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新年のあいさつの準備 台所へ

 その日の朝から雪江はそわそわしていた。

 加藤家へ行くことがうれしくて仕方がなかった。外出などほとんどしないし、誰かが直接訪ねてくることもない。だから、久しぶりに理子まさこや安寿に会えることが楽しみだった。


 父と龍之介と一緒に、朝食をとる。


「雪江がお世話になった加藤家だ。雪江はかなり嬉しそうに見える。正和は?」

 父が雪江を見て、次は龍之介を見た。

 龍之介は曖昧な笑みを浮かべて、いつもと変わりない落ち着いた様子だった。

「はあ」

とだけ答えた。嬉しいのか嬉しくないのかわからない返事だ。


「奥方様とはふみのやり取りをしていたが、わしも会うのは初めてだ」

と父。

 少しいたずらっぽい目で龍之介を見た。

 それでも龍之介は知らん顔をしてご飯を口に運んでいた。誰とも目を合わせずに、しかし心はどこかへ飛んでいるような。

 龍之介はいつもより静かすぎた。

 他の大名家のあいさつ回りではその大名と会うか、家老が応対する。その家の妻子が表に出てくることはなかった。

 今日はその異例のことでその奥方と嫡男夫婦に会う。しかも、それは自分の実母と血を分けた兄なのだ。

 もう少し嬉しいとか不安などの感情を見せてもいいと雪江は思いながらちらちら見ていた。


「理子さまってすっごくきれいな人なの。お殿様の方は会ってないからわからないけど、本当にテレビに出てくる女優さんみたいな人」

 理子が本物の奥方で、テレビは女優がそれを演技しているのに、雪江はそう言って一人で納得していた。

「そうか、それは楽しみだな。わしは加藤明高かとうあきたかさまには何度となく、城でお会いしている。心の広い博識なお方だ」

「へ~え、そっか。お父上様はお城が勤務場所だからね」


 いつものように、雪江が勝手に自分のわかりやすいように言い換えていると、龍之介がイライラした口調で言った。

「そんなわけのわからない例えをするものではない」

 父も雪江もはっとして龍之介を見た。


 なによ。いつものことじゃないと言いたいのを飲み込む。

 父がよせと目で訴えていた。


 龍之介は周りが思っているよりも動揺しているらしかった。自分が動揺していること自体も許せないのだろう。だから、平静を保った表情で言葉少なにしているのだ。

 そうわかったら雪江は龍之介がかわいく思えた。


 何も感じないわけがなかった。

 十七年間、知らなかった母の存在、ただ養子だとしかわからなかった自分の境遇。武家同士の言わずの決まり事であっても、龍之介にとっては母がどこの誰かもわからないというのはつらいことだったと思う。雪江もそうだったからよくわかる。


「雪江は先にあちらへ行くと聞いているが・・・・・」

 悪かったと思っているのか、さっきよりはやさしい声で龍之介が尋ねた。

 それでも雪江の目を見ない。

「そう、安寿さまに呼ばれているの。昼過ぎにここを出て行くつもり。あっちの方から持ってきた雑誌を見てもらおうと思ってる」

 あっちの方とは、二十一世紀から持ってきたファッション雑誌のことだった。

「そうか・・・・。女同士の話はさぞかし騒がしいのであろうな」

と、やっと龍之介が雪江を見て、ニヤッと笑った。


「まあね、安寿様とは気が合うし、彼女ってすっごくかわいいの。このお方もテレビに出てくるお姫さまって感じ」

 父と龍之介が笑った。

「また雪江の言うテレビか。我々の生活はそのテレビというものから覗かれているようじゃな」

と、父がいっそう可笑しそうに笑った。


 よかった。龍之介がまた、いつもの表情に戻った。とりあえず、実母と兄に会う覚悟はできたらしい。父も龍之介の緊張を察して、一緒に笑い飛ばしてくれた。

 今日の対面が龍之介にとって、かけがえのないものになることを心から祈った。


 朝食後、雪江は奥向きへ戻る。今日の外出には節子とお初がついてきてくれる。だから、節子は何かと忙しそうにしていた。

 お初と一緒に中庭に出る。

 どんよりとしていた雲がいっそう黒くなり、今にも降ってきそうだった。この寒さなら、雪になることは間違いない。雪だからといって交通渋滞を起こすわけではないから心配はしていないが、とにかく寒かった。


 少し早目の昼食にしてもらっていた。

 そのお膳を見て、裕子と徳田の手が加わっていることに気づいた。

 煮物のにんじんが梅の花の形をしていたり、いつもは焼き鮭の切り身なのに、フリッターになっていてタルタルソースがついていた。


 節子もお初も目をみはっている。特にフリッターは揚げたてで、外側はさくっとしていて中はふんわりしていた。

 これはお膳をこっちへもってくるタイミングで揚げたのに違いなかった。徳田の配慮だろう。


 雪江は食べ終えてすぐに台所へ向かった。少し裕子に加藤家へ行くためのお願いごとがあった。お初がついてくる。

 以前、女中と偽って台所へ入った雪江だった。姫の姿では行きにくかったが仕方がない。

 そっと覗くと、すぐに薫と目が合ってしまった。

「あっ」

と声を上げられる。皆が雪江の方を見た。


「姫様」

と、薫は急いで前掛け(えぷろん)をとり、その場に平伏した。他のみんなも反射的に平伏する。

「いや、ごめんなさい。そんな・・・・・頭を上げて作業をしてください。邪魔をするつもりじゃなかったの」


 お時が雪江の声に反応し、頭を上げた。

「あっ・・・・」

 やっと気づいた様子だった。

「そう、おきえです」

 他の女中たちも思わず顔を上げて、雪江の顔をよく見た。

「姫様とは知らずに、とんだご無礼を・・・・・お許しください」

 お時が言うと、再度、他のみんなもまた頭を下げた。


 うわあ、どうしよう。頭を下げたいのはこっちなのに。あの時、身分を隠して台所へ入ったことを謝りたかった。

「ね、頭を上げてください。私の方こそ、許してもらいたいんです」

 しかし、みんなは恐れ多いとばかりに顔を上げない。何を言ってもだめらしい。


 そこへ、徳田が水を汲んで中へ入ってきた。

 みんなが作業そっちのけでひれ伏しているのを見て、仰天していた。

「え?」

と、みんなを見て言う。


 そこに雪江がいることに気づいて納得した表情になった。

「なんだ、雪江。邪魔すんなよ。みんな忙しいんだからさっ」

 徳田が水を、台所の隅にある水瓶に入れる。

「ごめん、そんなつもりじゃなかったの」

 裕子も姿を現した。

「あら、雪江ちゃん、いらっしゃい」

とすました顔で言う。

 そして、他の女中たちが平伏しているのを見て、驚いていた。


「あらら、雪江ちゃん。このままだと台所、機能がストップしちゃうわよ。なにか言ってよ。起立とか」 

 起立は違うと思うが、どういっていいかわからないでお初を見た。

 お初は一歩前に進み出ていった。

「雪江様が皆にいつもの作業に戻るようにとのことじゃ、突然現れて邪魔立てをしてすまなかったな。さあ、さあ」

 みんなが恐る恐る頭を上げる。

 本当に雪江を前にして、働いていてもいいのだろうかと不安そうだった。

「薫ちゃん、鍋を洗うの手伝おっか」

と雪江が言った。

 みんなはぎょっとして雪江を見て、そして薫を見る。

 雪江は冗談のつもりで言ったのだが通じず、薫は深刻な顔で慌てて首を振った。


「本当にごめんなさい。私がみんなに女中だって嘘をついて台所に入ったこと、悪かったって思っています」

 雪江はそう言って頭を下げた。

「そんな、雪江様にそんなことを・・・・私どもはどうしたらいいか・・・・・」

とまた、ひれ伏すのだった。


 雪江がどうしたらいいの?と助け舟をだしてもらいたくて徳田を見る。

 徳田が無言でうなづいた。


 徳田がわざと荒い声を出した。

「おい、雪江。いい加減にしろよ。お前が突然くるからいけないんだぞ。これじゃ、なにもできないじゃないか」

 みんなは雪江に対して横柄な口をきく徳田に驚いていた。

「ね、私が叱られるの。さあ、いつものようにお願いします」

 姫が台所役に叱られるのならと、みんなは起き上がった。

 ほっとする雪江。


「ねえ、裕子さん。今日のランチ、裕子さんたちの手が入っていたでしょ」

 裕子はいつもの微笑みのまま、片づけをしている。

「八田さんが昼から実家へ帰っているの。私たちがここにいる間なら休みが取れるからって。だから、中屋敷へ行くまで私たちの料理を食べてもらうことになるわよ。それにその間、ここに残る人たちに料理を教えることができるし」

と裕子はお時を見た。

 お時は平静さを取り戻し、穏やかに笑っていた。


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