千里の噂話 3
「八重ちゃんは実際に具合が悪いんでしょ?」
「はい、原因不明のめまいがいつもしていたり、咳きこんだりしていてお針子としては、なんとかこなしているみたいですけど」
「精神的なものなのかな」
「そうかもしれません。以前はあんなに元気だったのに、御内証の話がだめになり、若様の祝言が決まったとたん、寝込んでいるので・・・・・」
よほどショックだったらしい。それはそうかもしれない。ずっと恋焦がれていた人と一夜だけでも、結ばれるかもしれない可能性が出てきたのだ。
あの自信家の百合絵なら、八重にはかなり良いことを言ったのだろう。
絶対に大丈夫、御内証の方には、八重を推す、他の人にはさせない、と。でも、龍之介がそのこと事態を必要なしと判断していた。
それにはさすがの百合絵もどうすることもできなかった。
雪江は側室として迎えれられることになっていたが、突如としてその身分が明らかになり、正室になった。それらも八重の心を打ち砕いたのだろう。
恋する心は雪江もよく知っていた。寝込むほどの八重の気持ちもわかった。
しかし、・・・・。雪江の噂話は別だ。
この際、八重のことよりも百合絵のことだった。
百合絵と成瀬がつながった。
成瀬から百合絵が情報を聞き出し、朝になって他の奥女中に噂を流す。できないことではなかった。それに成瀬も百合絵がしゃべったと気付いたのだろう。その時から口を閉ざしたからだ。
今度はそれを裏付けする証拠がいる。ますます事件化してきた。
このことを画像に残して、証人の証言としておきたかった。
こうなったら成瀬のところへいって、百合絵のことを暴露し、白状させるしかないのかもしれない。
「じゃあ、あの噂を流していたのは百合絵さんだったんだ」
と言ってみた。
女の子たちの反応を見ることにしたのだ。
賛同するか反対するか。
薫が厳しい口調で言った。
「いえ、それは違うと思います。百合絵さんがそんなことをしても何の意味もないし、大体、そんなことを言ったら、自分からお医者様とつながっていると言っているようなものですから」
本当に感心する。薫って、頭の回転がいい。
しかし、千里は薫を見て言った。
「そんなのわかんないじゃない? あっちで聞いたけどさって言ったら、誰から聞いたのかわからないし、誰が最初に言ったのかなんて誰も関心を持っていないよ。百合絵さん、八重ちゃんのことでこの奥向きをかき回したかったのかもしれないしさ・・・・・」
薫がいう。
「確かに、最初はそんな感じでした。でも、段々内容がすごくなっていって・・・・・。ここの、奥女中だけの知る内容じゃなくなってきていたんです。姫さまが、初夜にどたばた音を立てて暴れていたとか、絶対にその時、奥に詰めている人だけが知る話なんです。けど、奥女中だけで笑っていればよかったのに、人の口に戸は立てられないというか、どんどん広がってしまって・・・・・・ついにはものすごく大ごとになっていたから」
薫が雪江を見つめた。
「知られてはいけない人にまで、知られてしまった・・・・・ってこと」
薫が雪江を意識してそう言った。
やはり、ばれていた。薫は知っていた。おきえが雪江だってことを。
「知られてはいけない人って? 奥向きの取締役、節子様ですか」
千里は声が震えていた。
「節子さまは知りません。こんなことを知ったらどうなるか・・・・」
雪江がそういうと、千里はごくりと喉を鳴らした。
どうしたんだろう。急に千里が過剰に反応している感じ。
「このまま噂が飛び交うようであれば、奥向きの女中全員、総入れ替えになるかもしれない、というとこまで話がいってます。まあ、姫さまがそうはさせないって言ってるけど・・・・」
千里が素っ頓狂な声をだした。
「姫さま? 姫様までが自分自身の噂をご存じなんですか?」
雪江は、千里を見る。
なんでこんなに動揺しているのか。千里は、その噂の犯人を知っているみたいだ。よくわからないが、もう少し刺激をしてみようと思う。
「もちろん、もう笑っている場合じゃないと訴えかけてきた人がいるの。龍之介、じゃなくて・・正和さまも知っている。そしてその情報源が成瀬だってこともわかってる。それで急きょ、私がここへ来たってわけ」
もうこうなったら、雪江はこのことの真実を探るためにここに来ていることを打ち明けるしかない。今日のうちに決着をつけないとたぶん、解決は無理だろう。
「姫さまも・・・・正和さまもご存じだとは・・・・・そんなに広まるなんて・・・・・・」
千里が真っ青な顔をしていた。膝ががくがくしていて、その場に座り込んだ。
そのリアクションに雪江たちが驚いた。
「ねえ、千里ちゃん、大丈夫?」
抱き起こそうとしたが、千里は顔を手で伏せた。その手まで震えていた。
「じゃあ、なぜ、もっと早く私たちは処分されなかったんですか。本当にみんながその噂を口にして、笑っていたのに、なぜ?」
千里が思いつめた様子で、それでいて助けを求めるように、雪江に問いかけてきた。
「確かに噂話には頭にきていた。奥向きの女中たちを全部切り捨てるという話にもなったけど、・・・・たかが噂話でしょ」
雪江がそういうと千里が顔をあげた。
「女中たちの生活の基盤を失うほどのことじゃないし。それよりも噂を立てられるということは、姫さまにスキがあるんじゃないかと思うし。どこにいたって、なにをしようと、みんな多少の不満もあるし、そんなことで鬱憤が晴らせるのなら、お安いご用って考えもあって・・・・」
本当にそうだと思う。人は自分よりも幸福の人を妬み、うらやむ。
でもその言い方に、薫は絶句していた。
千里はぽつりぽつりと話し始めた。よほど思いつめたらしい。
「そんな・・・・姫さまにスキがあっただなんて、そんな恐れ多いことを・・・・」
「そんなつもりじゃなかったんです。百合絵さんが成瀬さまのところへ行くと朝、決まって八重ちゃんが奥向きでの話をしてくれたんです。百合絵さんから聞いたんでしょうね。姫様はこんなこともできない、とか、こんなことを正和様に言って、叱られたとか。たぶん、百合絵さんはそういう事でとんでもない正室をお迎えになる正和さまをもうきっぱりと諦めて欲しかったんだと思います」
なるほど、成瀬から雪江の様子を聞いて、それを大げさに言うことで雪江がとんでもない女だと思わせる。龍之介もそんな女を選んだということで、愛想をつかす八重というのが、百合絵のシナリオだったらしい。
「それを利用してやろうって思ったんです。そんな特別な人しか知らないことを言いふらされたら、成瀬さまも百合絵さんも困るだろうって」
その、千里の言葉はかなり重要なキーポイントが隠されていた。
「本当に、あの二人が困ればいいって思っただけでした。決して姫様を中傷することが楽しかったわけではありませんでした。本当です。だから、噂もお末とか、下っ端女中だけに流して・・・・・・」
えっ、えっ、それって千里がその噂の犯人だったってこと?
雪江は薫を見た。薫も目を見開いて驚いていた。
まさか、こんなところにその犯人がいたなんて思いもしなかったから。
千里は泣いていた。
「ただ、成瀬さまに振り向いてもらいたくて・・・・。あの方が町医者だった時から、私、ずっと好きだった。でも、いとも簡単に百合絵さんに盗られてしまって、すごく悔しかった。そんな百合絵さんのこと、許せなかった。そして八重ちゃんの若様への思いも、勝手に焚きつけて盛り上げてしまった百合絵さんのせいなんです」
千里は続ける。
「そう、八重ちゃんに夢を持たせ過ぎたことも許せなかった。あんなに元気で、毎日が楽しいって言ってたんですよ。それで・・・・成瀬さまか百合絵さんが困ればいいって、それだけだったんです」
千里が白状した。千里が成瀬を、百合絵に盗られたと嫉妬の念に駆られ、その噂話の犯人が成瀬たちに向けられるように仕組んだことらしい。
薫が、震えて泣いている千里を抱きしめた。
どうすればいいのだろう。最初、噂を流した本人だけを処分すると息巻いていたのに、この千里がそうだったとは。
「みんながやめさせられたら私のせいです。どうしよう。とんでもないことをしてしまった・・・。ねえ、おきえさん、どうしたら・・・・」
「大丈夫。やめさせはしないから」
そういう内情がわかれば、ちょっと話が変わってくる。
「ただ、今後絶対にこういうことはしないって誓ってね。もし、ふたたびそういうことが起これば、次こそ、逆臣としてみなされるかもしれない。そうなったら、もうどうしょうもない」
かわいそうだが、ここでかなり脅かしておく。
千里も薫も声にならない悲鳴を上げた。
大名の娘、しかも正室になる雪江のことを面白おかしく笑ってきたのだ。たとえ他のことが目的であったとしても、これは許されることではなかった。
しかし、もう噂がたたないのなら、何もなかったということでこのまま穏便に済ませると約束をした。
千里は涙ながらに、お礼を言っていた。
そんな千里を長屋の部屋に帰して、落ち着かせた。
雪江と薫は、適当に掃除を済ませて、台所へ帰っていった。
千里が犯人だったことはショックだった。そしてこの判断でよかったのかと心が揺れている。
「おきえさん・・・・は、姫さま?なんですよね」
恐る恐る薫が聞いた。
「まあね、よく黙っててくれたわね。感謝する」
「ここへ来た目的がやっぱりあの噂のことだってわかってました。でも、まさか噂の根源が千里ちゃんだったとは思わなかった。本当にすみません」
「薫ちゃんが謝ることじゃないでしょ。でもね、噂が私への悪気があっての噂じゃないってわかって少しほっとした。成瀬たちが困ればなんでもよかったんだよね」
薫はこっくりとうなづいた。
*****
雪江が台所へ姿を見せると、お初が安心した顔を見せた。
「おきえ、すぐに戻るように」
「はいはい、お初様」
裕子と徳田も料亭へ帰っていった。また、正月にくるという。
雪江は中奥へ入り、龍之介に事の事情を全部話した。
龍之介なら感情的にならず、千里のことを考えてくれると思ったからだ。
なるべくなら千里を処分したくなかった。誰にでも嫉妬はある。そういう嫉妬の渦に巻き込まれると冷静ではいられなくなる。
龍之介はそういう雪江の心までわかってくれた様子で、「雪江が許すのならそれでもよい。噂がもう立たないなら忘れる」と言った。
しかし、翌日の大みそか、お初の情報によると、千里は自ら辞めていったという。
周りにはなにもいわないで、置手紙に「もうしわけありませんでした」とだけを書き残して去って行ったのだった。