上屋敷にて・サプライズ
長文です。
中屋敷の戻ると龍之介がイライラしながら待っていた。
「ったくっ、どこへ行ってたっ」
と頭から怒鳴られた。
龍之介は既にパリッとした羽織袴を身につけていた。支度が整っている。
「ごめん」
と小さな声で言う。
「ごめんではないぞっ。それに小次郎を無理やり連れていって、どこへおいてきたっ」
物を置き忘れたかのような物言いである。
「あ、お絹ちゃんのとこ。今夜、帰ってこなくてもいいって・・・・言っちゃった」
ギロリとにらまれた。
確かに龍之介の側用人を勝手に連れ出したのは、今更だがまずかったとは思う。
こういう時に目元のクッキリとした顔というものは、いつも数倍怖く見えた。
「ならばよい。小次郎のことは目をつぶろう。雪江も何事もなく戻ってきたのだからな」
ほっとした。龍之介も口には出さないが、小次郎とお絹のことは気にかけているのだ。二人がうまくおさまるのなら、その方がいいと考えているようだった。
「だが、わしは先に行くぞ。兄上を待たせるわけにはいかぬ。夕餉は雪江が来るまで待ってもらうから」
「え~っ」
確かに雪江の支度は時間がかかる。
今から湯あみをし、髪も整えなければならない。それを考えるとうんざりしてしまった。
「めんどくさい」
とつぶやいてしまった。
また目を剥く龍之介。
「雪江、今宵はこちらから参上すると言ったのだぞ。そのわしたちが遅れてどうする。よいなっ、支度ができ次第、急いでくるのだぞ。わしは兄上と話をして間を持たせる。急げよ」
「お父上は待たせても怒りませんよっ」
と言うと、また龍之介の叱責が飛んだ。
「バカ者っ。そういう身内の甘えが段々とお互いの気のゆるみとなり、溝が深くなっていくのだ。身内だからこそお互いを大切に思い、気を使うべきなのだ。そうであろう」
龍之介の言うことはわかる。身内でも時間にルーズになってはいけないし、約束を破るようないい加減な事はすべきではない。
「は~い」
雪江の間延びした返事に、もう龍之介もかまってはいられないとばかりに、くるりと背を向け、行ってしまった。
小次郎をおいてけぼりにした雪江が、今度は龍之介において行かれてしまったのだ。
何とか支度を整えた。そして、慌てて中屋敷を出た。今宵は孝子も一足先に出向いていた。
今日は何度も駕籠に乗って行き来をしていた。侍女たちもかわいそうだが、雪江も具合が悪くなっていた。駕籠というものは人が担いでいるから、その揺れは尋常ではない。波の荒い船に乗っているかのようだ。
このような気分で、上屋敷についてすぐ夕餉を口にできるかどうか不安になっていた。
それでも雪江が父、桐野正重を思う気持ちは誠実である。この父親にがっかりされたくない、いい娘でありたいと常に思っている。
今まで雪江は、父親という存在を知らないでいた。祖父の産院を手伝っていた青木は、母は誰かに追われていたという。だから、雪江の本当の父親はどっかのマフィアのドンだというのだ。
まさかと言って雪江も笑っていたが、内心は揺れていた。
母が、普通の恋愛で雪江を身ごもり、産んだのではないとわかっていた。今は、時空を超えてきたとわかっているが、当時は青木の話を本気にしたこともある。それか酒びたりで、ほかに女を作って出て行ったのかもしれない。凶悪犯罪者で、一生刑務所にいるのかもしれなかった。
雪江が年頃になり、自分を産んだ母の年齢に近くなればなるほど、いろいろな可能性がよぎった。
そんな疑惑だらけの父親が、甲斐大泉藩主桐野正重だとわかった。それだけでも充分満足なのだが、正重は武士にしては、ユーモアのあるやさしい父だった。それもうれしかった。今までの分、甘えたかった。
駕籠はやっと桐野家の上屋敷へ入っていった。
皆が待っていると思うと、気が焦った。見慣れた屋敷内を急いで中奥へいく。
着物というものは、すり足でしとやかに歩かないと裾が乱れる。当時は脚が見えることは、はしたないとされていたようだ。しかし、すり足では走れない。
「雪江様、廊下をそのように走ってはなりませぬ。あ、そのようにああ、裾が乱れて・・・・御足が・・・・」
お初の実況中継が続いていた。彼女は雪江のそういう姿に慣れていても、今日の雪江の走りっぷりには注意せざるを得ないほどだった。
「っるさいわね。お父上様を待たせてんのにィ。このつるつるした廊下、走りにくいしさっ。足袋を履いてたら早く走れないじゃない。もう脱いじゃおうかな」
お初とお秋は、ヒイ~と悲痛な叫びを漏らした。さすがに裾をからげて走ることはやめておいた。このドタドタに、何事かと家臣たちがちょこちょこと顔を出すのだが、その物音の主が雪江とわかり、関わり合いにならない方がいいと障子をピシャリとしめていた。
その雪江が廊下の角を曲がったところで、ぴたりと足を止めた。そのすぐ後ろを全速力で追ってきていた侍女二人は、その雪江の背にぶつかりそうになった。
そこには孝子が立ち、雪江を待っていたのだ。
「雪江様、お座敷の中まで廊下のバタバタが聞こえましたぞ。正重様がさっきから・・・・・・」
雪江は青くなった。
「えっ、お父上様が・・・・・・怒ってる?」
「いえ、笑い転げておいでで、正和様が顔をしかめております」
そういう孝子も笑っていた。
ああ、龍之介には、また後でクドクドとお説教されるだろう。仕方がないが。いつもうるさいと思いながらも、龍之介があれこれと叱ってくれるから、雪江はこの世でやっていかれるのである。
「さあ、正重様も正和様もお待ちですぞ」
「はい」
孝子がそっと障子を開けた。
雪江は中へ入り、座って頭を下げた。
「遅れて申し訳ございません」
まだ肩で息をしていたが、努めて穏やかに静かに息を整え、顔を上げた。
中央には正重がでんと構えて座り、その横には正和が座っていた。
それを確認したかどうかの時、室内の明かりが消された。
きょとんとする雪江。なにが起ったのかわからなかった。
いや、座敷は真っ暗ではなかった。その中央に白く丸いものがあり、その上に蝋燭が立てられていた。それも数十本。
「え?なに」
父の声がした。
「雪江がこの世に生を受けた日じゃ」
雪江はあんぐりと口を開けていたと思う。そしてそのまま動けなかった。
生を受けた日って、・・・・・・誕生日? するとあれはバースデーケーキ。
「雪江、何をしている。そなたたちの習慣では蝋燭の火を吹き消すのであろう」
龍之介に言われて我に返った。そうだ、吹き消すのだ。
ササッと近づいて、一応、願い事をする。
この家族での幸せなひと時に感謝し、皆が健やかに過ごせますようにと心に思って、蝋燭の火を吹き消した。
するとすぐに行燈に火が灯され、みんなの顔が見えた。
父も龍之介も微笑んでいた。
ケーキを見ると、カタカナでハッピーバースデー、プリンセス・雪江と書いてあった。裕子だ。プリンセスって笑える。雪江のガラじゃない。
「さあ、正和の隣に座りなさい」
と父が言う。既に夕餉の膳が運ばれていた。
今日は一月二十五日。旧暦だが、雪江の誕生日だった。
「でも・・・・なんで? ここでは数え年だから、元旦にみんな年を取るって言ってたでしょ。だから生まれた日は別に祝わないって思ってた」
侍女たちがケーキを持っていく。切り分けてくれるらしい。
「兄上が昨日、ふと雪江の生まれた日は今日だと言うので、そっと徳田殿と裕子殿に聞いてみたのだ。そっちでは何か特別のことをするのかどうか。何しろ、新年元旦に皆が一つ年を取ると言ったら不満げにしていたからな」
《数え年は、元旦に年齢が加算されるそうだ。生まれたその時から一歳と数え、あとは辰年生まれとか寅年生まれという表現をするとのこと。ちなみに二十一世紀の満年齢は、1902年より改正された。》
「お父上様が? どうして私の誕生日を知ってるの? 私でさえ忘れていたのに」
雪江は正重を見る。
「綾と赤子のそなた二人のあの絵の裏に、綾の字で生を受けた日が書いてあった」
ああ、なるほど。母が書いてくれていたのだ。龍之介はまだボーとしている雪江を見る。
「まだ、キツネに化かされたような顔をしているな。さぞかし、驚いたであろう。あのけえき(ケーキ)と言われる代物をここまで運ぶのは気を使ったぞ」
本当にサプライズだった。
「面白い催しよのう。生を受けた日、その年の分だけ蝋燭を立て、よくぞ無事にまたこの日をむかえられたという命の火。それを自分で吹き消す」
《誕生日にケーキを食べるという習慣は、13世紀のドイツで始まったらしい。「キンダーフェステ」とよばれていた。子供が好きなケーキに、命の火とされる蝋燭を一本多く灯すこともしたらしい。蝋燭の火は魔除けの意味もあった。子供が蝋燭の火を吹き消す前に、願い事をする。その願い事は立ち上る煙と共に天に届くと言われている》
本当にうれしかった。家族って本当にいいものだと思う。そしてこの人たちを大事にしていかなくてはと感じた雪江だった。
夕餉が始まった。
正重が箸を取り、お吸い物に口を付ける。龍之介も雪江もそれぞれ箸を取った。
「綾が雪江を身ごもっていたあの日、綾がいなくなる前日のことだが、雪が積もり、それが凍って誠に寒かった」
父が母を思い出していた。龍之介も雪江も自然に箸がとまり、正重を見た。父はまるで母がすぐそばにいるかのように穏やかな表情をしていた。
「人の生まれた日はめでたい。そしてその母御が頑張って一つの命をこの世に送り込んでくれた日でもある」
結婚、出産は人生の中でも最も大きな出来事、そして新しく生命の産声を上げた子供の人生も始まる日だ。
「お母さん、母上に感謝する日でもあるのですね」
「誠に、雪江がそう思ってくれるだけで綾も嬉しいと思う」
また、正重はポツリと言った。
「綾は見知らぬ世界で・・・・・・たった一人で雪江を産んだのだな」
父の声には、それが不憫でならないという響きがあった。
「母は・・・・・・母なら大丈夫だったと思います。私を育ててくれたのが医者だったし、母を興奮させないよう全身麻酔にしたって・・・・。あ、薬で眠らせていたから、痛みも感じなかったはずだし、祖母がなぜか放っておけなかったって言って、ずっとついてたって言ってたし」
雪江には当時の記憶があるはずがなかった。しかし、そう言わなければ父の心は軽くはならないと感じていた。
「そうか、綾は一人ではなかった。そうなのだな」
父も雪江の心がわかった様子でそうつぶやく。
「はい」
母はさぞかし、父に会いたかっただろう。生まれた子を父の腕に抱いてもらいたかっただろうと思う。
雪江は最愛の人、龍之介がいる。その人の子を身ごもって、離ればなれになってしまったら悲しい。
祖父はあの時、帝王切開で雪江を取り出さなければ、母の命も危なかったと言っていた。出産は病気でもなく、喜ばしいことだが、母は命がけで新しい生命を産むのだ。
今まで軽く考えていた。結婚して、自然に子供ができて生まれている。それが当たり前なんだと。しかし、うまく子ができたとしても出産には陣痛という痛みがつきものだ。二十一世紀なら無痛分娩も可能だろうが、この江戸では無理。ここでも母体もそしてせっかく生まれた命の火も消えやすかった。
そんなに痛く苦しい思いをして、子を産まなくてはならない女性。雪江の心の中は、不安だらけになっていた。子供を産むことが怖いと思っていた。そして、そんなことを考えている自分には母になる資格はないのかと思う。その準備ができたらなれるのか、ではその準備はいつできるのか。
節子には子を産むことが女の役目であり、幸せであるような事を言われたが、今の雪江にはそうには思えなかった。
お絹のように、あんなに穏やかに、お腹を撫でることができるのか。
ふさぎ込んでいる雪江に龍之介が気づいた。
「どうした、雪江。そなたがおとなしいと何やら不気味だ」
不気味は余計だが、龍之介が気にしてくれていた。雪江はマジマジと龍之介を見つめた。
この人の子を宿し、いつかはこの手に抱く日が来るかもしれない。龍之介の子は欲しいと思う。また、さっきの不安がどっと押し寄せていた。
雪江は箸を置き、父の御前であるが、龍之介に抱き付いていた。龍之介はその拍子に箸を落とし、驚いていた。
嫌だ、不安だ。痛いのも嫌だし、苦しいのも嫌。出産によって自分が死ぬのも怖いし、子を失うこともそれ以上に怖かった。
母はなんて強い人だったのだろうと思う。見知らぬ土地で見知らぬところで子を産んだ。愛する人は遠くにいて、生きている間に会うことはかなわなかったのだ。そして、父も愛する母を失い、それに耐えてきた。
正重も驚いて、雪江を見ていた。
龍之介が雪江を抱きしめてくれる。
「どうした。そなたのことだからまた、自分で自分をがんじがらめにするようなことを考えていたのであろう」
雪江はこっくりとうなづく。
「わかんない。母のこと、難産、陣痛、子育て、いろいろ考えたら今の私がお母さんのように強くなれるのか、不安になっちゃって・・・・・・」
龍之介に絡める腕に力がこもる。
「今まで自分の誕生日の意味なんて深く考えたことってなかった。ここにお父さんとお母さんがいてくれたらって思うことはあったけど、いつもは友達を呼んでケーキとプレゼントが誕生日だったの。子供を産む母親がどんな風にどんな思いで自分を産んだのかと考えると、急に子供を産むことが怖くなっちゃって・・・・・・」
「わかる。雪江のその不安にかられる心。わしにもわかる」
思わぬ父の言葉に雪江は顔を上げた。龍之介も意外そうな顔をして、正重を見ていた。
子供を産むことは女の仕事、怖いなどと申すなと叱られると思っていたから。
「わしには、母になるときのおなごの腹の痛みはわからぬ。しかし、綾がそなたを身ごもった時、わしは嬉しいと感じる反面、父親になることへの不安を感じていた。責任の重さを目の当たりにした。今までのように、わがまま放題をしていてはいけないと心を戒める必要もあったし、子を育てるには自ら道理をわきまえ、時には厳しく、優しく愛情を持って育てなければならぬ。そんなことがこのわしにできるのかと思うてな」
この落ち着いている父でさえ、そんなことを思っていたのかと驚いていた。
「お父上様は私が生まれる前から、親になる用意ができていたのかと思いました」
「人はな、親になる用意が出来たから子を成すのではない。子ができてから初めて親になる。子と一緒に成長していくのだ。その点、母親と言うものはずるい」
と言って、正重がいたずらっぽく笑う。
「へっ、ずるい?」
雪江が面喰っていた。
「そう、母となるおなごは、腹に子が宿った時からもう母になろうとしている。命に代えてもこの子を守ろうとする心、まだ見ぬ子に母の愛情が芽生えるのだ。だから子が腹で大きくなり、この世に出るとき母は強くなれるのだ。男が戦場で命を懸けて戦う時のようにな。そこへ行くと父御というものは、子が生まれてから初めてその一歩を踏み出すのだ。母親よりずっと出遅れている」
「あ、それでずるいと・・・・・・」
その父の言い方がおかしくてたまらない。
「わしは雪江が生まれたと知って、この腕に抱けぬともどこかで生きているとわかっていたから、時間をかけて親として成長したつもりだ」
正重はそう言って笑った。
なるほど、女は子を宿し、そのホルモンによって母性愛が生まれる。だから、子供のためならという強い心が生まれるのだ。不安もあるだろうが、我が子をこの手に抱くという幸せを思い描いていくのだ。
雪江は安心していた。龍之介も納得していた。
「雪江のように、心の曇りを正直、そのまま夫に訴えられることはいいことだと思う。夫婦とは幸せに笑っているだけでなく、互いの心の支えになることが大事なのだよ。つらい時ほど助け合うのが誠の連れあいなのだ」
雪江は、よくテレビで見た教会の結婚式のシーンを思い出していた。新郎新婦の誓いの言葉だ。確か、病めるときも喜びの時もこの人を愛し、助けていくことを誓いますというセリフ。
夫婦になるんだから、当たり前だと思いがちだが、その言葉の意味は本当に深い。
いつもの夕餉よりはしんみりとしていたが、切り分けられたバースデーケーキを口にして、雪江はいつもの元気を取り戻していた。裕子の焼いてくれたケーキはいつもよりずっと口当たりがよく、柔らかくておいしかった。
龍之介は裕子の焼くデザートはおいしいと知っているが、正重は初めて口にするケーキの微妙な甘さと柔らかさに目を見張っていた。気に入った様子だった。
「そうそう、雪江。そなたは今日、正和の目を盗んで外へ出たそうだな」
そう父に言われてはっとする。
「あ・・・・・・はい」
チラリと龍之介を見た。
チクッたなと舌打ちしそうになった。当の龍之介は涼しい顔をしている。しかし、今日はばれても仕方がなかった。大幅に遅れて参上したのだから。
「程々にしておけよ。正和がわしに愚痴をこぼすし、あたって困る」
と言うが、正重のその表情には困っているという感情は見当たらない。
「兄上、拙者はただ・・・・・・」
龍之介が焦っていた。
「よいよい。娘の素行への愚痴は、その父が聞く。それでよい。だがな、雪江、今日は小次郎を連れて出たからよいが、きちんとした護衛を連れず、もし何も知らぬ町人に絡まれたらどうする?」
雪江は神妙に聞いていた。それは……想像するだけで怖い。
「今後、また外出するのであれば、正和に申すこと。そして、また小次郎を連れて行け」
え? と思った。
「そう頻繁には困るぞ。小次郎はわしの側用人だからな」
と龍之介も言った。
二人の間でもうすでにそのことについて話が交わされていたらしかった。
「はい」
この夜、龍之介と雪江は上屋敷へ泊っていく。だから、夜も更けるまで三人で談笑していた。
結婚の時の誓いの言葉
《その健やかなる時も病める時も喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時もこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助けその命ある限り、真心を尽くしてことを誓いますか。(調べたら、このような事を言うようです)》