お光の病い
雪江は、利久とお光のところへ改めて挨拶に出かけていた。正重の言う通り、小次郎と徳田を連れてだ。
徳田はヒマそうに大あくびをしているが、小次郎は徳田と一緒なので少し気が楽なのだろう。嬉しそうにポツリポツリと話しかけている。
利久は仕事で留守だった。お光は、夕べの騒ぎでよく眠れなかったようで、顔色も悪く、体調が悪そうだった。
今日は、裕子の焼いてくれたパウンドケーキを持ってきた。これはしっかり砂糖が入っているから日持ちもするし、この寒空ならばカビの生える心配もない。
お礼を言ってすぐに立ち去ることにしていた。早くお光を寝かしてやりたかった。また無理して雪江の相手をし、咳が出ても困ると思っていた。
お光は受け取ったパウンドケーキを珍しそうに眺めていた。
「本当にありがとう存じます。利久さんにもよろしくお伝えください」
と、雪江が立ち去る挨拶をしたとたん、お光が顔を曇らせた。
「どうかお急ぎでなければ、もう少しこの病人の相手をしてくださいませんか。わたくしなら大丈夫ですので」
え?と思っていた。どう見てもつらそうにしている。それでも帰らないでほしいと言うのだ。
「じゃあ、お光さん。寝ていてください。私、枕元で話をさせてもらいますから。お言葉に甘えてもう少しだけ」
お光の顔から笑顔がこぼれる。はい、とうなづいた。
雪江は上に上がり、お光を抱えるようにして奥の寝床へ連れていく。やはり、雪江が訪れる前までお光は寝ていたのだ。布団がそのまま敷いてあった。お光がそのまま寝床に入る。
「本当にご無礼を申し上げました。あい、すみません。いつも利久が外に出ている間はわたくし一人なのでございます。元気ならば、外へ出てご近所さんとつきあえるのですが、最近、咳が出るようになって、皆が警戒しているのが感じられて・・・・・・。それから外へ出るのも遠慮しております」
「そんな、じゃあ、ずっと一人で利久さんが帰ってくるのを待ってるんですか」
「はい。でも、煮炊きもしますし、案外元気なのですよ」
とお光が言った。そして付け加える。
「あ、でも決してうつる病気ではございませんのでご心配なく」
「いえ、そんなことは気にしていませんでした」
雪江もそう答える。
この時代、顔色が悪く、咳が出るというと労咳(結核)を思い浮かべるのだ。お光は決心したように語り始めた。
「わたくしは・・・・・・。ここにしこりがございまして、それが悪さをしているのでございます」
お光は左胸に手をあてた。よく見ると左側の方が大きく見える。
しこり? 腫瘍のことだ。つまり・・・・・・ガン。
さっと雪江の顔色が変わった。乳がんのことだろう。目に見えるほど大きくなっている。
お光は敏感にそれを見ていた。
「奥方様はお若いのに、これがなんであるかご存じのようでございます。これができてもう二年が過ぎました。利久が江戸の医者にも診てもらうと言ってききませんでした。でも、どの医者も首を振るばかり。手の施しようがないのです。あと少し、自分のやりたいように生きろと言われました」
二十一世紀でも、早期発見できれば手術を受けることができる時代であっても死亡することがある。ましてや、まだこの時代は乳がん摘出は実現できてはいない。
世界初の全身麻酔で乳がんの手術をしたと言われる華岡青洲でさえも、成功させたのは文化二年のことだ。雪江の今いるこの時代から二十四年も後のことだった。
咳が出始めているということは、すでに肺に転移している可能性もあった。そんなことを考えて、雪江は一人で暗い顔をしていた。
当の本人のお光がにっこり笑う。
「そんな顔をなさらないでくださいまし。悪い事ばかりではないんです」
雪江がお光を見つめる。何と言っていいかわからない。
「以前の利久は、仕事でも何でも夢中になるとそっちにかかりっきりになってしまうのです。わたくしのことなど眼中にないように。ずっとほったらかしにされていました。けれど、この病いがわかってからはやっとわたくしを見てくれるようになりました。それが嬉しくて、こんな事を言うと叱られますが」
「以前って、そんなに利久さんのいない日が多かったんですか」
「はい、一年以上も家を空けていたこともございます」
「ええっ、そんなに?」
「はい。おまけに筆不精でございます。わたくしだけ、便りを書いても梨のつぶてで」
ああ、それはつらいだろう。そして、お光が利久を本当に好きなのが伝わってくる。
ぽつりとそう言うと、お光が目を輝かせてうなづく。
「あの人は、わたくしのすべてでございます。唯一心残りなのは、あの人より先に逝くことでございます」
「そんな・・・・・・」
「でも仕方がありません。よいのです」
諦めているのか、それとも悟っているのか。
明るく笑うお光と沈んでいる雪江。これではどちらが死の宣告をされたのかわからない。
「本当に雪江様はお武家さまの奥方様に見えませんね」
そうお光が言うと雪江がやっと笑った。
「はい、よく言われます」
「あ、でも決して悪い意味ではございません。普通の奥方様はあまり外には出られませんので」
お光が慌てて付け足した。
「いいんです。私、元々武家の姫として育っていないんです。父は大名ですけど、事情があって最近まで知らずに育ちました。だから他の大名の奥方様のように家の中でじっとしていられないんです」
「そうでございましたか」
「だから、あの火事もつい、一人で出ていって・・・・・・。迷惑をかけてしまいました。みんなに心配をかけてしまいました。だから今日もどっかヘ勝手に行かないようにと、見張りが二人に増やされました」
雪江がちょっと顔をしかめて表の戸の方に目をやると、お光が顔を綻ばせた。
小次郎はともかく、徳田は目立つ。大男だから、どっかのプロレスラーが用心棒になったように見える。
お光は雪江と話していて気が紛れたのか咳も出ず、顔色もよくなっていた。
「雪江様、もしも許されましたらまた、お越しくださいまし。この病人のお相手をさせて申し訳ないのですが」
「はい、また来ますね」
雪江も楽しかった。
お光と話していると、やさしい姉といるような感覚になる。この人を喜ばせてやりたいとも思う。
「雪江様と話していると、なんだか元気が出るような気がするのでございます」
「私でよければ、元気のパワー、あ、力を差し上げます」
やばい、ついカタカナ語が出てしまった。しかし、お光は気にしていない様子だった。雪江は一応きちんとかしこまって座りなおした。
「利久さんにはくれぐれもよろしくお伝えください。あのお方があの時あそこにいなかったら、私、今ここでこうして笑っていられませんから」
お光が恐縮していた。お光はあわてて起き上がり、布団から出て正座をした。雪江が今度は慌てる。
「お光さん、寝てて」
「いえ、そうはいきません」
「今度、上屋敷へお越しくださいとのことです。父が、私を助けてくれたお礼に、お望みの物をとのことです」
お光の目に戸惑いの色が浮かんでいた。
そんな大それたことを、と言っているようだ。
「ね、とにかく、利久さんにそうお伝えください。一応、これが父からの書付です。これをお渡しください」
雪江は懐から書状を取り出し、お光に渡した。
その日はそのまま帰ってきた。
龍之介からの報告によると、利久はそれから三日後に上屋敷へ出向いたそうだ。
正重が、なにか望みの物を取らせると尋ねたそうだ。普通なら、金か家か、仕事かと。
利久は全てに首を振った。
「雪江様のお命に代えられるものはなにもございません。そのお気持ちだけで結構でございます」と言ったそうだ。
それを聞いた雪江は、利久の心の中がわかるような気がした。
今の利久にとって欲しいものとは、お金でもなく、家でもない。おいしいものを食べても所詮、それが幸せにしてくれるわけではないのだ。そのことをよく知っていた。彼の本当の望みはお光の病気を治すこと、つまりお光、そのものだった。
それでも正重がしつこくたずねると、利久はじっと考え、こう言った。
「では、妻のお光の病いを・・・・・・ここの藩医様に診ていただけたらと存じます」
正重は、お光の乳癌のことを知らなかったから驚いたらしい。
「妻はずっと以前から胸にしこりを持っております。最近ではかなり大きくなって、辛そうで・・・・・・。どの医者に診てもらっても首を振るばかりでございます。それでも万が一ということもあろうかと、望みを捨てきれません。こちらの藩医様に診てもらうことができたら、それで私の気がすみます」
それは利久自身も無理だとわかっている、しかし、他の医者に診てもらいたいという希望を捨てきれないのが伝わってきたそうだ。
正重はすぐに承諾し、藩医をお光のいる長屋に差し向けることを約束した。そして、桐野の上屋敷と雪江のいる中屋敷にて、利久が奥向きの女中相手に商売をすることを許した。
それから雪江は、二日たってまたお光のところへ行った。
もうすでに藩医が訪れた後だった。
やはり、もう手の施しようがなく、咳き込んだ時のために薬をくれたそうだ。
「本当に望みを捨ててはいけないと思いました」
うれしそうにお光は言った。
「咳の煎じ薬、よく利くのです。以前は一度咳き込むと、息ができないくらいになり、夜中も隣に迷惑がかかるとひやひやでした。これを飲むと落ち着いて、夜もよく眠れるようになりました。そして、このお薬、無くなったらまた届けてくれるということにございます」
お光が感謝して、合掌をする。
病気が治るわけではないのだ。しかし、咳が治まるだけでこんなに喜んでくれる。
本当に人の欲するもの、本当に欲しい物って何だろうと思った。雪江に今、望みの物を何でも与えてくれると言われたら・・・・・・。わからない。この平穏な毎日?かもしれなかった。しかし、それは人から与えてもらえるわけではない。自分がそう考えていなくては、一生をかけても満たされないことだろう。
この日も利久はいなかった。昼過ぎなのだから当たり前なのかもしれない。雪江も小次郎と徳田を連れまわしているため、いつまでもお光と話していることはできなかった。特に徳田は、夕飯の仕込みのために屋敷に戻りたくてうずうずしていた。この日も少しだけ話をして、雪江は戻らなくてはならなかった。
その晩、龍之介に言われた。
「もういいだろう。あの利久には感謝しているが、雪江がそう何度も足を運ばなくてもよいのではないか。利久はここにも来て商売をしている。もうあまり他人の生活に入り込むな」
「ねえ、それってもう係わるなっていうこと?」
雪江は妙にムキになっていた。
「そうは言ってはおらぬ。しかし、そう頻繁に行かなくてもよいのではないかと申したのだ。ひと月に一度くらい、顔を見にいくくらいでよかろう。利久殿はここへ来るのだから」
「ひと月? そんな・・・・・・それって絶対に行くなって言ってる」
龍之介はため息をついた。
「実を言うともうあまり町へ出てもらいたくはないのだ」
なぜ、龍之介がそんなことを言うのかわからなかった。
「じゃあ、私に籠の鳥になれって言ってるのねっ」
雪江は頭に血が上っていた。興奮状態になる。いつもの口論とは違う何かがあった。
悔しくて涙が出ていた。同じ床に龍之介が入ってきても、頑なに背を向けていた。
「なぜ、そんなにあの者たちにこだわるのだ。命の恩人だが、今まで知らずに過ごしてきた。なぜそんなにかかわらなければならないのか」
龍之介が諭すように言うが、完全に無視していた。龍之介はやれやれと言わんばかりに再び大きなため息をつき布団をかぶった。
今はお光のことが念頭から離れないのだ。ガンだからかもしれない。あとわずかな命だからかもしれないが、自分のことよりも人の心配をしているお光に惹かれていた。お光の笑顔を見るために何かしたいと思っていた。
昼は一人でいるお光。雪江にできることは時々顔を見せて話し相手になることだった。