幸せだから笑うのか
お絹の母、お勝は雪江を見てニコリと笑い、関田屋へ話をしてくれることを引き受けてくれた。
丸髷に剃眉、お歯黒はすべて既婚の象徴だ。しかし、それほど違和感を感じず、お勝の笑顔に頼りがいのあるものを感じた。ちなみにお絹のような未婚の娘は島田に結う。もちろん、眉もある。
「ええ、任してくださいな。関田屋のご隠居はどこか不思議なところのあるお方です。奉公人にも決して声を荒げるようなこともなく、温厚で人柄もよく、困っている者があれば放ってはおけない性分でありますから」
お勝はそう言いながら、もう腰を上げていた。雪江、龍之介、小次郎はもちろんのこと、お絹までが一緒に出掛けることになった。
お勝はその前にちょいと、と言い、金魚の模様の手ぬぐいを取り出し、雪江の髪をまとめるようにして姉さんかぶりにした。
これは旅に出る時、土埃が髪の毛につかないようにするためのものだが、雪江の赤茶髪を見事に隠してくれた。
これなら江戸市中を歩きまわってもそれほど目立つことはない。
皆がそろって出掛ける時、雪江は奥の寝所の障子が少しだけ開いたのに気づいた。お絹の姉、お信乃が出てくるかと思ったが、その奥で目が動いただけでまた、そっと閉まった。
裏長屋は奇妙だった。狭い空間にいろんな物があり、大勢が住んでいた。
厠(共同トイレ)と井戸はもうお絹から教えてもらっていたが、周辺にはゴミ捨て場、鳥居もあった。
厠は怖かった。小さな個室が三つ並んでいて、上の部分がかなり開いている。外から誰かが入っているのがわかるようにということらしい。しかし、雪江は洋式のトイレになじんでいて、たまに見る和式は苦手だった。しかもぽっちゃん(汲み取り式)で深く掘ってある穴は臭く、暗かった。落ちたらどうしようと思う。だが、ここでは仕方がない。紙も硬く、使う前によ~く揉まないといけないのだと教えられていた。
長屋の中を通りぬける。
それぞれの戸には左官、魚よしなどと書いてあり、どんな人が住んでいるのか一目でわかった。九尺二間と呼ばれる畳四畳半の長屋もあり、六畳と四畳の長屋もある。それぞれの収入に応じて選べるようだ。
龍之介たちの住むところは六畳、四畳だが、中には六畳、二畳、土間つきになっているところもある。だから、ここには独身者も家族連れも三味線のお師匠さんも住んでいた。
わんぱくそうな男の子たちが雪江とすれ違う時、声を上げた。
「ザンギリお雪だぁ」
雪江はそれが自分のことだと思わずに振り返った。男の子は雪江の視線に気づいて、もう一度囃したてた。
「ザンギリお雪がこっちを見たぁ」
お化けが振り返ってこっちを見た、みたいな表現に驚く。
お勝も振り返って、
「こらあ、人のことをからかうんじゃないよ」
と叫ぶ。
しかし、お絹が吹き出し、龍之介、小次郎までがくすくすと笑いだした。雪江は一人、不愉快な顔をして、裏長屋を出た。
有名な日本橋からかなり下にくだった道だとお勝が教えてくれた。大勢の人が忙しそうに歩いていた。
駕籠も通り、せかせかと通り過ぎる人、商家の娘も小者を付き添って歩いている。その歩く人々に声をかけて、店の商品を見せる者も、それを覗く笠をかぶった旅人の姿もあった。ちょっとした繁華街である。
その大通りには関田屋の太物屋の他、書物問屋(本屋)、扇などを売る店、醤油、油、海苔、干物、蝋燭、薬など、見て回れば切りがないほど店が並んでいた。
お勝、お絹、龍之介はその関田屋へ入っていく。小次郎と雪江はその場で待つことになった。まずは雪江抜きで話をすすめ、会ってくれると言ったら呼ばれるという手筈になっていた。
その店の中に、きれいに着飾った、いいところのお嬢様のような娘が中年の女を連れて入っていった。店の前を行き交う人々も声をあげて笑ったり、楽しそうに話をしながら通り過ぎる。
それを見ていて、雪江もあんな風に友達と笑いながら学校へ通った、自転車に乗って買い物にも行ったと思い出に浸っていた。
雪江には両親がいない。当時、産婦人科をしていた祖父の病院に、母が運ばれてきたそうだ。母は雪江を産んで三、四日ほどで亡くなり、そのまま雪江を取り上げた医者が養子として引き取ってくれた。
父親の存在は皆無だ。しかし、雪江はそんなことはあまり気にならなかった。養祖父母は実の家族のように接してくれていたからだ。
雪江が都内の高校に進学するとき、祖父母は甲府へ引っ越していった。甲府は祖母の故郷でもあり、リュウマチを患う祖母には温泉療法がいいというのが理由だ。
雪江も一緒に甲府へ行くつもりだったが、希望した高校には寮があったため、一人で都内に残ることになった。寮と言っても学校から地下鉄で一駅先にあったから、雪江は自転車通学をしていた。
「いいな、皆、幸せそう」
つい口に出た言葉だった。雪江は今、自分だけが取り残されたような、笑顔を向ける人が身近にいない寂しさにつつまれていた。自分だけが不幸だと思っていた。
「いかにも。皆、楽しそうに歩いていく」
その声に、小次郎が雪江のすぐ近くにいたことに気づいた。
小次郎は雪江には無口で、必要なこと以外は話してこない。だから、嫌われているのかと思っていた。
「雪江殿は幸せではないのか」
何をいまさら、とばかりに小次郎を見た。
雪江には帰る家も家族も友人もいないのに、幸せであるわけがない。そんな抗議を無言でする。それを感じたのだろう、小次郎は遠くを見るようにして話し始めた。
「確かに雪江殿は決して安定した立場とは見受けられぬ。だが、あのように笑っている人々もすべてが幸せと言えないと思う」
小次郎の言っていることがすぐに飲み込めなくて、小次郎の顔をまじまじと見る。
切れ長の目が整った顔をいっそう涼しげに見せている。彼は雪江と同じ年の龍之介よりも二、三歳年上のようだが、二十一世紀の二十、二十一歳よりはずっと落ち着いていて、大人に見えた。
「雪江殿は自分がこの世で一番不幸だと思っておるのだろう。神隠しにあって、元の家に戻ることもできるかどうかわからない。こんな不幸な人は他にいないと」
図星だった。
行きかう目の前の笑顔が憎たらしく思えてくるほど、自分はなんでこんな目に合うのだろうと嘆いていたのだ。考えれば考えるほど、落ち込んでくる。
友人もいない、不便なトイレも使わなければならない、着物も一人では着ることができないし、行燈をともすのにも、かまどに火をつけるのも容易ではない。音楽も聞けない、テレビもない、コンピューターだって使えない、コンビニもない。否定のないないづくしだった。
時間がたてばたつほどにそう思えてくるのだ。
「あの中には病人を抱えている人もいるに違いない。嫁姑の問題で悩んでいるかもしれない。最愛の人を亡くした人も・・・・。或いはお家騒動もあるかもしれないのだ。人とは人知れず、果てしなく悩みを抱えているものなのだ」
雪江は何をどう言っていいのかわからないまま、無言で聞いている。
「悩みの大小はあるにせよ、それをずっと気に病んでいても解決できないものもある。それなら暗い顔をしているよりも、できる限り小さな喜びを見つけて笑い合い、涙する時には助け合えばいいのではないかな」
大人過ぎる。祖父くらいの人が言うのならともかく、こんな若者が言うセリフではない。落ち着き過ぎていた。
しかし、よく考えてみると龍之介と小次郎も侍なのに、町人と同じ長屋に住んでいる。小次郎は龍之介を「若」と呼んでいるではないか。
若ということは若殿様ということだと思う。身分の高い人なのだ。それなのに、龍之介は他の侍に追われ、危ない目にあっていた。なにかよほどの事情があるに違いない。
そしてお絹の姉、彼女もなにか大きな事情を抱えているのだろう。とてつもない不幸なオーラみたいなものを背負っている。
雪江は自分もお信乃のような暗いオーラを発しているのかとギクリとした。
でも、でも、彼女たちには帰る場所があるじゃないの。雪江よりも幸せに決まっている・・・・。
幸せとは人によって基準が違うのだろうか。何を欲して何を望むのか。いや、違う。今ある困難を乗り越えると、初めて今まで何もなかったことが一番幸せだったと思えるのではないか。
現に雪江は、あの規則にうるさい寮生活、試験前の緊迫した学校が懐かしく、取り戻したい平和だと感じていた。
「雪江殿は幸せだから笑うのか」
「え、まあ、そりゃあ・・・幸せじゃないと笑えないと思うけど」
「笑うと幸せがくるのだよ。不幸だといって仏頂面をしているとますます暗い気持ちになるであろう。微笑んでみると今までの不安な気持ちが少し軽くなるのだ」
もうただ、関心するしかなかった。小次郎先生。
「これは拙者の姉上の受け売りなのだが」
小次郎は二ヤリと笑った。雪江もつられて笑った。