利久とお光
近くでひそひそ聞こえる男女の声に気づいた。
「ぢゃっどん、いっちょりますがっ」(でも、そう言いますが)
と女の声。
「しっ、声が高い」
それをたしなめる男の声。後は聞こえてこない。
雪江は再び眠っていた。
誰かが咳き込んでいた。女性のようだ。ずいぶん苦しそうだった。
「すぐに横に」
女をいたわる男の声。
それでも女はまだ、咳き込んでいた。男が女の背中をさすっているらしい。ハアハアと苦しそうにあえいでいる。
「おしか・・・・・・おしか。もうちっと・・・・ちょってほしか」(惜しい、もう少し、・・・・ってほしかった)
男の声がつらそうに言っていた。いつの間にか、女性の咳はおさまっていた。どのくらい時間がたっていたのだろう。
「おまいさん」(おまえさん)
「おいどんは・・・・・・」(俺は)
雪江は夢の中にいた。しかし、たまに聞こえる男女の声に目覚める。
どこかで聞いたことのある訛り。
おいどん・・・・って、聞いたことある、あ、そうだ。何年か前、おばあちゃんとよく見ていた時代劇のドラマだ。そう、西郷さんの言葉だった。西郷さんが出てくる場面で聞いた。ってことは、薩摩の言葉? ああ、懐かしい。
そこで目がパッチリと開く。ハタと我に返った。
暗い部屋にいた。ここがどこなのかわからない。
雪江は寝かされていた。しかも布団の中にいる。なにが起ったんだろう。思い出そうとしていた。起き上がろうとしたが、頭が少しズキリとする。
「あ・・・・」
はあと大きなため息をついた。
その雪江の気配を感じたのだろう。障子の戸が開いた。小さな灯りが目に入った。それと同時に独特の臭いもする。魚油に灯した灯りだった。それだけで貧しい生活をしているとわかる。
当時の蝋燭は大変貴重だった。それを毎日使うにはとても庶民には手が出ない。上等の油を買うのも結構高値だった。この魚油は安いが、臭うからみんな嫌っていて、長屋でもあまり使う人はいなかった。
「おまえさん、気がつかれたようですよ」
その小さな灯りを持つ女性の顔がぼんやりとわかる。
うりざね顔のきれいで優しそうな表情。思わず安堵する。
そして、その女性の後ろから男が姿を現せた。ああ、なんとなく見覚えのあるシルエット。
そうだ、雪江は火事を見るために屋敷を抜け出してきた。あの時、雪江と話した人だった。暗いから顔はよく見えなかったが、影でわかった。誠実そうな笑みを浮かべている。
「よかった、お内儀さん。怪我はないけれど、少し頭を打ったみたいで、気を失ったままでいたから心配しました」
雪江は少しづつ身を起こす。まだ頭は痛むが、大したことはなさそうだった。
雪江の布団の前に、その二人は座った。
「荷車のこと、覚えておりますか?」
男が言う。
「あ、はい。助けてくれたんですね。どうもありがとうございました。あの時、もうだめかと思っちゃいました。ホントに」
男は顔を綻ばせた。端正な顔がぐっと親しみやすくなる。この人、表情をちょっと変えるだけで、かなり印象が変わると思った。
「いやあ、助けたというか、夢中でお内儀さんを押すことしかできませんでした。そのせいで頭を打ったようで、申し訳ない事でございます」
と、丁寧に頭を下げた。
「いえ、そんな。助けていただいたのに、申し訳ないだなんて・・・・」
女性の方が言う。
「火事はもう消し止められました。大勢の人が家を焼けだされてしまいましたが、・・・・・・そう、お内儀さんのご家族は、さぞかしご心配なされていることでしょう」
その言葉に雪江はあっと声をあげる。青ざめていた。
「やばっ、やばい。まじで・・・・・・どうしよう」
あれからどのくらいたっているのだろう。
雪江はほんのちょっとのつもりで、屋敷を抜け出した。いくら自分の部屋で寝ているといっても、誰かが気づいているかもしれなかった。
雪江は一人で寝ると言った。龍之介も一緒なら、侍女たちは入ってくることはないが、雪江だけならお初が様子を見に来ることは考えられた。しかも、部屋を見れば布団に入っていないことが一目瞭然だった。きっと大騒ぎにになっているだろう。
男は雪江の狼狽ぶりに何か事情があると察したらしかった。
「今は真夜中でございます。お内儀さんはざっと二刻(約四時間)ほど寝ておられました。ご家族がきっとお探ししていることでしょう。わたくしが一っ走り、お内儀さんのご家族にご無事をお伝えして参りましょう」
ああ、そうしてくれるとありがたい。あの火事の夜に雪江の行方が知れないとわかったら、とんでもない騒動になっているだろうし、家臣たちも雪江を探す手がかりもないのだ。
「申し遅れました。わたくしは堺から呉服や小物と買い付けて商売をしております利久と申します。こちらは妻のお光」
堺からの商人? あれって思う。なんとなく疑問がわいたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「私・・・・・・浜町の大名屋敷がたくさん並んでいる小路の・・・・」
なんて説明をしたらいいかわからなかった。あの辺りは同じような大名屋敷が並んでいた。どれも大きな塀で囲まれていて、どの屋敷も表札はない。雪江でもわからなくなるのだから、初めて行く人にどのお屋敷だと説明することは難しかった。
しかし、利久はピンときた様子だった。
「はい、あの辺り、大体わかります。いくつかのお屋敷の女中さん相手に商売をさせていただいておりますから」
「あ、じゃあ、甲斐大泉藩の桐野の中屋敷、ご存じですか」
一瞬、利久の顔が引き締まるが、すぐに表情を緩めた。
「ああ、以前にその前を通ったことがございます。あの近くにある加賀藩のお屋敷に常連さんがおりますので。あの、最近新しくされたお屋敷でございましょう?外塀もきれいに塗り直されました、あの・・・・」
「あ、そうです。それです」
すごいと思った。こんな説明で、しかもあんなにごちゃごちゃしている迷路のような小路にある屋敷がすぐにわかるなんて。
雪江の感心が伝わったのだろう。
「こちらは商売ですのであの辺りのお屋敷は全部、この頭に叩き込んでございます」
と利久は笑った。
「そこのお屋敷の奥女中さんでしたか。裏から入ればよろしいのですね。この夜中でもあの火事の後だから、誰か人はおりましょう」
雪江は町娘の格好をしているから、桐野家に仕える女中だと勘違いされていた。それも仕方がなかった。
「あ、たぶん、表門で大丈夫です。そこの門番に伝えてくれればいいと思います。一応、夫は桐野の・・・・・・正和と言います。私は雪江です」
雪江の言葉に、利久とお光はきょとんとするが、その意味を考えて、まさかという驚きに変わっていった。
「桐野様の……奥方さまでございましたか。まあ、なんというご無礼を」
お光がそそくさと座り直し、平伏する。利久も真顔になり、平伏した。
「いえ、そんなこと。助けていただいて無礼だなんて、そんなことありません。困ります」
しどろもどろになっていた。
「おまえさん、奥方様なら一刻も早くご無事をお伝えしなくては」
「そうだな。では行って参ります。雪江さまでございますね」
「はい、桐野雪江です」
「わかりました。では」
利久はすぐに家を出て行った。後は待つしかなかった。
お光と二人きりになる。利久も人懐っこい笑顔を向けてくるが、このお光も笑顔の素敵な女性だった。二人とも二十代前半といった若い夫婦だった。
「お武家さまの奥方様でございましたか。町人のようなお召し物でございましたので、ついぞ気が付きませんでした」
「いえ、そんな。私、元々そういう感じに見えないから」
お光はすっかり恐縮していた。雪江がそういうと、少し表情を緩ませた。
「主人が、何度となく雪江様を探している人はいないかと外に出て、尋ね歩きました。でも、あの火事の後はみんな、自分のことで精一杯の様子でした」
「そんなご足労をおかけして・・・・」
「いえ、当然のことでございます。明日の朝、皆が自分の失ったもの、はぐれてしまった家族を探し求めるのでしょうね。哀れなのは、親とはぐれてしまった子供たちでございます」
ああ、そういうこと、聞いたことがあった。火事の後は迷子が多い。親も必死で子供を探すが、情報の少ないこの時代では探しようがなかった。尋ね人や迷子を捜す石柱もあるらしいが、字の読めない子供では仕方がない。
末吉もそうだ。彼は家族を火事で失っていた。幼いころから苦労をしていた。火事の怖さ、つらさをよくわかっていた。
「私、・・・・・・とんでもないことをしてしまいました。あまり考えず、自分から屋敷を抜け出してきて、こんなことになって・・・・。みんながどんなに心配しているか。それを思うと胸が張り裂けそうになります」
本当に本物の火事がこんなにひどいものだとは思ってもみなかったのだ。すぐに戻ろうと思っていたのに。
お光がそんな雪江の不安をわかっていた。
「大丈夫でございます。皆に心配をかけてしまいましたが、雪江様はこうして無事でおられます。叱られるかもしれませんが、それも命があってのこと。ありがたくお受けとめなされませ」
本当にそうだ。すべて命あってのこと。龍之介に、そして父に叱られても仕方がない。あの時、利久に助けられなかったら・・・・。あの勢いの荷車にモロぶつかっていたら、雪江など簡単に撥ね飛ばされて大けがをしていただろう。元の世界ならすぐに救急車で病院に運ばれていくだろうが、ここでは無理だ。しかも火事も同時に起っていた。それは大怪我をしたかもしれない雪江の死を意味していた。
雪江は、事の重大さに今更ながら恐ろしく思い、震えていた。お光はそんな雪江の肩を抱いてくれた。不安が少し緩和される。この人、ものすごく優しい。
やがて、利久が戻ってきた。足音が聞こえたかと思うと、がらッと表の戸が開く。
「ここでございます」
はっと顔を上げる。
「かたじけのう存じます」
そう言って入ってきたのは龍之介だった。向こうも雪江を認める。
雪江はまだ頭痛がしていたが、構わずに駆け寄ろうとした。
「雪江っ」
厳しい声だった。思わず足が止まる。
龍之介が怒っているように見えた。すごく怖い顔。その握りしめた手がブルブルと震えていた。
でも・・・・・・。どんなに叱られてもいい。龍之介とはいつも全身でぶつかってきた。さらけ出してきた。叱られてもよかった。それだけのことをしてしまったのだから。
こうして無事に龍之介と再び会うことができたのだから。
雪江はポロポロと涙をこぼした。そのまま龍之介の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい」
「雪江」
ぎゅっと息ができないくらいに抱きしめられた。
「このお転婆がっ」
「うん」
「おのおっちょこちょいの奥方が、人に迷惑ばかりかけてっ」
「はい」
龍之介が大きな息をついた。
「でも、無事でよかった」
涙が止まらなかった。声にならず、ただ、うんうんとうなづくのみだった。龍之介も腕の力を緩めることなく、ずっと雪江を抱きしめていた。
長屋の外には、小次郎も徳田もいた。みんな青白い顔をしていたが、今は安堵の笑みがこぼれていた。
徳田と目が合うと声にださず、《ごめん》といい、あっちは、《バ~カ》と叱った。
生きて会えたということは、何を言われてもすべて喜びに変わる。龍之介がやっと腕の力を緩めてくれた。新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込む。
「帰ろう。皆が心配している。兄上が……今、中屋敷で待っておられるぞ」
「はい」
父にも心配をかけた。どんな顔をして会ったらいいのか。
「兄上はな、わしにこう仰せられた。不束な娘だが、反省はしているはず。手だけは上げてくれるなと、わしに頭を下げたのだ。あのような無鉄砲な娘はまさしくわれらの子、綾の忘れ形見でもある。かわいい娘なのだと」
「お父上さまが・・・・」




