中秋の名月
酒に酔った気分の悪い状況のシーンがあります。
関田屋のご隠居は、所用で出かける寸前だったそうだ。
帰ってくるまで待つというお勝たちに、今夜は中州の旅籠「あかり」で月見をするから、その時に会うと言われたとのことだった。
ご隠居に会えばなんとかなると思っていた雪江は、またこの中途半端な感情を引きずらなければならないと思い、憂鬱になった。
「大丈夫さ、式部長屋の住人は皆、招待されたんだよ。そこへ来いということは悪いようにならないよ」
とお勝が言う。
本当にそうだといいのだが。
長屋に戻るとちょうどお信乃が家から出てきた。皆の姿を見ると形だけの会釈をして、プイと背中を向けて足早に行ってしまった。
お勝とお絹が申し訳なさそうにしている。
「堪忍してください。無調法で」
お勝は丁寧に頭を下げると家の中へ入っていった。お絹はうなだれている。
「姉さんはね、昔はあんな人じゃなかった。ただ、嫁ぎ先のお姑さんと合わなくて、跡取りとなる男の子が生まれたとたん、もう姉には用がないとばかりに邪険にされて・・・・。一度うちに泣いて帰ってきたら、夫も子供も捨てて家を出た女はもう戻ってこなくていいと言われて、そのまま離縁になったんだよ」
見るとお絹は目に涙をためていた。
「以前は明るい優しい姉だったのに」
いつもの元気なお絹が涙をこぼしていた。雪江はそっとお絹を抱きしめていた。お絹もされるがままになっている。
本当だ、小次郎の言うとおりだった。表面に出さなくても皆がなにか困難を抱えている。その困難があるから、こうして人にも優しくできるんだと思った。
小次郎と龍之介は二人をそっとそのままにしておき、自分の家へ入った。
お絹は一頻泣いていたが、やがて雪江の腕の中でつぶやいた。
「あ~あ、これが小次郎さんの腕の中だったらねえ」
まだ目は赤いが、お絹に笑顔が戻っていた。
「あれ? お絹は龍之介さん派じゃなかったの?」
「どうせ、高嶺の花なんだからさ。脈のないお人は諦めた。小次郎さんに乗り換えさ。龍さんは雪江に譲るよ。」
「えっ、なんで私が・・・・。別に関係ないし」
「あはは、そんな大きな声で。中にいる龍之介さんに筒抜けだよ」
やはり、お絹の笑顔は最高だ。なにか悩んでいても笑顔でいてほしい。見ているこっちまで明るくなっていた。
「よかった、お絹が元にもどって」
「なにいってんだい。このお絹様がいつまでもメソメソしているかと思ったら大間違いだよ。さあさ、今夜なにを着て行こうか? 一通り着てみるかい? ああ、一人で着られなかったね。ったく、面倒だけど着せてやるさ」
痛いところを突かれて、雪江は赤面した。さっきまで泣いていたお絹にもうやられている。
今日は中秋の名月、十五夜なのだそうだ。長屋の十五世帯が全員、招待されていた。それでも長屋のお内儀たちは、せっせとススキの穂や秋の草花を飾りつけていた。
月見団子も作っていたが、その大きさは手の平大で、雪江はそれを見て思わず、テニスボールと言ってしまうところだったのだ。
夕方、関田屋の経営する旅籠「あかり」にきていた。宿の一階には料亭風の食事処になっていて、二階から宿泊の部屋が並んでいる。料亭の奥には宴会場もあり、式部長屋の住民の宴会は奥の水辺がよく見渡せる場所に用意されていた。
長屋の住人は初対面のはずなのに、皆が雪江のことを知っていた。
「あんだけ大騒ぎの元になったんだから、あんたのこと、知らない方がどうかしてるよ」
と、お絹は言うが、その騒ぎを大きくしたのはお絹だろうとボソボソつぶやく雪江だった。
女中たちがお膳を運んできた。酒も速やかに用意される。
ハマグリのお吸い物、白和え、ごぼうの煮つけ、魚の焼き物などだ。
「たかが、裏店の店子に、いくら名月だと言ってもここまで持てなすとは、関田屋とはいったい、何者なのだ」
雪江の隣で、龍之介と小次郎があーでもないこーでもないと議論をしていた。お絹はお酌をして歩いている。
雪江の背後で声がした。
「式部長屋の皆さま、今夜はよくお越しくださいました。関田屋のご隠居はまもなく参りますので、どうぞお先に酒と料理をご堪能ください」
どこかで聞いたことのある声だと思ったが、雪江が振り返るともうその声の人物は背中を向けて歩いて行ってしまった。
まあ、気のせいだろう。こんなところに知り合いがいるわけがない。
「かんぱ~い」
と威勢のいい声がした。お絹の父親、田ノ助である。
気づくともう隣に座っていた。にっこり笑って酒を雪江にすすめる。
「え、お酒? まだ、未成年だから飲めません」
田ノ助は不動の笑顔で、
「大丈夫、お絹は毎晩飲んでる」
「えっ、お絹ちゃんが? 本当ですか?」
「ほんと、毎晩飲んでる」
「じゃ、乾杯だけ」
「うん、乾杯だけ」
盃を向けると溢れんばかりに注ぐ。
「おっとっとっと」
田ノ助は雪江の盃に注ぐと自分も湯呑茶碗にグビグビと注いだ。それを飲みながら、雪江にも飲め飲めとジェスチャーですすめる。
雪江は恐る恐る口をつけた。ビールくらいならちょっと飲んだことはあるが、日本酒は初めてだった。
ちょこっと口をつける真似をしたら、その盃をグイと持ち上げられて、つい全部飲みほしてしまった。カア~と胃の辺りが熱くなる。ふと見ると、田ノ助はニコニコしてもう雪江の盃に酒を注いでいた。また、飲め飲めのジェスチャーをされる。
雪江はまた飲みほしてしまった。細胞という細胞が初めて体験するアルコールを吸って膨れ上がり、熱を持ったような感じになる。二度目はもっと飲みやすかった。ほんのり甘く、酒独特の苦さも感じられるが、それほど気にならない。
もう一杯だけと思いながらも、飲み干すとすぐに酒が注がれている。まるで椀子そばのように素早く盃を隠さなければ、次々と酒を注がれ、田ノ助からは逃げられないようだった。
ちらりと隣の龍之介たちを見る。彼らは彼らで全く別の議論をしていた。お絹は正反対の方向で、オヤジに絡まれて動けない様子。お勝は同じ年齢のおばさんたちと話の花が咲いていた。
田ノ助を見ると、お絹のお膳をパクパク食べている。また、飲め飲めのジェスチャー。
仕方なく飲み干す。本当に素早く注がれる酒。また飲み干してから、お腹空いたとばかりに豆腐の白和えを口にいれた。
「ああああっ、お父っつぁん」
轟くようなお絹の声に、田ノ助は飛び上がる。
その様子を見た雪江は、おかしくて口の中の白和えをブ~と霧吹きのように吹き出した。手にしていた盃は転がり、酒もこぼれ、それでも雪江はケラケラと笑い転げていた。もう止まらない。おかしくてたまらなかった。
隣の龍之介たちもあっけにとられている。
「飲めない酒を飲んだのか」
とつぶやくと、お絹の一喝が飛んだ。
「龍さんたちも隣で何してたのっ。こんなに飲ませてっ、見てなきゃだめじゃないっ」
田ノ助も龍之介、小次郎もお絹にどやされてシュンとしている。雪江はその姿を見て、ますます笑いが止まらない。おなかがよじれるほど笑うということはこういうことなのだと思った。おなかが痛くて、ヒ―ヒ―言いながらも笑いが止まらない。
「いやあ、酒を注ぐとクイって飲むんだよ。また注ぐとクイって飲むからさ。どこまで飲むんだろうっておもしろくてねえ」
お絹にどやされても全く反省の色が見えない田ノ助は、愉快そうに隣の青年にそう話していた。
誰かが三味線を弾き、それに合わせて小唄を歌う。踊る者も出てきた。宴会は盛り上がっていた。
雪江の初めてのお酒経験だった。地球が回っているのがわかる。いや、地球の重力が変化している? 床に頭が吸い寄せられると思ったら、ゴツンと倒れていた。
痛い。すぐさま、お絹が駆けつけて抱き起こし、膝枕をしてくれた。グア~ンと頭が振られ、目が回る。
「仕方のない子だねえ」
「あ、関田屋さんだっ。雪江、関田屋さんだよ」
関田屋のご隠居がやっと登場したらしい。皆の前に座ってお辞儀をする人物をみた。
「皆さま、遅れて大変申し訳ございませんでした。関田屋の隠居、近右衛門でございます」
歌うような調子で皆に挨拶をする。皆が崩していた膝をきちんと正座をし直した。
お絹もあわてて雪江を揺り起こす。
「ねえ、ご隠居がきたよ。雪江、挨拶しなきゃ」
龍之介も手伝ってくれて雪江はなんとか一人で座ったが、頭がふらふらしてシャキッと座れない。なんか、気分が悪くなっていた。まるで車酔いをしたよう。
やがて、雪江の真っ青な顔をみて龍之介がギョっとなった。
「もしかして、気分が・・・・悪いのか」
雪江はうなづいた。
うっとこみ上げるように、手で口を覆う。
お絹もそれを察して叫んだ。
「龍さん、お手水へ」
「あい、わかった」
龍之介が雪江を抱きかかえて立ち上がった。そして、厨房近くのお手洗いへ連れていった。
そこへ背の高い目もとの涼しい美人が手ぬぐいを持ってやってきた。
食事処の女将だそうだ。真っ青な顔をして出てきた雪江に水を差しだす。その水を飲むと雪江の顔に赤みが戻ってきた。
ふうと息をつく。あんなに苦しい思いは初めてだった。お酒って怖い。
「雪江ちゃん、しっかりしなさい」
りんとした声をかけられ、雪江はシャキッとして、
「はいっすみません。先輩」
と答えた。
江戸時代の月見団子はかなり大きかったらしいです。
ちなみに私の実家は甲府ですが、月見団子の中には餡が入っています。調べると、他の土地では入っていないらしいですね。