雪江の作戦・その二
薫が干し菓子を持って、廊下の先を行く。その後を、雪江が四人分の湯呑とお湯がたっぷり入った急須を持って行った。
呉服部屋は、奥向きの中心部にあった。障子の向こうで笑い声が聞こえる。
薫が廊下に膝まづき、部屋の中へ声をかけた。雪江はその傍らにお茶のセットをおいて、中から見られないように陰へ隠れる。
「台所の薫でございます。お茶をお持ちしました」
「ああ、おはいり、御苦労さま」
薫は慣れているだけあって、そつなく中へ入り、お茶を置いた。
「ああ、いいよ。後は私たちがやるからさ。ありがとう」
「失礼します」
薫が部屋から出ようとしたところを、百合絵の声がひきとめた。
「あ、お待ち」
「はい?」
「今日、見かけない顔の女中がいたけど、あれは誰だい?」
陰に隠れていた雪江はドキリとする。
「見習いのおきえでございます」
「見習い? おきえ、・・・」
他の人が不思議そうな声を出す。
「どうかしたのかい? その・・・・見習いの・・・・」
「いや、別に。ただ、下働きのものにしては堂々と人の顔を見るからさ、あ、いいよ、行って。あっちは忙しいだろうからさ」
「失礼します」
と、薫は障子を閉めた。
あの百合絵って人、鋭い。あのわずかな瞬間で、雪江のことをもう印象づけてしまった。やばいな。ちょっときれいな人だと思って見ていただけなのに。
台所へ戻ると、もういい匂いがたちこめていた。
ご飯を炊くにおい、魚の煮つけもできている。
「あ、遅いじゃないか、二人とも。お膳の用意をしておくれ」
「はい、すみませんでした」
薫はぺこりと頭を下げて、すぐさま棚にある膳を取りだした。
そろそろ夕食の時間ってことは・・・・・。
「あ、やばっ」
お君、お初、そして節子さん。
ちょっと手伝って、さっと戻るつもりが、つい体を動かすことが楽しくて、つい長居をしてしまったのだ。
真っ青になる。
「おきえ、ちょいとこれを盛りつけておくれ」
「あ、すみません。私・・・・お腹が痛くて・・・・失礼します。トイレへ」
「といれってなんだい?」
お時はきょとんとしている。
雪江はあわてて台所から出た。
「なんだい、今から人出がいるってときに・・・」
雪江はお時の小言を聞いてはいなかった。
お君と入れ替わらなければ・・・・でも、もう節子も戻っているだろう。どうやって、誰にも気づかれずに雪江の部屋へもどれるだろう。この格好ではリスクが多すぎる。
節子と鉢合わせでもしたら、すべてばれてしまう。どこかへ打ち掛けでも隠しておくべきだった。そうすればなんとかごまかせるのに。
奥向きへ行く廊下へ出る。雪江の部屋へ行くには長い廊下だった。
どうしよう。いくら昼寝といっても長すぎる。節子に起こされるに決まっている。もうばれてしまったかもしれない。
ふと、後ろの方で男の声が聞こえた。振り向くと、雪江が開けっ放しできた三つ向こうの襖の廊下に侍の姿を見つけたのだ。
そうか、あっちはもう表向きになるんだ。ってことは、小次郎もいるはずだ。
「よし、なんとかして小次郎さんを呼びつけよう」
小次郎には以前からお絹のことを一言いいたかったのだ。ちょうどいい機会だ。
何食わぬ顔で表向きへ行く。そっちでは女中の格好は目立つようで、廊下を通る侍が見ている。
どうしよう。どうやって小次郎を見つければよいのか。
なるべく下を向いて通り過ぎようとした時、呼びとめられた。
「おい、どこへ行く。そちらはお女中の行く所ではないぞ」
「はい、申し訳ございません。新参者にございます。実はわたくし、奥向きで働く者ですが、小次郎様に言付けをいいつかっております」
「小次郎様? あの正和様の側用人の?」
「はい、その小次郎様にございます。雪江様より緊急の用むきでございますので。どこへ行ったらよろしいのでしょうか」
雪江はすらすら出る女中の台詞にぞくぞくしていた。自分ながらに演技派だと感心していた。
「なに?姫様の言付けをとな」
侍は少し思案している様子だったが、
「あい、わかった。そちはここで待っておられよ。わしが小次郎様を呼んでこよう」
「え、ほんと?」
と、つい口走った。すぐに言い直す。
「ありがとう存じます」
「で、そちの名は?」
「あ、わたし?えーと、おきえ・・・でございます」
「おきえとな、あい、わかった」
その侍は表向きの廊下を足早に歩いていった。
このままでは目立つので、台所へ行く境の間で待つことにした。
夕方なので、侍が行き来している。
すぐにさっきの侍が戻ってきた。雪江を探してキョロキョロしていた。
「お侍さま」
「お、そこにおったのか。小次郎様はお急ぎでござるぞ、用むきは速やかに伝えよ」
「はい」
小次郎はかなり立派な身なりをしていた。袴なんて、糊がきいていてぱりぱりっぽい。別人のようにすました顔をしていた。
「なんじゃ、そのほうか。雪江様の言付けをということだが、・・・・」
雪江が少し顔をあげた。目がばっちり合う。
平然と偉そうにしていた小次郎の顔が変わっていく。どうやら雪江だと気づいたらしい。雪江はゆっくりと顔を上げて、にた~と笑ってみた。
「ゆっ、雪江様」
大声を上げるが、小次郎は自分で自分の口を塞いだ。さっきの侍が何事かと振り返る。
「大丈夫、大丈夫」
と、手を振ると、怪訝そうな顔をして行ってしまった。
小次郎は声をひそめて、
「雪江様、なにをしておられるのですか。それにこの格好は・・・・。ああ、おかしいと思った」
「ちょっと、そんなことはどうでもいいから、奥向きから節子さんを呼び出してほしいのよ」
「は? 姉上の乳母だった、あの節子殿を・・・・・」
あからさまに苦手だという顔をする。他のことではポーカーフェイスでいられるくせに、どうしてこういう時だけ素直に表現するのだろう。
「私が部屋へ戻るにはそれしかないの」
「まったく、また、何をしでかしたのでございますか」
「またって言った? ねえ、またって」
「あ、いえ」
「そんなことを言ってる場合じゃないの。いいから早く節子さんを表向きに呼び出して。そして、私に打ち掛けをお初に持ってこさせてよ。この姿じゃまずいでしょ」
「なんと言って呼び出せばよいのでございますか」
泣きそうな顔になる小次郎。
「そんなの知らないわよ。適当に言えばいいでしょ。早く」
かなり無責任ないいようである。
小次郎には迷惑をかけるが、表向きで頼れるのは彼しか思いつかないのだ。龍之介にバレたらまた、叱られる。
しぶしぶ、小次郎は奥向き方面へ行く。その間、雪江は人目につかないようにしていた。
小次郎は意外と早く戻ってきた。奥女中を捕まえて、伝言を頼んだらしい。
「雪江様、今、節子殿が参ります。そして、お初が打ち掛けを持ってきます故」
「ありがとう。小次郎さん」
「まったく・・・・・雪江様は姫様になられて、大人しくしていると安心しておりましたが・・・」
こんな時に説教かよとうんざりする雪江。
小次郎の後ろをみて、
「あ、節子さんだ」
と、言った。
「えっ」
小次郎があわてて振り返るが、誰もいない。
「冗談よ。お説教はまた今度ね。私、中屋敷へ移ったらそこにお絹を呼ぶつもり。小次郎さんもどうするか考えといて」
「はあ?」
小次郎は訳がわからないとばかりにはぐらかす。
「知ってるのよ。お絹の赤ちゃんの父親、小次郎さんでしょ」
「あ、そ、それは・・・・」
「やばい」
本当に節子が現れた。