床入りか
またもや、特別な寝所へ行く。
行燈がますます豪華になっていて、布団も新調したようだ。
そんな中に雪江は一人座っていた。緊張していて正座したまま、カチコチになっていた。
龍之介は割とすぐに寝所へ姿を見せた。龍之介自身も疲れている様子だ。
雪江の正座している様子を見て、くすっと笑った。いつになく、かしこまっているからだろう。
「待たせたか?」
「いえ」
言葉少なに答え、首をぶんぶん振る。まだ湿っている髪が揺れる。
「どうしたのだ。いつもの雪江ではないみたいだ」
龍之介の手が肩に触れた。びくっと体を震わせる。
龍之介も雪江の過剰な反応に驚きの顔を見せた。
「なんだ、本当に抱くと思ったのか? そうなのか」
龍之介の顔は悪戯っぽく笑っていた。
「え? 違うの?」
しかし、龍之介は返事のかわりに雪江を抱き寄せた。キュンともキャンとも言えない声を発してしまう。雪江はされるがままになっている。
「雪江はいつもいい匂いだ。抱きしめると香のほかに、雪江のいい香りがする」
どうやら龍之介は、抱くつもりではなく、抱きしめるつもりでいたようだ。
布団の中に入り、なおも龍之介は雪江を抱きしめていた。
「明知様が倒れられたとき、一瞬だが奥方様に触れた。その時もいい香りがした。その目には我が子を心配する母の心が現れていた。そして、わしを見たその時、その目に戸惑いと罪の意識が見てとれた」
「龍之介さん・・・・」
「あのお方は常に明知様を心配し、常にわしと重ねて見ていたのであろう。そしてそのたびに罪の意識も感じておられたと思う。不憫なお方ぞ」
龍之介がそこまで考えていたとは思ってもみなかった。あの時ずっとポーカーフェイスだったからだ。
「母というものはどんな感じなのだろうのう」
雪江にも母はいない。
「さあ」
龍之介もそれに気づいて笑う。
「武家には乳母がいるので、例え母がいたとしてもわしの生活には大した違いはなかったかと思う。雪江にも母代りの祖母がいたと同じでな。人はそれでも立派に育っていく。しかし、今日のことでわかったことがある。明知様には母上が必要だったのだ。他の誰よりも明知様のことを思い、心配する存在がな」
龍之介の言うことがわかるような気もする。
「じゃあ、龍之介さんには必要なかったってことなの?」
行燈の薄暗い光の中で龍之介が笑った。
「そう、わしには母上は必要なかった。こんなに健康な体をもらっているから」
「あ」
雪江は目を見開いた。
普通なら両方をもらえるかもしれなかったのに、それを考えず母を許そうとしている。
龍之介にとって、あの加藤家での時間は走馬灯のように自分の人生を振り返り、自分を納得させる時間だったと思う。
雪江は龍之介を抱きしめた。母が子を抱くように、自分の胸に龍之介の顔を押し付けた。龍之介もされるがままになっている。背中に回った手にぎゅっと力が入っていた。
「龍之介さんが双子で生まれ、養子に出された。そして私の母が一緒に桐野へきて父と出会った。そして私が生まれることになる。いろいろあって他の世で無事に生まれることができ、また江戸に戻って龍之介さんと出会った。そして今、ここに一緒にいる」
龍之介はそのまま雪江の言葉を聞いていた。
「うむ」
「ずっと龍之介さんが双子じゃなかったら、理子様を独り占めできたのにとか考えていたの。でも、もしそうなったら私は生まれない。それじゃだめだったの」
「なるほど。そうなるようにできていたのだな。運命の悪戯ではなく、そうなるように、そうならないと今がない」
「私、もし子供が生まれたら乳母に任せないで自分で育てたい」
龍之介が顔をあげた。
「乳母が必要ならそれでもいいけど、できるだけ子供に母親の愛情を注ぎたいの」
龍之介の顔が変わった。優しいいい顔をしている。
「母の愛情をしらぬ雪江とわし、その子供へ二人分の愛情を注ぐとするか」
「過保護になりそう」
「それもいい」
と龍之介は笑った。
雪江は急に安寿のことを思い出した。
「ねえ、もしもよ。もしも私に子供ができなかったらどうする?」
龍之介の浮かべていた笑顔がたちまち曇る。新年早々そんな縁起でもない事を言うのではないというように。
「それは・・・・・急にどうしたのだ」
「明知様のご正室、安寿姫が泣いていたの。ついに明知様が側室を設けるって。加藤家の嫡男の正室なら、それを喜んで受け入れなければならないのに、自分は笑えないって泣いてた。だから、龍之介さんも桐野の跡取りのために側室を作るのかなって思って」
これはずっと以前から思っていたことだった。自分が側室になることも嫌だった。そして正室という身分になると、今度は側室という存在を恐れている。雪江も簡単には受け入れられないだろう。
雪江は一番恐れていた質問を龍之介に投げかけていた。
「龍之介さんも側室を設ける?」
龍之介はいろいろと考えているようだった。すぐには返事をしない。
しかし、ぎゅっと雪江を抱きしめる。
「もうそんな嫉妬をしているのか」
「だって・・・・・」
そんなことを聞いても仕方ないのかもしれない。何年かして二人の間に子供ができないと家臣たちが側室を勧めるという。お家のためと言われてしまっては、藩主としての立場上、そうするしかない。
「兄上とわしは血のつながりはないが、よく似ていると思う」
ここで言う兄上とは正重のことだ。龍之介は優しい目で雪江にそういった。
「兄上は雪江の母、綾様を側室として迎えた。しかし、綾様がこの世からいなくなってから、やっとご正室を受け入れた。そのご正室もお亡くなりになり、独りになって、今、恵那どのに至っている。いつも一人の女子しかお側におかぬ。跡取りのことを思うと、兄上も側室を何人か持つべきだと思う。しかし、持たなかった。兄上もそう器用に立ち振る舞いができないのだ。わしも・・・・・同じだと思う。同時に複数の女子を愛することができようか。子は愛されて、望まれてこの世に生まれてくると思っておる。跡取りのためならば、養子を迎えればいいのだ。わしのようにな」
「龍之介さん」
うれし涙で龍之介の顔がぼんやりしてくる。
「それに・・・・・・」
龍之介がそこで言葉を切る。
「それに?なあに」
龍之介の顔がまた、悪戯っぽくなる。
「子作りもしておらぬのに、そんな先の心配をしても始まらぬぞ」
雪江が何かを考えるより先に、龍之介が覆いかぶさってきた。柔らかなくちびるが触れる。
今まで雪江な何を心配していたのだろうか。大好きな龍之介に触れられることがそんなに怖かったなんて信じられない気持ちだった。
「なんだ、もっと震えているかと思った」
少し残念そうに言われる。
「さっき、いきなりだったら震えていたと思う。でも・・・・ね。龍之介さんだから、龍之介さんなんだもん、大丈夫って思えて」
薄明りで苦笑する龍之介がいた。
「そうか、わしだから大丈夫か。なんかこそばゆいが悪い気はしない」
龍之介がかなりの力で雪江を抱きしめた。身動きがとれないほど。
「今宵こそはと思ったが、祝言までもう間もない。それまで待ってもよいか」
と聞いてきた。
「残念だけど待てる」
と雪江が言うと、龍之介も声を上げて笑った。
いつも床入りが未遂ですみません。