雪江のクッキー・デリバリーサービス
大名屋敷ばかりの横丁から、賑やかな江戸の中心街へと入っていく。
雪江はそっと駕籠の戸を開けて、外の様子を見ていた。
町を行く人々は、セカセカと忙しそうな姿もあれば、楽しそうにのんびりと話をしながら行く人もいる。町には活気があった。
ついこの間までは、ここを歩いていたのに、今は滅多に屋敷内から出なくなっていた。
きれいに着飾った商家の娘、その後をついていく澄ましたお供の女中。威勢よく声を出しながら、天秤棒を担いでいく棒手振のお兄さん。
町ゆく人に何かを売り込んでいる店の売り子。丁稚の子供が腰を低くして、旦那様のお帰りをむかえる様子。誰もが生き生きとしていた。
体を動かすこと、働くことの楽しさが感じられていた。
たまにこういう機会を作り、外へ出ないと息が詰まってしまう。世の中へ出て、いろいろ見ることも大切だと思うのだ。
本来の大名の奥方たちは、滅多に外へは出ない。いい暮らしをしても閉じこもっているのなら、籠の中の鳥と同じだと思う。
「雪江様」
駕籠のすぐ隣を歩く小次郎が声をかけてきた。
「なあに?」
世間話でもするのかと雪江ものんびりと返事をしていた。
「侍女たちもこの駕籠の担ぎ手も、この道によく通じております。もしかして、このような外出、今日が初めてではございませぬな」
ぎくりとする。
鋭い小次郎。
「う~ん、またいいじゃない。そんなことっ」
「雪江様がはっきりと否定されない場合は、肯定するものと考えます。どうやら図星だったご様子」
こっちも小次郎をよく知っているが、向こうもこっちの性格をよく読んでいた。何も言い返せない。
夕べ、龍之介と夜遅くまでイチャイチャしていたから、朝早く起きられなかったのだ。それで朝から支度をして出かける計画していたことがすべてずれてしまい、バタバタとあわてることになった。そのあわただしさが目につき、龍之介が不信に思ったのだろう。
節子のところへ行くと、雪江が座敷に上がり、他の小次郎たちは別の間でお茶を出されていた。
「新しいお屋敷はもう慣れましたか」
節子は、雪江の世話役をしていた時よりもずっと穏やかで、優しい笑みを絶やさないでいた。雪江が桐野の姫だとわかり、祝言までを事細かく世話を焼いてくれた人だ。
節子は、もう役目を終えているため、精々雪江になにか言うとしても行儀のことくらいだった。
「屋敷は広くて、奥向きにも使っていない部屋がたくさんあるでしょ。なんかもったいない感じがしてさ」
と言うと、節子は顔をほころばせて言った。
「それは今、雪江様がお一人だからでございます。お子ができましたら、すぐに手狭になります。それぞれのお子に世話役がついて、乳母もつきますからね」
「子供? 乳母?」
それらの言葉がピンとこなくて、きょとんとする雪江だった。
「子供が子供を産んでもねぇ・・・・・・。それに私、乳母とかいらないから。自分で育てる」
そうだ、龍之介と二人でなるべく手をかけて育てたい。雪江たちは幼いころから両親がいなかったのだ。
雪江がそうきっぱりと言うと節子は唖然としていたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「それも雪江様らしくていいかもしれませぬ。一方変わった大名家のご正室が、ご自分の子にご自分の乳で子育てをするのも」
節子が寛大になったのか、雪江らしい言葉にうなづいていた。
「そう、そうでしょ」
節子はまるで孫に接するように雪江を見ていた。雪江もそれをとても居心地のいい感じで受け止めていた。
夕方から上屋敷に上がらなければならない雪江は、節子のところを慌ただしく出ていく。今度は式部長屋へ向かっていた。
お絹は、雪江と龍之介が居なくなって空いたその長屋の家に一人で住んでいた。生まれたらそこで母子共々暮らすために。
駕籠は長屋の木戸の前で止まる。
「私はここから歩いていくけど、小次郎さん、どうする?」
小次郎も足を止めていた。
「拙者には・・・・・・お絹ちゃんの顔がまともに見られませぬ」
「もしかして、ずっと会ってないの?」
小次郎は無言でこっくりとうなづいた。
「若が・・・・・・毎月のことはきちんとせよと言ってくれたので、ここの家賃と食べていくだけの金は送っております」
と言って、目を伏せた。
「そうか、ずっと会ってないんだ」
「はっ」
「会いたい?」
小次郎は、その言葉に体をピクリと反応させたが、目を伏せたままだった。
「ねえ、会いたいの? それとも会いたくないの? どっち?」
早く返事をしないと雪江がイラつくと知っている。小次郎は意を決して顔を上げた。
「お絹ちゃんが許せば、一目だけでも・・・・・・」
「よしっ」
雪江の満足のいく答えだったから、拳を握りしめ、テニスでエースを取った時のように高く上へあげて、ガッツポーズをとった。これを着物でやると、袖が捲れてくるが、そんなことは気にしない。
「じゃ私がまず会ってくる。そしてお絹ちゃんがいいって言ったら呼ぶから、待っててね」
「はっ」
長屋の中へ入っていく。雪江は町娘の姿だから、その場にいても違和感がない。井戸の周りに集まっているおばちゃん連中に挨拶すると、皆が口々に言い始めた。
「雪江ちゃん、またお屋敷を抜け出してきたのかい?」
「龍之介さんは元気?」
「雪江ちゃん、色っぽくなったよ。いいねぇ、人妻って感じでさっ」
ここで皆が、あははと思い切り笑う。
「お絹ちゃんなら元気さ、あたしたちがついてるからねっ」
もう半分ヤジのようになっていて、雪江は手を振り、元気なそれらの声を聞きながら、お絹のところへ入っていった。
「お絹ちゃん」
そっと戸を開けるとお絹がちょうど雪江を出迎えようとしていたのか、三和土に降りていた。
「雪江っ、みんなの声が聞こえていたからすぐにわかったよ。おっ母さんにお茶でも入れてくれるように頼んでくるよ」
「あ、いい。私が行く」
雪江は気を使っていた。妊婦にそんな負担をかけられない。
お絹はそんな雪江の考えを読んで、破顔する。
「いいって。少しは動かないといけないらしい。悪阻はかなりひどかったからね。そのあと、その反動で食べたから、今度は腹のややと自分の身も重くてね。いろいろ億劫になっちまうのさ」
そう言っているうちに、お絹の母、お勝が気を利かせて、お茶を持って入ってきた。井戸端の騒ぎが聞こえたのだろう。
「雪江様、お久しぶりでございます。わざわざこんなところまでお越しくださいまして・・・・・・」
お勝が丁寧に頭を下げた。
「なんだい、おっ母さん。雪江はどこにいようと雪江なんだよっ。雪江様なんて言うからどこの姫さまかと思ったよ。まあ、姫さまだけど。それにこんなとこって言ったけど、当の雪江がここに住んでいたんだからね。そりゃ、失礼ってもんだろう」
お勝がはっとした。
「あ、あらやだ。本当だ」
お勝はそれでもまた雪江に頭を下げて出て行った。
「クッキー焼いたの。食べるでしょ」
「うん、ありがとう」
お絹は目を輝かせていた。
昔は食材事情がそれほど良くなかったし、妊娠でも病気じゃないからと言ってギリギリまで働いていた。だから、体力を保つために子供と二人分として食べていたらしい。二十一世紀では、母体の栄養状態もいいうえに、車などで移動するから、二人分を食べると大幅に体重が増えることになってしまう。
お絹は血色もよく頬もふっくらとしていた。以前は男の子かと間違えるほどにがりがりで色も黒かったのに、今は肌につやが出てかなり女っぽくなっていた。
これが母親になる顔なのかと思う。誇らしげで眩しいほどだ。着物だとわかりにくいが、明らかに腹が大きくなっていた。
「腹帯をしているし、最近、ものすごく腹が減ってね。この通りさっ」
と、腹を撫でまわすお絹。まるでこの腹は食べ過ぎた結果だと言わんばかりに。でも、愛おしそうにしている。
「ずっとここに一人で住んでるの?」
「うん、今はおっ母さんの縫物の手伝いをまた始めた。そして毎朝、この辺りを歩いてるんだ。足腰が弱くなるといざという時、踏ん張れないからね」
と笑う。
よかった。お絹がまた普通の生活に戻りつつあった。一時は、水さえも受け付けないほど衰弱していたのだ。予期しなかった妊娠に、周りの皆が戸惑い、いや、本人が一番戸惑っていたのだろう。先のことを考えると不安ばかりが押し寄せてくる、そんな感じだった。
でも、今のお絹は子供が生まれてくるという未来に目を向けていた。
人の生きる道なんて、誰もその先が見えないのだ。それならいろいろ心配しているよりも、今、この時を楽しもう。そんなお絹の気持ちが伝わってきた。
「雪江たちがここに居た時が懐かしい。あん時はいろいろあったけど楽しかった」
「うん」
お絹と雪江は、あの頃を思い出していた。
「まさか雪江が姫様だったなんて、お天道さまがひっくり返っても思いもしなかった」
そりゃ少し言い過ぎだろうと内心思いながらも、雪江も肯定していた。
「私が一番びっくりしてた」
聞くのなら今だ、とそう思った。
「ねえ、一度ちゃんと聞きたかったの。正直に答えて」
雪江が真顔で言うと、お絹も顔を引き締めた。
「小次郎さんのことなんだけど・・・・・・」
「え?」
「どう思ってる? 子供の父親なんでしょ。今でも好き?」
「そりゃあ・・・・・・。毎月のこともちゃんとしてくれるしね。それだけでも恩の字さっ」
「会いたい?」
「え?」
「会いたい、よね」
お絹の顔がたちまち曇る。そして、聞き分けのない子供がするように、ぶんぶんと首を振る。
「いや、会いたくない」
「・・・・・・」
まさか、お絹の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。雪江は黙ってしまった。
「会ったら、また忘れられなくなる。私達は身分違いなんだよ。小次郎さんは、それなりのいいところのお嬢さんを嫁に迎えるべきなんだよ。こんなところにいる仕立て屋の町人の娘じゃ、役不足なのさ」
「忘れなきゃいけないの? なんでよ。子供の父親なんでしょ。その事情は誰にも変えられないの」
「そうだけど・・・・・・つらくなる」
お絹は泣きそうな顔になる。
「でもさ、他の侍なんて、妻がいるのに他の女性のところへ平然と通っている者もいるんだよ」
そういう奴は、自慢げに吹聴しているからすぐにわかった。
「あの小次郎さんは無理だよ。あの人は真っ直ぐだから、あっちとこっちの顔なんて絶対できない」
そうだ、わかる。それは雪江にもわかっていた。
「不器用と言うかなんて言うか」
そう雪江がつぶやくと、お絹がぷっと吹きだした。的を得ていたらしい。
「ねえ、もう一つ聞きたいことがあるの」
「なんだよ」
お絹が身構えた。
「ねっいつ、どんな状況で小次郎さんと寝たの?」
「寝た?」
一瞬、理解できなかったようで、お絹が黒眼を上に向けて考えていたが、やがてその意味に思い当たったようで少し顔を赤くした。
「やだ、そんなこと」
「だってさ、大体お絹ちゃんと私って一緒にいたでしょ。小次郎さんだって龍之介さんといつもくっついてたしさ。だからびっくりしちゃったの」
「私が小次郎さんを好きなのはみんな知ってたろう」
「うん」
「雪江が旅籠で働いているとき、龍之介さんが一人で考え事をしていたんだ。邪魔をしてはいけないと小次郎さんが家から出てきた。私のとこに来て、お茶を飲みながら、龍之介さんと雪江はどうなっていくのかなんて話していてね。その頃はあんたたち、身分違いだって思ってたからね」
「うん」
「その日、ちょうどおっ母さんも、姉さんのとこへ出かけて誰もいなかった。小次郎さんと私も身分違いだねって言ったら、あの小次郎さんがはっとして、初めて私をまともに見てくれたんだ」
お絹の顔に懐かしいものをしのぶような笑みが浮かんでいた。
「初めは同じ長屋にいるお侍さんに憧れていただけなんだけど、小次郎さんは他の侍たちみたいに威張り散らさないし、あの人の誠実さにドンドン惹かれていった」
それは雪江も思っていた。小次郎も龍之介も密かに潜伏する身だったからだが、身分を明かせばもっと威張れる身分にいた。事情があったにせよ、あの二人にはそういうところが全くなかった。
「一度だけでいいからって言ったのは私なんだよ。いつかは小次郎さんもこの長屋を出ていく。そしたらもう二度と会えないかもしれない。そう思ったら、その時二人きりだって気づいてね。一度きりの私の胸に残る思い出にしたかった」
そんなに好きだったんだ。思ってもみなかった。一度だけ抱いてもらえたら、それできっぱりと忘れられると思っていたらしい。
「そしたらややがね・・・・・・。これには私もびっくりさ。小次郎さんもさぞかしびっくりしただろうね。だから、私のわがままで始まったことなんだ。小次郎さんには迷惑をかけたくないんだよ」
「だから一人で産むって決めたのね」
こっくりとうなづくお絹。
「でもさ、一目だけでも会う?」
「え?」
お絹はきょとんとしていた。その意味がわからないらしい。
「誰に会うって?」
「もち、子供のお父さんよ。あっちは一目だけでも会いたいって。お絹ちゃんさえ、うん、って言ってくれれば」
「ええ、小次郎さんっ」
お絹は慌てふためいている。
「そっ、すぐそこまで来てる」
お絹が真顔でごくりと喉を鳴らした。複雑な心の動揺がうかがえる。
今、会ったらまた忘れられなくなる。でも会いたい。
いつもなら諦められるほどの距離にいる人が、今、この近くにいるのだ。そんなお絹の心の葛藤が手に取るようにわかった。
五秒待った。雪江はもう待てない。
「お絹らしくないな、呼ぶよ」
お絹は絶対にまだ、小次郎のことが好きなのだ。好きだから会いたくないと言った。子供が生まれたら、定期的に会ってほしかった。子供のためにもそうしてほしかった。それには話し合いが必要だ。
雪江はすっくと立ち、戸を開けて長屋の木戸口の方を見た。向こう側で、チラチラとこちらを見ている小次郎がいた。
手招きすると神妙な顔で相変わらず足音も立てず、ササッと駆け寄ってきた。
一度だけ抱いてくれと言った女が身ごもった。たぶん、それ以前にはお絹のことを意識したことはなかっただろう。その女と一目だけでも会うと言ってくれた。本当に優しい人なんだと思う。
小次郎は戸の前で立ち往生している。入りにくいらしい。
「あ、私、先に屋敷へ帰ってるからね。夕方からお父上さまのところへ行かなきゃいけないから。小次郎さん、一人で帰ってこられるよね」
「は、はあ」
「なんなら、ここに泊まっていってもいい。私が龍之介さんに文句を言わせないから」
「はあ」
煮え切らない返事をする小次郎の背中を叩いた。ばちっと音がする。
「しっかりしなさいよ」
戸をガラッと開けて、その背中をドンと押し、戸をピシャリと閉めた。
あとは二人でどうにかするだろう。それがどんな結果になろうと、一度は二人が、きちんと顔を見て話さなければならないのだ。二人がお互いを意識していることはわかっていた。このまま二人が歩み寄ってくれればいいと思った。
再び、井戸端会議中のおばちゃんたちに手をふり、雪江は駕籠に乗り込んだ。早く屋敷へ帰って支度をしないといけない。
「待たせといてごめん。でも急いでっ」
タクシーの運転手にいうように、駕籠の担ぎ手に言う。
「はっ」
と言うが早いか、駕籠は飛び出していた。