雪江は正義の味方? 1
雪江は自分の寝所で、一人寝返りをうっていた。
龍之介はまた、中奥の自分の部屋で休んでいるはずだ。もうずっとこんな調子だった。
それはまだいいが、昼間の安寿の話を思い出して、胸がむかむかしていたのだ。
暗闇の中、思わずガバッと起き上がる。目を閉じると、安寿の泣き顔が浮かんでしまう。このことを愚痴るのは龍之介しかいなかった。
よし、中奥へいこうと決心していた。
雪江が起き上がって、夜着の上から打掛けを羽織る。
そっと自分の寝所から出ると、襖の向こう側に黒い影がうずくまっているのが見えた。
思わず悲鳴を上げそうになる。しかし、その影がなにか言った。
「雪江様?」
「ひっ」
「お初でございます。このような夜分にどちらへ?」
「えっ」
お初が、雪江の寝所の襖の向こうに座っていたのだった。
「雪江様が寝入っておられないことはわかっておりました」
「見張ってたの? 私がどっか行くって、なんで?」
「わたくし共は雪江様が本当に寝入るまで、交代で待機しております」
う~ん、さすがだった。雪江のことをよく知っている。
「見張ってんだ」
「いえ、待機でございます。して、今宵はどちらへお越しになられるのでございますか?」
いつものお初と違う口調で、厳しく問い詰められていた。
火事の失踪以来、奥向きも雪江のガードが厳しくなっていた。あれからは何事もなく、すんなり自分の部屋で寝ていたが、まさかまだ見張られていたとは思ってもみなかった。
「え~と、龍之介さんと話がしたくなったの」
「正和様は今宵、こちらにはお越しになられません」
「わかってる。だからちょこっと中奥まで行って、話してこようかなって」
雪江は、闇の中で目をギラギラ光らせてにらみつけているであろうお初に合掌をして頼み込んでいた。
「お願い、ちょっとだけでいいの。ねっ」
お初が折れるのは容易に予測できた。孝子や節子と違って、絶対にダメだとまだ厳しくは言えないのだ。
しばらくして黙っていたお初が言った。
「それではわたくしも参ります。それでよろしいですね」
「ええ~っ」と抗議の声を上げた。
「雪江様、そうでなければわたくしはここを通しませぬ。どうしてもお一人で行かれると申しますなら、わたくしを蹴倒してから・・・・・・」
「へえ、いいんだ。そんなことしても」
と夜着の裾をまくりあげる真似をした。
お初はマジに受け取り、息を飲み、怯んでいた。
真面目人間の侍女、お初がハチャメチャな雪江を言いくるめることはむずかしいのだ。
「いいよ。冗談だから。お初、ついてきて。どっちにしろ奥向きの方から鍵がかかっているんでしょ。鍵、開けて」
「は・・・・はい」
もう雪江のペースで、二人は中奥へ入っていった。
向こう側にも見張り役の侍がいる。すぐに声がかけられた。
「そこの・・・・・・このような夜中にどちらへ。何用ぞ」
見張り役が雪江たちを呼び止めた。
「あ、私? 正和様のところへちょっとね」
すぐに雪江とわかり、アタフタしていた。
「あ、雪江様でございましたか。少々お待ちくださいませ。正和様はもうすでにご就寝かと」
「いいわよ。起こしてちょっと話をするだけだから」
すたすたと廊下を行く。龍之介の部屋は知っていた。
「あ、いえ、そのう・・・・・」
いつもならば小次郎が現れるのだが、もうすでに自分の家に戻っているらしかった。この見張り役だけならチョロイと思っていた。
襖を開けてどんどん奥へ進む。
「いえ、雪江様。それでは某が正和様のご様子を」
冬なのに汗をかいて慌てていた。
いきなり、奥の襖が開いた。
夜着のままの龍之介がたっていた。明かりをかざす。
「なんじゃ、この夜中に。雪江? 何をしている」
「あ、起きてた」
「起きていたのではなく、騒ぎに起きたのだ。騒々しい」
見張り役が小さくなっていた。確かに一度寝入ったらしく、機嫌が悪そうだった。
「話がしたくなったの」
「夜中にか?」
「うん」
「明日ではだめなのか」
「だめ」
大きなため息をつく龍之介。
「あい、わかった。ではわしの寝所へ。そちたちは戻ってよい。雪江は今宵わしのところへ泊める」
お初も見張り役もほっとして頭を下げていた。
雪江が龍之介のところに泊まるのなら、安心というわけだ。
雪江は龍之介の布団の上に座った。
「なんだ、本当に話があるのか」
「本当に決まっているでしょ。他になんでわざわざ私がここまでくるのよ」
「夜這いかと」
「夜這い? あの寝こみを襲うやつ?」
龍之介もその可能性は低いと実感した様子で、可笑しそうに笑った。
「あっちのご寝所ってさ、安寿姫たちに近いから、あまり話せないじゃん。だ、か、ら」
「明知殿たちのことなのだな」
「そっ」
「とりあえず横になろうぞ。体も冷える」
「あ、うん。でも寝ないで聞いてよ」
「わしは雪江のようなことはせぬ」
とぶつぶつ言う龍之介。
雪江も、
「私だってしないわよ」
と言い返した。
実は、と雪江は今日、安寿から聞いた話を龍之介にしていた。
安寿が繊細で若いことをいいことに、心のゆさぶりをかけている悪質な側室とその侍女たち。そして、あの理子までがたぶらかされて、安寿の敵になっていることを怒りと共にぶちまけた。
一方的に興奮状態で雪江だけが話すから、龍之介は少しウトウトしていた。
「ねえ、だめだよ。寝たらさ。聞いてんの?」
「うむ、聞いておったぞ。・・・・明日考えようぞ」
「え~、これはあの二人の一大事だよ。いいの? そんな態度でさっ」
龍之介は眠いのに、これ以上愚痴を言われてはたまらんと背中を向けた。
「あ~ん、もう」
と龍之介の背中を押す。
「知らぬ。それは安寿殿が一方的に言っている言い分であろう。嫉妬に狂った者の見方はどうしても自分本位になり、悲劇的になる」
「それってさ、安寿姫が自分をかわいそうに思わせるために演技しているってこと? 私の同情を引くために? ねえったら。誰が聞いてもひどいんだってばっ。安寿姫がかわいそう。きっと私が安寿姫の立場だったら」
「心労でやつれると申すか」
やっと龍之介がこっちを向いた。
「うん、なると思う。なるんじゃないかな」
暗闇で龍之介が大きなため息をついた。
「それならば、明知殿のお母上、理子様に直接聞いてみたらどうだ。あのお方なら明知殿の背中から双方を見据えていると思う」
「え、あ、うん。わかった」
雪江は、龍之介が自分を産んでくれた母を、明知の母だという表現に驚いていた。どこまで他人行儀なんだろう。養子に出された立場で、母と呼ばないのはわかっているが、あまりにもこだわり過ぎているような気がした。
龍之介がそう言うのなら、理子に会いに行ってこようと思った。本当の胸の内を聞いてくる。
「そっ、じゃ明日行ってくる」
「ん」
「龍之介さんはいつなら体があく? 明日は登城もしないんでしょ」
「ん」
「ん、じゃなくて、昼過ぎならいい?」
「ん」
「じゃ明日。昼過ぎに一緒にいこっ」
「ん・・・・ん?」
龍之介がこっちを見ているのがわかった。
「わしも行くのか」
「いいじゃん。私一人だけじゃ如何にも安寿姫のことで行ったみたいだし、火事のお見舞いってことで」
「わしはもう見舞いには行っている」
「あっそっ、いいじゃない。何度行っても。私も行きたいし」
「わしは何も言わんぞ。雪江が理子様と二人で話せよ」
「わかってる。じゃついてきてくれるのね」
「ん」
「ちゃんと返事して」
「あい、わかった」
面倒くさそうに龍之介が答えた。
まだまだ龍之介にとっては、理子の会うのにそれなりの覚悟がいるようだった。雪江がこうして無理矢理にでも理由をつくって会いに行くのもいいかと思っていた。
翌日、昼餉を安寿たちと取っていた。
「今日、正和様が理子様のところへ火事のお見舞いに行くって言うから、私もちょっと行ってきます」
安寿が不安そうに雪江を見た。明知は何事もない穏やかな表情でいる。
「そうですか。それでは母上によろしくお伝えください」
「はい」
加藤家の下屋敷にきていた。
龍之介はいたって普通の大名としての役目をはたしていますという澄ました顔で座っていた。
もっぱら理子と雪江が話していた。
やはり、雪江も聞き辛かった。差しさわりのない話で盛り上げていた。
「やはりわしは先に帰るぞ。おなごの長い話にはつきあっておれぬ」
と一言で立ち上がった。
雪江をここまで連れてくる役目は果たした、後は自分でやれといわんばかりだった。
龍之介の落ち着かない理由もわかっていた。明知そっくりなので、すれ違う侍女たちがみんな明知だと思ってみることだ。
「よいな、あまり長居をするでないぞ。奥方様もお忙しいのだからな」
「はい、ラジャー、了解」
と軽々しく返事をした。
それでも理子は、まぶしそうな目でずっと龍之介を見ていた。今日、わずかな時間だが、会えたことを満足しているのだろう。容易に推測できる。
「すみません。本当に不調法で」
というと、理子がすかさず言った。
「よい、きっと産みの親のせいじゃ」
二人で含み笑いをしていた。
「ところで、明知と安寿はいかがであろう。邪魔をしているのではないか」
やはり、理子も気になっている様子だった。
「明知様はひたすら勉学に勤しんでおられます。すご過ぎるほどに。そして安寿姫は」
そこで一息をつく。ここからが本番だった。
「元気をふりしぼって頑張っています」
と言ってみた。
理子の顔がわずかに曇った。理子がそれだけですべてを理解したと思った。
「そうか」
「いろいろあったと聞きました。今、あの二人、というか安寿姫は夫婦を演じているって感じです。なんか見ていられません」
痛々しくてという言葉は飲み込んでいた。
「あの安寿が雪江殿には、その胸の内を打ち明けたのじゃな」
「え? はい、一応」
「あれはのう、胸の苦しみを誰にも打ち明けようとはせぬのじゃ。悩んでいることは明白、すぐに見ればわかる。しかし、ずっと一緒にいる侍女にさえ、打ち明けぬ。愚痴もこぼさぬ様子なのじゃ。人は苦悩をため込むと終いにはその行き場所がなくなる。抑えきれなくなったらと、わらわはそれを心配していた」
意外にも理子は嬉しそうにそう言った。安寿のことを心配している。
雪江は安寿と側室とのことを聞いてみた。
「確かに安寿と八千代は仲が良いとは言えぬのう」
こぼすように言う。
「火事の前に側室の方の懐妊の噂が立ったと聞きました」
「ああ、あれか。あれはちょっとした勘違いであった。その噂をした侍女たちにはきつく言っておいた。皆がその一言で、振り回された一日だったからのう」
やはり聞いていた通りだった。
「それってわざと?ってこと、ありませんか?」
思い切って言った。その噂で、安寿は打ちのめされたのだから。
しかし、さすがの理子も悪意的に言う雪江に厳しい目を向けた。
「あの噂、意図的に流したと申すか。安寿がそう言っておるのじゃな」
「そう考えても仕方がないと思います。側室が懐妊したということは、ご正室にとって一番つらいことだと思うし、現に安寿姫は周りの噂に翻弄されて、ボロボロになっています」
ここできちんと言わなければいけない。安寿の傷ついたことも。
「あの噂はすぐに八千代が違うと打ち消した。ただ、その場にいた者が勝手にそう思い、噂をしただけだとな。それがあっという間に風のように広まり・・・・。皆そういうことには敏感になっておるからのう」
「はい、そうです。みんな過敏になっているから、その侍女はちょっとだけ側室の食が進まないことを呟けばよかったんです」
理子は雪江をじっと見据えて言う。
「よく考えよ。もし、八千代がわざとそういう振りをして、噂を流したかったのなら、もう二、三日はそのふりをしていてもよかったのではないか。そういうことは多々あることぞ。そんなことをしなくても安寿は八千代を毛嫌いし、明知ともギクシャクしていると聞いた」
理子に似合わない強い口調、厳しい表情に雪江の腹にずんと冷えたような重いものがのしかかっていた。
やはり、理子は八千代の味方なのか。安寿が明知と寝ることを拒否しているのは、そもそも八千代が来たからなのだ。それをなぜ、安寿が一方的に悪いように言われなければならないのか。
許せなかった。
理子こそ、安寿の気持ちがよくわかるお方だと思っていたのに。怒りを感じ、手がブルブル震えてきていた。
「安寿姫が……かわいそうです。みんなが側室の味方になって、安寿姫がどれだけ心を痛めているか。明知様に触れたくてもどうしても側室が思い出されて、触れられないって、そばにいるだけで精いっぱいなんだって・・・・泣いておりました。それでも明知様は、きちんと安寿姫のところへも通い、二人で何事もなく寝てるって、そのやさしさにも涙しているそうです」
雪江もそこまで一気に言ってしまい、涙していた。泣くまいと思っていたのに、安寿の心を思うと抑えきれなくなっていた。
理子が驚いていた。そして呆れたようにため息をついた。
「雪江殿が泣くことはなかろう」
「すみません、つい」
「よい、雪江殿が安寿のことを心配し、かばってくれる気持ちはよくわかった。それはうれしい」
「じゃあ、なぜ理子様は側室の味方をされるのですか」
つい、雪江は今ほんの少し理子の見せた安寿に対するやさしさに甘えて言ってしまった。
たちまち理子の表情は再び厳しくなった。
「味方と申したか。雪江殿、これには味方も敵もないぞ。明知を取り合う喧嘩でもない。これは近江水口藩加藤家の重要な跡取り問題なのじゃ」
雪江は息を飲む。理子の厳しい目を見ていた。
「安寿が明知を思うのなら、なぜ抱かれようとしないのじゃ。明知が八千代を抱くから嫌じゃと。比べられるからなどと。そんなことは最初からわかっていたはず。明知とて、好色で他のおなごに手をだしたわけではない。あれも、明知もな、安寿だけを見ている。だが、加藤家の存続のために、八千代を受け入れてくれた。一番つらい思いをしているのは明知ではないのか。そんな思いの明知を拒否して、自分だけがつらいと思っている安寿は子供すぎるっ」
ぴしゃりと言われた。
そうだ。理子の言う通りだった。明知の心はどうなるのだ。安寿のことを思っていても、他の女人を抱かなくてはならない。そのことで安寿が明知を受け入れられなくなっていた。安寿もつらいがそれをすべて自分のせいだと一人で思っている明知が一番つらい立場なのだ。本当に誰の味方をするという問題ではなかった。
理子の言う通りだった。目が覚めた気がした。
雪江は母に叱られたかのような気分になっていた。もう先ほどの怒りはどこかへいってしまっていた。叱られてシュンとしている。
それを悟った理子がやさしい声を出した。
「すまなかった。雪江殿は安寿のために言ってくれていたのに、つい声を荒げてしまった。許せよ。そなたは正和の奥方、そなたも娘と思っておるのじゃ」
その言葉に緊張がほぐれた。
「私こそ、失礼なことばかり言って申し訳ございません。本当に、母に叱られたような気分になりました」
理子がふっと笑った。
「綾にか? あの綾ならもっと厳しいことを言っていたかもしれぬ」
綾とは? 綾は理子の侍女で、双子の龍之介が生まれた時に桐野家へ一緒にきた。正重に見初められ、側室となり、雪江が産まれた。
父からも母のことを聞いている。きっと本質をはき違えていると怒鳴られたかもしれない。
「わかってくれるか。この理子もつらいのじゃ。正室と側室の関係は、いつの世もおなごの嫉妬にかられ、決して簡単にはいかぬ」
「はい、なんとなく、想像できます」
「八千代はな・・・・・・」
理子がなにか言おうとしていた。
「はい」
「そうじゃ、ここへ八千代を呼ぼう。あれがどんなおなごか会ってもらった方が話が早い」
ええっと思う。しかし理子はもう声を張り上げていた。
「八千代をこれへ。そして他の者は皆、下がっておれ」
「はっ」と、控えの間の方から侍女の声がした。