雪江の戸惑いと怒り
雪江は、ヒノキのお風呂に入ってくつろいでいた。ここだけが唯一のリラックスできる場所だ。
お君という湯殿番がいるが、自分で自分の体は洗えるからと閉めだしてある。
初めは、自分の仕事が無くなると言って、涙を浮かべていたので、最後に背中と髪を洗う時に手伝ってくれと言ってある。
江戸時代ではそう頻繁に髪を洗わない。
町人たちが行く湯屋では洗髪禁止になっている。貴重な水の節約のためらしい。それで、髪は自宅で湯を沸かし、タライで洗うことになる。だから、湯屋には一日二回くらい入る江戸ッ子も、髪だけは平均にして月一、二回がいいとこだろう。
それではどうやって髪を美しく見せているのかと言うと、椿油を付けて目の細かい櫛で丁寧に梳かし、汚れを落としているそうだ。
それが常識なのに、雪江は毎日の入浴で髪を洗う。どうせ、雪江一人のためだけにあるお風呂の湯なのだ。むしろ、さらりと入るだけのほうが無駄と言える。
もちろん、シャンプー・リンスもない。石鹸もない。
雪江は裕子たちがやっているように、椿油の搾りかすを髪の毛にこすりつけて、頭皮をマッサージするようにしている。他にもふのり(海岸近くの岩に生えるのり・これを煮溶かして糊状にしたもので、布の洗い張りに使用される)や、うどん粉などを使っていたそうだ。
体を洗うのは、二十一世紀でも見直されている米ぬかを使う。
初めは、泡だたないのできれいになっているのか疑問だったが、余計な皮膚の油分を取られないからなのか、肌がつるつるしてきているようだ。
大体洗い終わったので、湯巻きを着てお君を呼ぶ。
湯巻きは、貴人が入浴する時に着る浴衣のような衣だ。湯文字という腰巻なども使用されていたらしい。身分の高い人はみだりに肌を見せてはいけないという。
一般的な湯屋でも男性はふんどし、女性はこの湯文字をまとって入っていたそうだ。
ちょっと体格のいいお君は、ニコニコ顔でタスキ掛けをし、着物の裾も絡げて白いむっちりとした足を見せていた。自分も湯をかぶるため、ある程度はその格好もうなづける。
しかし、女の雪江でもその姿はまぶしかった。
その姿を見て、雪江の頭にある考えが過ぎった。
お君に尋ねる。
「ね、龍之介・・・じゃなくて、正和様にも湯殿番がいて体を洗うわけ?」
お君は、雪江から話しかけてくれたことがうれしくて、湯を掛けながら弾むように返事をする。少し乱れた胸元から豊満な胸を隠しているサラシが見えた。
「はい、もちろんでございます。小姓さんがされるお大名家もございますが、正和様には湯殿番がおられます」
「フ~ン」
龍之介も湯殿番に体を洗ってもらうのか。同じように湯巻きを着ているにしても、なんかおもしろくない。それどころか、お君を見ていると、なんだかめらめらと嫉妬の炎が燃え上がった。
こんなに若くて足や胸を露出した女中に体を洗ってもらうなんて・・・・。
そう言えば、歴代将軍の中に、生母が身分の低い女性、確か湯殿番と言う人がいたような気がする。その風呂場で二人、裸の関係になってしまったなんて、そんなこと許せない。
雪江は勝手に考えて、勝手に怒っていた。
湯から上がると、お初に湯上りの着流しを着せてもらい、自分の居間に戻った。
居間ではなぜか節子が怖い顔をして、小姓たちに指示を出している。なにやら、いつもの雰囲気と違う。
節子は雪江を見るなり、声を荒げる。
「雪江様、また髪をお洗いになられたのでございますか?」
舌うちでもしかねない様子だ。
「ああ、早く乾かさなければ・・・・。今夜は、こちらの夜着に着替えていただきます。そして、お化粧もしなくては、ああ、髪をなんとか・・・・、お初っ」
お初もなにがなんだかわからずに、おろおろしていた。
「ね、一体どうしたのよ。普段から化粧なんかしないのに、なんで寝る前にするのよ」
節子もその矛盾に気づく。雪江は普段から化粧はしない。あの白塗りの素材には鉛が入っているので、それを吸い込むと体に支障が出ると知っているからだ。
化粧するなら、二十一世紀から持ってきたアイメイクくらいだ。
「そうでございました。それならば結構です。それよりもその髪をなんとか・・・・」
お初がつるつるの絹の白い着流しを着せてくれた。別の女中が、雪江の濡れた髪を布で包み、水気を吸い取っている。
お支度が整いましたら、ご寝所へご案内しますので」
「え、どうして? いつもの私の寝所じゃないの?」
「今宵は別のご寝所でお休みいただきます。今、急いで用意をさせております」
有無を言わず、従えと言わんばかりだ。
落ち着かない節子の様子に、雪江はただ、言われた通りにするほかなかった。
やがて、節子とお初に連れていかれて、もっと奥にある特別室のようなご寝所へ入った。
襖も行燈も、雪江の部屋のものよりずっと高級感がある。大きな金屏風も立っている。
しかも、そのご寝所には二組の布団が敷かれていた。
それを見た雪江は、初めてなにが起こっているのか気づいた。
まさか、まさか・・・・。これって、一番最初にここに連れられてきたあの座敷よね。
節子を見る。
「ね、なんで布団が二組も敷かれてんの?ね、今夜、もしかしたら龍之介さんが来るの?」
「若様のことは正和様とお呼びくださいませ」
節子は目を伏せて座っている。
雪江の質問に答えないつもりらしい。それにいらっとして、もう一度繰り返す。
「ね、その、正和様がここへ来るの?」
「それは・・・・申し上げられませぬ」
「へっ、なんで? ここまでして、なんで私に言えないの? おかしいじゃない」
「念のためにございます。そして、これを・・・・一応全部に目を通しておかれた方がよろしいかと存じます」
節子は、三冊の書物を雪江に差し出した。
「え、これを? 今からこれを読むの? なんで?」
毛筆書きの書物を読むのはまだまだ苦手な雪江だ。それを三冊も読めと言われて、悲鳴に近い声を出した。
節子は雪江の質問には一切答えず、深々と礼をし、
「わたくしとお初は念のため、隣の控えの間におりますので」
と言って、出ていった。
なにが念のためって、なんなのだろうか。どうして龍之介がくると言わないのだろう。そして、なぜ、こんなものを今から読まなければいけないんだ。
半分ふてくされて、渡された書物をパラパラとめくった。
「え?・・・・・マンガ?」
人の絵が描いてあったからだ。しかし、それはよく見ると・・・・・それが何だか雪江が認識した時、思わずそれを放り投げてしまった。
それは、男女の絡みの絵だった。
「エロ本」
やはり、龍之介のお渡りはあるのだ。それなら、なぜそうと言ってくれないのか。
エロ本に赤面しながらも、なにも言わずに隣の間にいる節子とお初に、そして龍之介にも怒りを向けていた。
新しい夜着、立派なご寝所、二組の布団、果てにはエロ本まで渡されて、これからなにが起こるのか、とんでもないアホでもわかる。
江戸時代、こうした春画(雪江に言わせるとエロ本)は、笑い絵とも言われていたそうだ。春画を見ると、しかめっ面をした人でもにんまりと笑い顔になるかららしい。
大事に育てた娘を、早ければ十五、六歳で嫁に出す大名もある。そんな娘の輿入れの前に、あまり露骨ではない春画を見せて、俄か性教育をしたそうだ。
その書物には、
{此道、遊学のためにはあらず、子孫繁栄の教えとして、世におこなふもの也}
と書いてあったらしい。
雪江は立腹しながらも、春画をパラパラとめくる。簡単に目は通した。
隣の控えの間にいる節子に向って声を張り上げる。
「節子さん、正和様はいつ来るんですか?」
低い声がする。
「申し上げられませぬ」
この場におよんでもまだ、龍之介が来るとはいわない節子。恐らく雪江には言うなと口止めされているのだろう。
そっちがその気なら、こっちはこっちでやってやる。
ごそごそと準備し始める。
それが整うと、静かに龍之介が来るのを待った。二十分、いや三十分は待っただろうか。やがて、静まり返った屋敷内に、次々と襖の開く音がして、人が畳の上を歩く音が近づいてきた。
そして、小姓の声が掛った。
「正和様のおなりでございます」
「は~い」
雪江は明るい声で返事をした。
Peace of I
読んで頂いて、どうもありがとうございます。