理子が探し求めていたと言ってもやはり、側室は側室。もともと、お家のために、だろう。
「奥方さま、わたくしが、最初からお話します。この雪江様ならきっとわかってくれるかと思います」
と八千代がなにかを決心した顔を言った。
「そうか」
理子は口をつぐんだ。
八千代は、先ほど見せた人懐っこい顔で微笑みかけ、語り始めた。
「わたくしは小間物問屋の娘でした。事情があり、十六の時から加藤のお屋敷にご奉公させていただいておりました」
この八千代は、風呂の水汲み、風呂焚き、台所での飯炊きなど力仕事で、一番つらいとされる下働きを積極的にしていたという。体が大きいといっても百五十センチくらいだが、他の女中たちはそれ以下の者ばかりで、八千代は大柄に見えた。
それに八千代は文句ひとつ言わず、何でもハイハイと動いたため、重宝がられたという。重い水汲みもそれほど苦ではなかったという。
全てに一生懸命な八千代は、女中たちを取りしきる佐和の目に止まった。
佐和は、理子の夫、加藤明隆が国許へ帰っているときに身の周りの世話をする女で、国許側室だった。
当時の大名は、江戸屋敷に正室とその子供を残し、国許へ帰る。するとその国許にも側室のような存在をおくことが多かった。
八千代は、その佐和の個人的な女中、部屋子として仕えることになったのだ。佐和の部屋子は、身の回りのこと、部屋の掃除、頼まれた買い物を外へ出て済ませるくらいで、そのほとんどが佐和との話し相手になることだった。下働きをしていた頃の仕事とは雲泥の差があった。
そうしているうちに、藩主の明隆が戻ってきた。
殿が城にいると、活気を取り戻す。皆が明るい表情でいた。
佐和もそうだった。八千代は殿の御前には出られないが、自室へ戻ってくる佐和は嬉しそうだった。
この国許の奥向きには、もう一人若い側室がいた。八千代とたいして年齢の変わらないお倫だった。今は殿が地元にいるときの相手は、このお倫がしていた。
時としてお倫は、自分の母親と変わらないような佐和にも高飛車な態度をとった。だから八千代は、お倫があまり好きでない。かわいそうな人だと思っていた。殿のご寵愛を受けているから、自分もえらいと思っている。そう錯覚していた。
ある日、八千代は佐和に言われる。
「八千代、そなたの身、女としての一生をこの加藤家に下さらんか。この佐和を信じて捧げてはくれぬか」と。
そこまで聞いていた雪江には、八千代の言う、女としての一生を捧げるという、その意味がわからなかった。
それは生贄のような、何かの犠牲になる覚悟がいるような印象を受けた。
「初めは何のことなのかわかりませんでした。このわたくしに、何をさせようと言うのか。でも、あの時のわたくしにはこの加藤家のご奉公がすべてでございました。実は実家とこじれていて、帰るところはなかったのでございます。嫁にも行く気がなく、この身は加藤家へのご奉公しかございませんでした。佐和様は言わば、母のような存在でございます。その母に言われたも同然のこと、わたくしはうなづいておりました。それがたとえ、この命を取ると言われても本望でございました」
雪江はその覚悟を聞いて、ごくりと喉を鳴らした。
この華やかな八千代、幸せな家で何不自由なく育ち、その容姿から明知の側室に抜擢されたのかと思っていた。想像以上に苦労していた。
「それが、明知様の側室になることでございました。それも普通の側室ではない、女として嫉妬をせず、この身を子を産むことにだけ捧げ、その子も自分の子と思わず、明知様と安寿様のお子として育てよと」
「子を産むだけの? そしてその子も自分の子と考えるなって・・・・」
雪江は思わず口に出していた。
女としての感情をすべて殺せと言われているも同然だった。
「わたくしは、そんなことができるのかと思いました。他の女人ならまだしも、この自分が・・・・。でもこう考えてみたのでございます。忠実な家臣は、乱世の頃など、その命さえも惜しまず、主君のために捧げ、戦っていたと。わたくしもこの身を加藤家に捧げることと同じだと思えたのでございます」
八千代は続ける。
「でも、わたくしは安寿様の心を苦しませてしまっています。佐和さまと約束したことが果たせないでおります」
「いや、そなたはよくやっておるぞ。こうなったのも、奥向きの侍女たちをまとめ上げられずにいるわらわのせいじゃ。その噂から安寿は振り回されていたようじゃ。侍女たちに言い含めておく」
「奥方様」
「この令はわらわが佐和に頼んだこと。正室と側室の争いはもうたくさんじゃ。女人の嫉妬と妬みは、お家のためにならず」
そうだけど・・・・と思った。
凄すぎる。一人の人権をお家のために捧げると言っていた。
当時の武家の姫は、家のために嫁に行くから、それも同じことと思われるが、それにしてもすさまじい覚悟だった。それはこの時代の女人の生き方、考え方だからできるのであった。