龍之介の変化と安寿の苦悩
桐野家に戻り、ほっとする。
雪江は自分の部屋で、着物を脱いで寝転がってしまった。
それを見た節子は眉を寄せて、せっかく姫様らしくなられたと思いましたのにと皮肉を言った。しかし、そんなことは構わず寝ていた。それだけ気を使った一日だったのだ。
夕餉のあと、父が退出してから龍之介は雪江に神妙な顔をして言った。
「今宵、雪江のところへ行きたい」
「え?」
いつもと雰囲気が違う龍之介に戸惑い、しかも今夜、雪江の寝所へくるということにも不安におもえた。
「いいけど」
また、あの大がかりな身支度をするのかと思うと心がなえてしまう。今夜は疲れていた。
「ね、誰にも内緒でそっと私の寝所に来られない? ちょっと用事があるとか何とか言っちゃってさ」
どうせ、今日の話をするのだろう。
ギロリとにらまれる。
「いや、一応、いつもの支度はしておくように」
龍之介が言葉を切って、雪江を見つめた。
「もしかするとわしの気分によっては、そなたを・・・・・抱くことになるかもしれぬ故」
え? 今なんていった?
雪江は龍之介の言った言葉を理解するのに、気を落ち着けなければならなかった。
気分次第で、もしかすると・・・・・、もしかする状況になるってこと? 祝言まで手を出さないと言っていた龍之介が、そんな事を言うなんて。
しかも雰囲気が別人のようだ。まるで双子の落ち着いた明知と入れ替わったかのように。
しかし、それ以上は何も言えず、雪江まで神妙な顔になり、うなづいただけだった。
「いつ頃くる?」
とだけ聞くと、
ふっと笑って、
「そう・・・・・・雪江が寝てしまわぬうちに参るとしよう」
奥向きは案の定、ばたばたとしていた。
加藤家から戻って、すでにお風呂に入っていたのにもかかわらず、再度入るように言われ、髪も油で固めていたため、今回特別にと洗髪を許された。
雪江は支度も上の空で、言われるままに、されるままに従っていた。
節子は嬉々としている。
新年早々のお渡り、めでたいと思っているのがわかる。
「こんなに口答えや抵抗しない雪江様が怖い」
と節子は嬉しそうに言った。
雪江の心中はそれどころではなかった。
龍之介の爆弾発言に頭がいっぱいだったからだ。
やばい、やばい。非常にやばい状況だ。
知識はあるものの、それが故、不安にさせるということだ。今までそうなる期待もあったが、いざとなるとこんなに構えてしまう自分が情けなく思った。
今日のなにが龍之介を変わらせたのか。やはり、思いつくことは血を分けた親、兄との対面だろう。
今日、安寿と会ったとき、雑誌を見せて雪江のいた世界を少し覗いてもらった。
きれいな靴、洋服、ネイルアート、ヘアスタイルなどや他にはかわいらしい小物、海外の様子、ゲームなどたくさん載っている。
てっきり安寿はうらやましがると思っていた。だが、安寿はパラパラとめくり、ため息をついた。
「なにやら、いろいろなものがありすぎて大変そうでございますな」
「え? 大変?」
「目移りしそうなものばかりで、頭がくらくらしてきました」
と笑った。
確かに情報は多い。しかし、だから自分の必要なもの、やりたいことが選択できる。それとも本来はそれほどの選択肢はいらないということなのだろうか。
そして、大学を卒業するまで最低22歳くらいまで学校へ行くつもりだったとも言うと安寿はまた深いため息をついた。
「それが雪江様のなさりたいことなのでしょうか」
そんなふうに考えたこともなかった。返答に困る。
「う~ん、たぶんね」
そんな返事しかできない。あの時はみんなが行くし、祖父母もそのつもりでいた。今となっては本当にやりたくてもできないから何とも言えないが。
「なにやら、武家のしきたり、世間のこと、しがらみもなく自由に一人一人が生きられるということは、うらやましいような気もしますが、それほどの自由、結局、何をしていいのかわからず仕舞いで終わってしまわれる人もいるのかもしれませぬなぁ」
自分の個性が生かされれば、自由な生き方が見つかればいいのだろうが、それができている人はどのくらいいるだろう。学校などの規則に従い、みんなが行くから、やるからという見えないルールに沿う方が楽なのかもしれない。それが自由かと言われたら・・・・・そうと言えないのかも。
「いつの世も、自分自身に課せられた目的がございます。それを見つけ出し、その道を行けばよいかと存じます。わたくしの道は、加藤家に入り、明知様と生涯を共にすること。明知様のために生きることが目的なのでございます。」
その割には安寿の顔はさえない。
「なにかあった?」
安寿は侍女たちを下がらせた。雪江と二人きりになる。言いにくいことなのだろう。
「明知様は、ついに側室を迎え入れることになりました」
はっとする。あの愛らしい安寿の顔が能面のように動かない。
「心の狭いわたくしは・・・・・素直に喜べません。今も苦しくて仕方がないのです」
「安寿姫」
「叱ってくださいませ。雪江様、こんなに心の狭いわたくしをどうか・・・・・・」
「そんなこと・・・・・」
できるはずがなかった。雪江も同じように心が痛んだ。
「明知様のことを考えれば、側室の存在は加藤家の安泰の兆し。正室のわたくしが喜んで迎え入れなければならないのです。」
そんな、そんなこと、普通の人だったらショックだろう。いくら姫でも、いくら正室でもそういう状況は許せないはずだ。ましてや、安寿は明知にぞっこんだった。ただの家同士の婚姻関係で仕方なくということならまた違っていたかもしれないが。
安寿はもう言葉にならなかった。雪江は慌てて安寿のそばに行く。
安寿は泣いていた。雪江にすがって泣いていた。雪江はそれを複雑な思いで感じていた。
きっと今まで誰にも言えなかったことなのだろう。これは明知の母、理子にも言えないだろう。
「私でよければ、いつでも言ってください。心の中にとどめておくと不安はどんどん大きくなっちゃう。ろくなことにならないから」
「雪江様、かたじけのう存じます」
雪江は安寿を抱きしめながら考えていた。
龍之介もいずれは側室を設けるのだろうか。この先、父が隠居をし、龍之介が藩主になれば、当然、跡取りが必要になる。その時に雪江に子がいなかったら・・・・・それは仕方がない。しかし、仕方がないと考えて受け入れられるだろうか。
きっと今の安寿のように、嫉妬と不安を募らせて泣くだろう。