江戸名物・江戸の華
江戸の華とは、喧嘩と火事のこと。
そのくらい派手にやらかすという意味だそうです。
雪江は夕餉を終えて、まったりとした時を独りで過ごしていた。いつもなら風呂に入るのだが、この日は夕方から強風が吹いていて、江戸中が火の規制をしていた。火の用心ということで、台所も早々に火を消していた。
こういう強い風が吹くと、町人も煮炊きを自粛する。夕飯時ではかなりきつい。
江戸の町は、何度となく火事でやられている。やはり、この日もどこからか火の手があがったようだ。人家から炎が燃え広がり、あっという間に飛び火が宙を舞った。遠くで半鐘の鐘が鳴り響いていた。
雪江は、ここは大丈夫なのかと気が気ではない。自分の部屋の行燈も、隙間風に時々揺れている。こんなにしっかりとした作りのこの屋敷でさえ、空気の流れがわかるほどの強い風が吹いていた。
一人でいると落ち着かなかった。あの鐘の音を聞いていると怖くなってくる。侍女たちは集まって、火事になったらどうするかなどのミーティングを開いていた。
台所へ行けば誰かいるかもしれないと思い、自分の部屋の行燈を消し、暗い廊下を歩きながら台所へ足を向けた。
台所には、火の点検をしている徳田がいた。
定期的に確認しているようだ。火の気はないはずだが、どこから飛び火してくるかわからない。種火が残っているかもしれなかった。他のみんなはもうすでに自分の長屋へ帰っている様子だった。みんなも火事の行方が気になって、眠れない時をむかえているに違いなかった。
「裕子さんは?」
徳田はいつになく厳しい顔をして振り向いた。
「末吉が・・・・・・あいつ、火事にトラウマがあるだろう。怯えて泣いてて、裕子さんと薫が一緒になだめてる。たぶん、こっちへは来ないぞ。なんか用か?」
徳田はソワソワしていた。
「ううん、別に。私もなんか落ち着かなくてね」
「こんな夜はみんなそうだ。雪江はもう布団に入って寝ちまえ。ここは火の手から遠いし、風向きも違う。大丈夫だから」
「うん」
なぜかいつもの冗談を言う雰囲気ではなかった。
「なっ、だから早く行け。奥方様が一人でうろうろするところじゃない」
「ん・・・・・・」
徳田の様子が変だった。雪江を早く台所から追い出したい、そんな感じ。
「わかった。じゃ、おやすみ」
「おやすみっ」
雪江が台所を出る。少し廊下を歩いて立ち止まった。
じっと台所の様子を探るように、耳を澄ませた。
徳田はゴソゴソとなにかを着こむような音をさせ、ガタンと戸を閉めてた。外へ出て行ったようだ。家へ戻るのか、それとも・・・・。
誰にも内緒で外へ出た? 火事の様子を見に行くのかもしれない。
雪江はその足で、逆方向の中奥へ向かう。そっと境の戸を開けた。
中奥は騒々しかった。バタバタと数人が廊下を急いでいる。時々、「火が」という言葉が聞こえていた。
よく聞いてみると、その火事は数奇橋の方面まで行き着くのではないかと話していた。数奇橋と言えば、今日行った節子の家が近くにあった。ということは、その先には加藤家の上屋敷もある。
火事がそちら方面に向かっているのだった。
雪江はそっとその場を離れた。愕然としながら奥向きの真っ暗な自分の部屋へ戻っていた。
お初もお秋も火の点検に余念がない。雪江の部屋の明かりは消えていたから、中の様子を見て、雪江がそこに座っていたことに驚いた様子だった。
「どうされましたか。行燈の灯が消えておりましたので、いらっしゃらないのかと・・・・」
「ねっ、あの火事ってさ、節子さんの家の方面なんだって? 大丈夫なのかな」
暗闇では二人の表情はわからなかった。そのシルエットは微動だにしない。
「あちらの方面だと言われておりますが、大丈夫でございます。節子様の下男は、元八丁堀におりました。与力のお武家さまに仕えておりました故、こうした時には敏捷に動くと聞いております。節子様の安全を考えて、もう避難されたと思います」
八丁堀とは、与力、同心などの組屋敷があり、与力は八丁堀の旦那とも呼ばれていた。
ああ、あの下男が。ぼうっとしている感じだったが、昔はそうだったんだと思っていた。
「私、もう寝所へ入る。今夜は自分のとこで」
「はい、それがよろしいかと存じます」
お初も安心していた。雪江が寝れば、自分たちも休める。
寝所に入り、お秋が行燈に明かりを灯した。いくらなんでも暗闇ではなにもできなかった。お秋がいつものように着替えて手伝おうとするが、雪江は首を振っていた。
「いい、これ脱いで布団に入るだけだから。自分でできる」
お秋が雪江の表情を探る。
「はい、では御髪を・・・・」
と言ったとき、他の侍女が襖の向こうからお初を呼んでいた。その内容まではわからないが、雪江の居間にいるお初が立ち上がった気配がした。
「あ、お秋も行った方がいいんじゃない? なんか、孝子さんに呼ばれてんじゃないの」
お秋が襖を開けて、お初と話していた。
火事は深刻のようだ。だから、みんなが落ち着かないのだ。
「私、もう寝るから、本当にいいわよ。放っておいて」
と言って、襖をピシャリと閉めた。
二人の侍女はしばらく戸惑っていたが、やがて障子が開き、居間から出て行った様子だった。かすかな足音が去っていく。
電気のないこの時代、煮炊きも明かりをとることも、火を使わなければならなかった。今、この江戸で大きな火がすべてを焼き尽くしていた。人々の生活に必要なものが、逆にその生活を奪い、町を焼く。
この奥向きの女中たちは怯えていた。中奥の家臣たちも情報を待つしかなかった。二十一世紀なら、今頃みんなテレビの中継を見ている、そんなところだった。
雪江は打掛けを脱ぎ、帯も解く。すべての意識が節子と加藤家の上屋敷に向いていた。このままだと悪い想像しか頭の中になかった。考えまいとしても、明知が咳き込んで火事の中を逃げ惑う姿、それを泣きながら追う安寿の姿がよぎる。節子も火事の中を逃げ惑う姿などを想像していた。振り払っても次から次へと出てくる。
このままでは、布団に入ってもこんな調子だろう。
「ちょっとだけ・・・・・・様子、見てこよっかな」
寝所の控えの間には、今日着たばかりの総柄小紋の着物がハンガーにかかっていた。それを着こむ。そして、奥女中が出かけるときのように、女性用の頭巾をかぶった。
これは、外へ出かけるとき砂埃防止のためで、夜は防寒具になった。これならちょっと見ても雪江だとわからないだろう。そして草履を持ち、雨戸を開けて外に出た。庭を行く方が人に会わないから。
屋敷内も騒々しかったが、表の門も人の出入りが多く、門番も夜は一人なのに、今夜は三人もいた。
ここからは火の手は遠いが、いつ風向きが変わるかわからないから、その情報を得ているのだった。
しばらく、雪江は木の陰に隠れて様子を見ていた。どうやって出ていったらいいかわからなかった。
もし、呼び止められたらなんて言おう。実家が心配だからとか、奥向き代表で、外の様子を見に行くとか・・・・・・。
そこへ五人の使者が入ってきた。上屋敷からの使いらしいが、見かけない顔だったらしく、三人の門番がその使者たちを囲んでいた。
今だと思った。
落ち着いて、慌てずにその後ろをこっそりと出ていく。声をかけないでと願いながら、その反面、こんなことをしてはいけないとわかってもいた。後で雪江が外に出たとわかったら、門番たちが咎められるかもしれなかった。けれども江戸の町がどんな風になっているのか、一目だけ……そう思っていた。
本当にちょっとだけ、火の方向を確かめるだけ。
足早に道へ出た。門番に何も言われなかった。
提灯などは持てないから、暗い中をどっかのお屋敷の塀づたいに歩いていく。雪江はどこへ行くというよりも、人の行く方向へ足を向けていた。
やはりみんな不安なのだ。家の中でじっとしていられないのだろう。こんな夜間にかなりの人が外をうろついていた。自分の目で確かめたい、そういう心が現れていた。
火事の方向はすぐにわかった。そちらの空がやけに明るかった。雪江は人の後に続いて歩いていたが、大通りに面するところで立ち往生する。それ以上は進めなくなっていた。人々の安全のため、逃げる人たちへの道の確保、火消したちの邪魔にならないためだろう。
川向うでは、人々が荷車を引いて歩く者、荷物を背負って子供の手を引いている人などが目立った。逃げてきた人々だった。みんな途方に暮れた表情で、トボトボと歩いていた。子供も泣いている。
その様子は、まるでテレビで見る戦争時の命からがら逃げてきた人たちが放心状態でいるようだった。
それを見て、雪江は恐怖を覚えた。二十一世紀の火事は、まず自分が気をつけていれば、防げることが多い。それにすぐに消防車が来てくれる。しかし、ここではいくらみんなが気を付けていても、今夜のように風にあおられて、隣家どころか一つの町が全焼していくのだ。防ぐより逃げる、消すよりも焼ける可能性のある家屋を潰して壊し、火を途絶えさせるなどの方法しかなかった。燃え盛る火をバケツリレーで消すのは容易ではないからだ。
それでも周りの人々をかき分けていくと、その先の橋では人々の往来が許されているらしかった。そこまで行って、逃げてきた人に節子の家のあたりのことを聞いてみようと思った。それでもう屋敷へ戻ろうと思っていた。
そうしないとばれる。いくら皆が火事に騒いでいると言っても、雪江が寝ていないことに気づくかもしれなかった。
橋へ向かうその途中、雪江は石に足を取られてつまづき、前を歩く男の人にぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさい」
と言うと、その人が振り返った。
暗いのでその顔はよくわからないが、笑いかけてくれているみたいだった。
「いえ、娘さん。こんな夜にお一人ですか?」
ぎくりとする事を言われる。
「はあ」
「お供の方とはぐれたのでしょうか」
「あ、そうじゃなくて、火事が気になってしまって・・・・つい、出てきちゃったんです」
「一人で」
「まあ、そんなところです」
その人が息を飲んでいるのがわかった。そして、少し厳しい声が返ってきた。
「悪いことは言わない。もうお帰りなさい。ご家族が心配しているでしょう。風が弱まってきましたし、火も少しづつおさまっているようです。この分だと半時(約一時間)くらいには消えるでしょう」
「え? そうなんですか?」
そう言いながらもその男の人は、雪江の手を取ってくれた。足元は暗くて全く見えないから、また雪江がつまづいていたのだった。
「どなたか心配なされるお方がいらっしゃるのですね」
「はい、お世話になった人と夫の家族が・・・・・・」
その人は目を見張った様子だった。
「お内儀さんでしたか。これは失礼を申し上げました」
「いえ」
娘さんと言われたことを失礼だとは思わない。
「数奇橋の近くなんです。あっちの方に火がいったって聞いて」
その人は黙った。やはり火はそっち方面を焼いていたから。
「あの周辺は焼けてしまった様子。きっと早いうちから避難していると思います。きっとご無事かと思います」
温かい言葉だった。火事の状況を知っている人にそう言われると、なんとなく安心した。
橋のたもとまで来る。
「本当にもう、お帰りなさい。夜道はあぶない。家までお送りしましょうか」
「いえ、そんな。大丈夫です。一人で帰れますから」
これ以上迷惑はかけられない。この人も火事が心配で、外へ出てきたのだろうから。
「少し安心しました。どうもありがとうございます。じゃ」
と、その人に頭を下げた。その男の人は笑いかけてくれた様子だった。
雪江は、元来た道を引き返す。男に背を向けて歩き出した。
その時だった。
その橋は大きく弧を描くように中央が高くなっていた。橋の中央から、大きな叫び声と人々の悲鳴が聞こえた。それと同時にゴトゴトという重いものが転げ落ちてくるような音。
その騒ぎに、雪江は背を向けて歩いていた。雪江とすれ違う人々は、驚愕した表情で、叫び声をあげていた。
「えっ」
何が起こったのかわからなかった。雪江の背後に何かが迫っていた。皆が口々に叫んでいた。
「逃げろっ」
「危ないぞっ」
そう言っても、それが何なのかわからないうちに走り出す人は少ないだろうと思った。
雪江が振り返った。
それは、家財道具一式を積み込んだ荷車が暴走してきていた。その重さに耐えきれず、人の手を離れ、橋の上から転げてきたのだった。
数人を撥ね飛ばし、方向を変えて、橋のたもとにいた雪江の方へ迫っていた。その距離はもう一メートルもなかった。ものすごい勢いだった。
雪江は危ないと頭では認識したものの、一歩も動けなかった。不思議に恐怖は感じてはいない。けれど、ああ、もうだめだと思っていた。
龍之介さん、自分勝手でした。ごめんなさい。
その言葉しか思い浮かばなかった。
そう思ったとき、ドンと誰かに突き飛ばされ、道に倒れこんだ。その勢いに頭をぶつけていた。ガツンと衝撃がきた。
イテッと口走る。そこまでは覚えていた。
「しっかり、お内儀さんっ」
遠のいていく意識の中で、大丈夫だと思った。
そして、後は真っ白な世界しかなかった。