龍之介の思惑
正重を囲み、三人で朝餉をとっていた。
「雪江を助けてくれたあの利久という者には充分にお礼をせねばなるまい。命の恩人ぞ」
正重がそう言った。
「堺から来た商人だそうだな」
「はい、上屋敷と中屋敷の奥向きに出入りを許し、商売をさせてはどうかと思いますが」
「うむ」
そこへ、雪江が不思議そうな表情で訴えかけてきた。
「ねえ、あのご夫婦ってさ、薩摩じゃないの? ずっと九州の南」
「いや、あの利久ははっきりと生まれも育ちも堺だと申した」
雪江は考え込んでいた。何か納得できない様子だった。
「違うよ。絶対に違う。まだ寝ていてウトウトしていたけど、あの二人の会話、聞いたの。あの人たち、関西弁じゃなかった。全然響きが違うもん」
今度は正重と龍之介が、顔を見合わせていた。
「雪江は、双方の言葉の違いがわかるのか?」
と龍之介が問う。
武士として生まれると普通、武家言葉の環境で育つ。龍之介は、甲斐に住んでいたから地元の方言はわかるが、その言葉を使うとたしなめられた。
「まあね、関西弁はテレビとかで聞きなれているからすぐわかるし、あの人たちは、《ごわす》とか《おいどん》って言ってたから、そうかなって思って・・・・。違うのかな?」
「雪江もなかなか、物知りなのだな」
正重が褒めた。雪江は嬉しそうに見る。
雪江は時々、こうした普通の人が知り得ない事柄をよく知っていた。雪江がそういうのだから、きっとそうなのだろうと考えていた。
その時、正重と龍之介は目で、やり取りをしていた。
食事をしながら、雪江はその《てれび》とかいうものの説明をしてくれている。
食事が終わるころ、正重は付け足すように雪江に言った。
「雪江、商人とはあちこちの土地へ出向く。あの者はきっとそちらの方面にも足を伸ばしておったのだろう。人にはいろいろと探ってはもらいたくない過去があるものだ。今日は、あの者の家にお礼に行くのだろう。その時にずけずけと聞いてはならぬぞ。向こうが自分のことを語りだしたときに耳を傾けることが大事」
「はいっ」
雪江は、その夫婦に薩摩の出身か聞くなと諭されていたが、それに気づかずにいた。それどころか、正重に行ってもよいと言われたことがうれしかったようだった。
江戸の町に火がついて大騒ぎだった時、寝ているはずの雪江が忽然と姿を消したと、奥向きの侍女たちが孝子と一緒に訴え出てきた。
火事はこの中屋敷からはだいぶ距離があったが、その風向きは加藤家の上屋敷と節子の家の方角に向いていた。
だから、時々火事の様子と避難状況を報告させていた。手助けするために人を送っていたのだ。
特に心配だったのは双子の兄、明知のことだった。体が弱いため、あまり外に出ない。そんな明知が、風の吹き荒れるこんな夜に外へ出て避難しなければならなかった。これでまた熱でも出たらと気が気ではなかった。
火は節子の家を舐め尽くし、加藤家の屋敷もその一部を焼いた。節子の家はまた借りればいい。この近くに見つけようと思う。雪江の外遊びも楽になる。
武家はこんな非常時のために中屋敷、下屋敷があるから、修復されるまで少し時間がかかるだろうが、行くところはあるのだ。そんなことを思い、皆が無事でいることが確認できてほっとした時だった。
雪江の侍女、お初は涙ながらに言う。
「雪江様が町に出ていくときにお召しになる小紋が見当たりませぬ。誰かに脅されて、さらわれたのでしょうか」
静かに、口答えもしないおとなしい姫ならばともかく、あの雪江が黙ってさらわれることは考えにくかった。
「あれがさらわれるには、大男三人は必要ぞ」
とつぶやいてしまって、孝子に睨まれた龍之介だった。
龍之介は、雪江がどうして屋敷を抜け出したのか、容易に想像がついていた。
「たぶん、火の手が節子の家と加藤の家の方面と知ったのだろう。きっと心配でいられなかったと見える。門番に雪江らしい女が出て行ったか問うように。咎めはせぬ。あの雪江のことだ、抜け目なくやったのだろう。それに今宵はそれどころではなかったはず」
すぐに門番からの報告があった。
使者が立て続けに入ってきたとき、その対応に追われていた。その時にチラリと女中風のおなごが出ていくのを見たとのことだった。
入ってくるものを先に厳重に取り調べなければならない状況だった。出ていくものは放っておいても仕方がなかった。
「小次郎、すまぬ。雪江を探してくれぬか」
「はっ」
雪江を探すのは、顔を知っている者でなくては無理だった。この大火事の混乱の夜だ。その仲間に、火事の様子を見に出ていた徳田も加わった。
無事に帰ってきてくれることだけを祈った。この時はまだ、上屋敷の兄には報告をしていなかった。すぐに小次郎たちが連れて帰ってきてくれると思っていた。
しかし、一度やつれた顔の小次郎が戻ってきた。それまでの報告を受けてた。
「雪江様は割と目立っておられました。一人で火の手が気になるように、キョロキョロしながら歩いていたと何人もの人が見ておりました。しかし・・・・・・」
小次郎が言葉を切った。
「雪江様が大橋の近くにいたことは確かでございますが、その橋の上から重い物を積んだ荷車が、勢い余り人の手から離れまして暴走したそうです。次々とその場にいた人がはねられました。その後、雪江様の消息は途絶えております。一時、そのあたりは血を流して倒れるもの、泣き叫ぶもの、荷車の車輪に牽かれたものは目もあてられぬ様子であったそうです。まだ、けが人がその辺りにおりました」
龍之介はその報告を聞いて青くなっていた。その状況、阿鼻叫喚の巷と化した様が目に浮かんだ。
もうこれ以上、正重に黙っていることはできなかった。使者をたてて上屋敷にいる兄に、雪江が行方不明になっていることを告げた。兄はすぐに中屋敷へやってきた。
「誠に申し訳ございません。このような夜に」
兄に合わせる顔がない。正面からまともに見られなかった。奥方一人を満足に守れない自分に、不甲斐なさを感じていた。
「そちのせいではない。あの娘の性分ぞ。しかし、見つからぬとすれば、何か難事に巻き込まれたことは明らか」
「はい、手を尽くして探しておりますが、何分夜中となり、人も途絶えており、難行しております」
正重は落ち着いた表情でいるが、内心は心配でたまらないはずだった。
「よいな、正和。きっと雪江は無事だ。誰かの手で助けられたのだ。そうでなければとっくに見つかっている」
兄の言うことの意味がわかっていた。
火事などのけが人は、数か所で手当てをしてもらっている。そこを調べたが、雪江らしい人が運ばれてきた形跡はなかった。火事での死者も数か所に集められていた。
火事には近づけなかったはずだから、その中にいる可能性はなかったが、一応、むごい骸を一体一体確かめたということだった。
しかし、そこにも雪江らしい姿は見当たらないという。
多少なりとも怪我をして、誰かの家で手当てをしてもらっていると考えるほかなかった。
皆には心配はいらぬと言い、平静を装っていたが、内心は龍之介自らが外へ出て探しに行きたい心境だった。
そんな夜も更けたころ、一人の男が桐野の中屋敷を訪ねてきた。普段なら夜中にはその門は閉ざされているが、この夜は雪江の安否がわからないため、門は開け放たれ、数人の門番が立っていた。
利久が雪江を無事に保護していると伝えると、すぐさま表向きで待機していた龍之介に知らされた。龍之介が表門まで出向いた。
そのまま利久が家まで案内をしてくれる。その途中でうまく小次郎たちと合流することができた。
利久の家に向かう途中、利久は堺から来た商人だと言った。病気の妻の養生のために江戸へ来ていると。
火事や人々の様子を見に外へ出ていて、雪江と会話をしたそうだ。帰ると言ったその直後に荷車が暴走してきて大騒ぎとなった。
雪江は、大橋近くにある長屋で介抱されていた。少し頭を打ったらしく、夜更けまで眠っていたから、目覚めるまでどこの誰なのかわからなかったのだ。
雪江は殆ど無傷だった。転んだとき、頭をぶつけ、少しコブができていて、手をすりむいただけだ。奇跡に近かった。
龍之介は、朝餉が済んで雪江が湯あみのため出て行った後に、正重に報告していた。
利久が普通の商人ではないことに気づいていた。町人らしくバタバタと走っているし、その背には隙もみせているが、その意識は龍之介の武士としての技量をはかっていることに気づいたのだ。それは一瞬のことだったが、それがわかる。龍之介もだてに甲斐大泉の田畑を駆け巡っていたわけではない。
「フム、なるほど。雪江の申す通り、本当は薩摩の間者かもしれぬな。何かを探りに来ているとしか思えぬ」
「兄上、もしあの者が薩摩の乱波(忍びの者)だとしたら、そこへ雪江をやるのは危ないのではございませんか」
雪江が、薩摩の人間だと気づいたことを向こうが知ったら消されてしまうかもしれないという不安があった。
「だから、余計な事を言うなと諭しておいた。そして、雪江があの者のところへ行くときには必ずや、小次郎を連れていくように。そう、台所役人の徳田も適役だ」
意外な選択だった。
徳田は一応格闘技の武芸は身に着けているが、肝心な剣の修業はやってはいない。前世が正重の側近だったとわかり、かなり兄は信頼しているようだった。
正重は、龍之介の戸惑いを察して、にやりと笑って言った。
「あの徳田以外にバカ、たわけ者などという言葉を雪江に浴びせられる家臣は他におらぬ」
龍之介は納得した。
「ごもっとも」
兄の言う通りだった。その未来からの知り合いで雪江の行動もある程度把握でき、簡単にたしなめられるのは徳田しかいなかった。裕子も手厳しい事を言うが、おなごである上、徳田が適任だった。
「我らの乱波を仕向けて、あの者のことを探らせよう。たぶん、向こうもこっちが動くと気づくかもしれぬが、こちらも目を光らせているという知らせでもある。容易には尻尾を出すまいがな」
「はっ」
乱波とは忍びの者のことだ。
甲斐は元々、武田信玄の支配下だった。その頃から乱波を巧みに使っていたと言われている。
正重の父が甲斐大泉藩を任されたとき、この乱波の末裔を集め、その埋もれていた技を磨かせた。今は他の大名家や将軍家までの情報を得ていた。だから今もなお、甲斐大泉はそれほど目立たず、平和なのだろう。
龍之介も小次郎も子供の頃、剣や他の武芸の手ほどきをこの乱波から受けていた。殺気術という、人が発する殺気を感じ取り、敵の気配を探る技も習っていた。これは特に小次郎の得意とする術だった。