奥医の登場
朝、雪江はまだ暗いうちから目が醒めていた。
スースーと気持ちよさそうに寝息をたてている龍之介の横顔を眺めていたのだ。
目覚めると横に龍之介がいる。そんな風景が珍しくて、うれしくて。もうすぐ、それが当たり前になるのだ。
二十一世紀では、高校生が結婚することはそう多いことではない。好きは好きでも、結婚するにはまだ早いと思う。
だが、この江戸時代では人の寿命もそう長くはない。普通、大病もしないで寿命を迎えるとしたら、平均六十歳くらいだという。ただし、赤ちゃんから幼児の死亡率が高く、流行り病も人の命を奪う。だから総合した平均寿命を割り出すと、かなり若くして死亡する数字になってる。
さらに、女性の出産の期間も狭まる。
将軍の正室は、「お褥ごめん」と言って、三十歳になると将軍とのお褥を断ることができた。反対に言うと、三十歳過ぎてもお褥を断念しないと好色だと非難されるということだ。それが正式な妻であってもだ。
将軍には、若い側室を迎え入れればいいので、それほど差し支えなかったそうだ。
正室が好色かどうかは別としても、高齢出産を避けるためと考えられている。ただでさえ、生命の危険を伴う出産に、年齢が増せば妊娠中毒症の危険率は高くなるから。
雪江も郷に入れば郷に従えで、周りの流れに沿ってやっていこうと思っている。元々はこの江戸時代に生まれるはずだったのだから。
やがて、龍之介が伸びをして、目を開けた。雪江と目が合うとにっこり笑った。やはり好きな人と一緒にいられることは幸せだった。
一緒に朝食をとると、龍之介は表向きへ戻っていった。
二人だけのひと時なのに、あまり話せなかった。常に人がいて、聞かれているかと思うと話したいことが思うように話せない。
龍之介も同じ気持ちなのだろう。時々雪江を見ては何か言いたそうにしていたが、当たり障りのない会話をして引きあげていった。
祝言をあげてもこんなことがずっと続くのだろうか。龍之介には、皆をやめさせるなと言ったけど、本当にこの状況はつらい。
いや、噂をする張本人を見つければ、なんとか落ち着くことだろう。早急に探し出さなければならない。でも、どうやって?
忙しそうにしているお秋をやっと、誰もいない所で捕まえた。昨夜の噂を聞くためだ。
お秋は雪江を見るとさっと目をそらした。それだけでかなりひどいことが言われていたと推測される。
朝もかなり早くから、台所の女中たちがキャーキャー言っていたらしい。
「初夜とは思えないほど、バタバタと音をたてて楽しんでいたとのことでございます。後はもう聞くに堪えられず、その場を去りました。・・・・申し訳ございません」
お秋のせいではないのに、ぺこりと頭を下げて逃げるように走り去っていった。
その噂からはっきりとわかったことがあった。やはりその本人は聞き耳をたてているだけだ。座敷の中をのぞいているわけではなかった。あのバタバタは雪江が龍之介を襲おうとして倒れた音。熱烈に燃えての行為ではないからだ。
その事実にホッとし、反対に怒りも湧いてきた。
どうすればいいのか。
ボーッと考え事をしている間に、お初が髪を結ってくれた。つけ毛をして、かんざしも付けてくれたから、少しは姫っぽく見える。
節子が入ってきた。
「今日は、奥医の杉原さまがいらしております。姫様の御診察をなさりたいとのことにございますが」
「医者? どうして? 私、どこも具合は悪くないけど」
「お加減が悪くならないように、診ていただくのでございます」
「ふーん」
なるほど、健康診断ということなのだろう。
奥医師ということは、すなわち雪江の担当医となる。雪江は加藤家の玄庵を思い出していた。あの人ならいいのに、と思った。
座敷にいたのは、恰幅のいい剃髪の中年医師と二十代前半くらいの若い医師の二人だった。二人とも平伏して、雪江を迎えた。
こういう状況にまだテレを感じる。まだまだ慣れない。
「雪江です。面を・・・」
と、口ごもってしまう。
中年の方が顔を上げて口を開いた。目がぎょろりとして、ダルマのようだ。
「お初にお目にかかります。わたくし、このほど奥医師となりました杉原長盛と申します。こちらは助手の成瀬利次にございます」
杉原はにこやかだが、成瀬は緊張しているのか表情は硬い。
「では早速ですが、お手を・・・・・・失礼いたします。お楽になさってください」
杉原は雪江に近づき、白い布を雪江の手にかぶせて布越しに脈拍を測っていた。身分の高い人には直接触れては失礼にあたるからなのだろう。特に相手が姫や正室ともなると、男性の医師に断固として触れさせないこともあるという。
しかし、雪江は思った疑問をそのまま口にした。
「ね、そんなやり方で脈拍がわかるの?」
杉原の浮かべていた笑みは一瞬消え、別人の顔になった。若い成瀬も雪江の言葉に思わず顔を上げ、雪江をみた。
杉原はすぐにまた元の笑顔に戻る。
「おやおや、姫様は・・・・・意外な事をご存じでございますなぁ。それは・・・・直接手を添えたほうがよくわかりますが、姫様はご健康のご様子、布越しでも十分に拍動が伝わっておりました」
この禿げ、けっこう曲者っぽい。本心を気持ち悪い笑顔で隠そうとしている。
急に桐野の姫として迎えられた雪江に、頭を下げるのが苦痛なのかもしれない。健康そうに見えなかったら、直接触れるのか?
それに雪江に対しての口調が気にくわなかった。まるで、小さな子供にいい含めるような言い方をしている。雪江が武家育ちではないから、作法も言葉づかいもなってないと知っているのだろう。上から目線のようで嫌だった。
そう考え始めたら、杉原の顔も、仕草も、なにもかもが気持ち悪く感じる。こんなのに診察してもらうのかと思ったら鳥肌がたってきそうだった。こいつ、密かにタコ入道って呼んでやる。
絶対に意地でも病気になるまいと思ってしまう。
「少しづつ、お体のことをお尋ねしたいと思っておりますが・・・・・」
杉原がにこやかに、一瞬だが雪江の全身をなめるように見た。
う~、キモイ。
「月のものはいかがですかな」
杉原の言う「月のもの」が、生理のことだとわかるのに少し時間がかかった。
早速、そんな質問が来るとは思わなかった。普通は病歴とか今の体調はどうかと尋ねるだろうがっ。こんな奴に答えたくない、こんな奴にと嫌悪感をむき出しにする。
すると、杉原は雪江がわからないのかと思ったらしく、
「これからは身ごもるための大事なことでございます故、お答えいただきませぬといろいろ差支えが生じまする。そうそう、昨夜のお褥はするするとお済みで誠によろしゅうございました」
と、またニンマリ笑った。
その笑顔にまず、ぞ~とした。雪江にはその言葉の意味がわからなかった。
杉原の言葉の意味を反芻して理解したのは、次の言葉からだった。
「若いお二人故、このご様子ではすぐにでもおめでたいことになりましょう」
お褥はわかった。しかし、するすると・・・・なんだって? お済みでよろしゅうございました、だと。なんで、そんなこと、こんなキモイ奴に言われなきゃいけないのよ。
それに、もう昨夜のことが奥医に伝わっているのだ。どたばたしていたということが、若い二人というところにひっかけている。
よく考えると奥医ならば、当然知っていなければならない情報なのだが、女中たちの噂話といい、このキモイ奥医の言い方といい、雪江の我慢は限界を越えていた。
懐から扇子を抜き、ぴしゃりと畳に叩きつけた。
ものすごく小気味のいい音が座敷に響いた。まるで寄席の始まりを告げる拍子木のように。
その音に、座敷の隅に控えている節子とお初がびくっとし、杉原と成瀬がハッとした。
「あのさ、黙って聞いていればいい気になって、キモイ。このタコ入道。そのニタニタ、やめて。昨夜のお褥がどうのこうのって、余計なお世話だってぇの。するするかなんだか知らないけど、冗談じゃないわよ。まだ、祝言も挙げていないのに、なんでそんなことを言われなきゃいけないの? いくら医者でもプライベートなことはもっと慎んでほしいわよ。小娘だからってバカにすんじゃないわよ。何もかもそっちの都合で考えるなっ」
雪江はものすごい早口でまくしたてた。すぐに品がないと非難されそうなことを言ってしまった。自己嫌悪にかられる。しかし、雪江の怒りは収まらない。
もう一度、扇子を畳にぴしゃりと叩きつけた。
お初がその音に泣きそうな表情になっていた。二人の医師たちは、雪江の態度の変化に驚いた様子、ただ、節子だけはポーカーフェイスで座っていた。
「わたくしの言動になにか失礼がございましたようで、誠にご無礼をお許しください。しかし、姫様のお言葉の中に、異人の言葉が使われていたかと存じますが・・・・」
なんだ、そっちか。確かにプライベートと言ってしまった。なるべくカタカナ語は使わないようにしていたのに。
「姫様は異人の言葉を解するのでございますか?」
もう杉原はニタニタ笑ってはいなかった。なんだ、こいつ。
「英語なら少しは・・・・勉強したから読むこと、書くことはできます。話すのはちょっとヤバイかも」
この時代は蘭学、つまりオランダ語が主流のはず。残念ながらそっちはちょっと無理。
「英語を解するとは・・・・。さすがでございます。お見それ致しました」
深々と平伏し、成瀬もなにがなんだかわからないまま、あわてて平伏する。
杉原が次に顔を上げたときは、さっきまでの締りのない表情ではなく、全く別人としか思われないような顔になっていた。
やっぱ、こいつ、只者ではない。