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雪江の父  龍之介 (完結後に加筆しています)

 龍之介は、目の前で兄と雪江が涙しながら抱き合っているのを、茫然として見ていた。なんとも不思議な光景だった。


 ついさっきまでは、この藩主の兄が雪江を気に入ってくれるかどうか、心配でしかたがなかったのだ。もしも、このような武家のしきたりも知らぬ娘は受け入れられぬ、と言われてしまったら、と気が気ではなかった。

 まさか、雪江が兄の娘だったとは想像もつかないことだった。


 龍之介は、桐野家と加藤家の秘密を、兄から聞かされていた。双子として生まれ、綾という侍女が龍之介の養育係で一緒にきていたこと、龍之介をさらおうとして、加藤家の手の者が忍び込み、乱闘になったこともだ。


 そして、何かの因縁なのか、小次郎と共に長屋を去った後、雪江が加藤家の次男にさらわれたと聞いた。その時は生きた心地がしなかった。一度ならず、二度まで加藤家に振り回されていた。

 これはすべて本当に偶然なのかと誰かに訴えかけたかった。しかし、雪江をこうして無事に返してくれたのも同じ加藤家だった。


 正重は、泣いている雪江をもう一度抱きしめてからその手を取り、雪江を龍之介の横に座らせた。

 雪江は涙でグショグショだったが、龍之介の顔を見てにっこり笑った。そして、龍之介の手を取り、ギュッと握った。

 柔らかな手の感触を懐かしく思う。龍之介も皆の前だが、雪江の手を握り返していた。

 家老たちもそれに気づいていたが、見て見ぬふりをしている。正重はそんな二人をにこやかに見つめていた。


「皆の者、改めて言うぞ。ここにいる雪江はわしの娘じゃ、そしてこの正和の正室となるぞ」

 皆がその言葉に平伏した。


 側室ではなく、正室となると言われ、雪江はキョトンとしていた。


「実は、雪江と言う名はわしがつけたのじゃ」

「えっ、でも、私が生まれた時は・・・・」

 正重は、雪江を見る。


「綾はそなたが生まれる前から、腹の赤子はおなごだと言い張っていた。いや、あれはそう決めていたのだ。側室が先に男児を産んでいたら、のちに迎えることになる正室がやりにくかろうと思っていたのだろう」


「綾様らしい・・・・」

 それを聞いて孝子がボソリと言う。


「わしは綾の言うとおりに姫の名を考えた。冬の寒い時に生まれる娘。雪のようにけがれのない美しい娘となるよう、雪江としたのじゃ」


 雪江が感嘆して、長い息を洩らす。また涙が出て来たらしい。

「そして成長したら、この龍之介と一緒にさせようと言ったのも、このわしなのだ」

「兄上・・・・」

 雪江が握っていた龍之介の手を、さらに力を込めて握ってきた。

 


「すると正和様は、雪江様を殿のご息女と知らずに出会い、その素性さえも知らないまま、側室として迎えるつもりであらせられましたか」

 家老衆の一人がそう言った。

「そう、そういうことになる」

 皆が驚きの声を出す。龍之介でさえ、信じられない気持ちだった。


 やはり、あの時突然、雪江が現れたのは龍之介を救うため、そして雪江はこの時代で暮らすために舞い戻って来たのだと実感した。


 正重はパンパンと手を叩く。

 すると、後ろの襖が開き、小姓が顔を出した。正重が何か耳打ちする。小姓はすぐに引っ込み、やがて一枚の大きな絵を持ってきた。


 画板にしっかり貼られている畳半分以上もある大きさの絵だ。

「それを一同に見せよ」

 小姓は言われるままにその絵を向けた。

 油絵だった。


「綾と雪江だ。わしが描いた」

 龍之介も初めて見る絵だ。柔らかな笑顔の女性がまだ小さな赤子を抱いている絵だった。それを見て、雪江があわてて懐から小さな同じ絵を取り出した。

「なんで? どうして写真と同じ絵がここに・・・・」


 正重は雪江が手にしている写真に気づいた。

「おお、そなたもそれを持っているのか」

 正重は自分の懐から、色あせてヨレヨレになっている雪江と同じ写真を取りだした。

「これが元で、それを模写したのだよ」


「家老たちは知っていよう。身重だった綾が池に落ちていなくなった何日か後に、池に浮かんでいた時のことを」

 家老たちは正重の言葉に、お互いの顔を見合わせてうなづいていた。


「池の水を全部さらっても綾の姿はなかった。それなのに数日後には綾の変わり果てた姿があった。綾は奇妙な着物を着せられて、その手にこの絵を大事そうに持っていた」


 兄は絵が得意だった。西洋風の絵を習っていると聞いた。それがこの絵なのだ。日本画と違い、迫力がある。


「綾の腹にはもう子はいなかった。医者は腹を切って子を取りだし、また縫い合わせてあると申した。こうしてこの絵の綾は子を抱いているのだ。子は、雪江はどこかで生きていると思っていた」


 正重は龍之介を見て笑う。

「龍之介がいち早く雪江を見つけ、妻にしようと選んでおったとは・・・・この正重も考えもしなかったな。これもすべて運命さだめよ」


 正重の言葉が心にしみた。まさしく、こうなるべき運命だったとしか考えられなかった。




 その日の晩。

 正重と雪江、そして龍之介と共に、ずっと語り合っていた。

 雪江は自分の世界での話をし、正重は雪江の母、綾のことを語っていた。そんな二人を眺めながら、龍之介はふと、自分の生母のことを思った。


 龍之介には母がいた。今まで誰に聞いても、目をそらして身罷ったとだけしか答えてくれなかった母が今も生きていた。もちろん、自分が双子の一人だったということも衝撃だった。その事情も今ならわかる。しかし、諦めていた母の存在をどう受け止めていいのかわからなくなっていた。


 目の前の正重と雪江を見る。この父娘は、今日、初めて顔を合わせたのだ。そんなに簡単に娘として、父として受け入れられるのか。

 龍之介は、もし、生母が目の前に現れても、素直にその腕に飛び込んでは行かれないだろうと思う。幼き頃なら、まだ素直になれたと思うが、もうすでに母はいないと自分なりに断ち切った存在だった。


 周りの人には、皆、母がいた。身分も関係なく、たとえ近くにいなくてもその母という存在がいる。しかし、龍之介にはどんな人で、どんなふうに亡くなったのかを全く語る人がいなかったのだ。子供ながらに、それには言えない事情があると気がついた龍之介は、母という存在を自分の心の奥底に閉じ込めていた。


 それを今更、壊してまで生母という存在を認めることは絶対にできない。向こうも龍之介のことを息子とは思ってはいないだろう。そうだ、産まれたばかりの龍之介を手放したのだから。その時、既に母でも子でもない。親子の縁は切れたのだ。


 そして、あの事件の全容を知った。母の弟、つまり叔父がお家のためにやったことだった。もしも母が、龍之介を手放したことを後悔して、取り戻そうとしたのだったら、多少なりとも嬉しく思ったかもしれない。


 龍之介は自分の中に、このようなドロドロしたどす黒いものがあったとは気づかなかった。

 酒を煽る。自分でも嫌な部分だった。それを吹き飛ばすかのように、そして忘れようと再び、酒を飲んでいた。それでも酔いは訪れてはこなかった。

 


「さあ、夜も更けた。奥向きも二人が来るのを待っているはずだ。寝るとしよう」

 そう正重が切り出す。

「え? 奥向きってなに?」

 

 今更ながら、雪江の言葉遣いにギョッとする。いくら自分の父でも一国を治める殿だ。言葉遣いに気をつけよと思わず注意したくなった。しかし、兄は全く気にしていない様子で、幼子を諭すかのように言った。


「ここの奥向きは雪江の居館。今夜からそこに住むことになる。そこは貴世(正重の亡くなった正室)が身罷った後、ほとんど誰もいない状態だった。しかし、このほど龍之介が江戸にいて、おなごと一緒にいるという報告を得た時、人を雇い、いつでも奥向きが使えるように整えていたのだ」


「兄上、どのようなおなごでも、でしょうか」

 正重はにっこり笑う。

「わしは、龍之介の好いたおなごをそのまま受け入れるつもりだった」

 そう言って、兄は立ち上がる。

 雪江の母も、正重が心から愛した人だったからだろう。


「あ、しかし、兄上。今宵は拙者はこちらに、中奥の自分の寝所に・・・・。我らはその・・・・」

 まだ、契りを結んではおりませぬ故、とそう言いかけていた。

「なんで? 龍之介さんのお部屋もあっちにあるんでしょ。一人じゃ心細い。一緒にいこっ」

 雪江はそう無邪気に言った。


 その、ちぐはぐな会話に兄が足を止めた。

「いや、わしは・・・・今宵はこちらに寝る」

「なんで、別にいいじゃん。奥向きには部屋が一つしかないの?」


 雪江にはまったく奥向きのことがわかっていなかった。長屋ではないのだから、奥向きに部屋が一つしかないわけがない。

「雪江、そなたはわしが奥向きに行く意味を知らぬのだ」

 兄が見ていた。

「なにそれっ」


「なるほど。正和はまだ、雪江に手を出してはおらぬのだな」

 龍之介の顔に火がつきそうになる。

「兄上っ。言葉が過ぎますぞっ」

 正重は愉快そうに笑う。


「まあ、よい。奥向きに二人の寝所を整えさせたのはこちらの早合点だった。すまぬ。しかし、今宵はそのまま休むがよい。今まで二人は一緒に暮らしていたと聞いたのでな」



「ああ、奥向きって・・・・大奥みたいなとこなのね。正室とかが住むとこ」

 それらの会話でやっと雪江がわかった様子だった。

「長屋では常に人が周りにおりました」

 龍之介は言い訳のように言った。


「そうか。二人とも身持ちのよいこと。正重はとやかく言うつもりはない」

「ははっ」


 兄が退室した。龍之介が頭を下げる。雪江もきょとん年ながらも同じように下げた。

 そんな雪江と目があった。


 さて、どうしたものか。龍之介は奥向きが苦手だった。あたりまえだが、女ばかりいるからだ。奥向きはすでに龍之介がそちらへ寝ることを前提に用意をしている。皆が、朝からそのための準備を整えていたに違いなかった。


 最初は龍之介の側室を迎えるつもりだった。それが一変していた。兄の娘とわかり、雪江は正室になった。奥向きの女中は嬉々としていることだろう。きちんとした主が入るのだ。


 雪江は不安そうに龍之介を見ていた。それは二つの意味があると思う。

 一つは、一人で見知らぬ場所に放り出され、眠りたくはない。もう一つは、一緒に寝所へ行ったなら、龍之介が手を出してくるのではないかという不安。

 今まで、長屋ではほんのわずかな時しか二人きりにはならなかった。常に誰かがいた。そんな雰囲気になりかけたこともあったが、あの薄い壁の長屋では、その一歩がなかなか踏み出せなかった。


 目の前の雪江は、兄が部屋を出ていったことで、今までの緊張を解いていた。足が痺れたらしく、脚をさらけ出して撫でていた。いつもの雪江がいた。

 その様子にクスリと笑う。龍之介も疲れていた。


「さあ、雪江、奥向きへ参ろう」

とだけ言った。

「うん」

 雪江はそのことをどう受け止めるか。いつもより元気がなく、顔の表情が引き締まっていた。

 龍之介には、今夜雪江に手を出すつもりはなかった。しかし、雪江のこの神妙な顔を見て、もう少しこの緊張感を保たせようと意地悪なことを考えていた。


 奥向きに入る。

 すぐさま、節子が出迎える。龍之介たちが寝静まらなければ、奥女中たちも休むことができないのだ。

「正和さまはこちらへ、雪江様はあちらの方でお支度を」


 見ると雪江は小さな声で「はい」と言い、節子の指す方へ足を向けていた。いつもの勢いはなく、まるで別人だった。少し薬が効き過ぎたか、と思う。あまり雪江を追い詰めると、後が怖い。

 しかし、節子や他の女中の手前、何も言えず、そのまま雪江は奥の部屋へ消えていった。


 龍之介は夜着に着替え、奥女中が呼びに来るまで待つ。雪江の準備が整い次第、寝所に呼ばれることになっていた。しばらくはかかることだろう。雪江の準備の方が大ごとだからだ。


 龍之介も女人にまったく興味がないわけではなかった。それなりに美しい人を見ればそちらに視線が動く。それに何度か長屋でも、雪江といい雰囲気になったこともあった。長屋でなく、二人きりの空間で会ったら、もしかすると自然にその先まで進んでいたかもしれなかった。そうなるのもそう遠くないと思っていた矢先、龍之介が桐野の屋敷に帰ることになってしまった。


 女人を抱くことは、今までにも経験はあった。しかし、それはかなり昔になる。まだ、声変わりをしたばかりの頃、ある村で知り合った年上の娘とそうなった。陣屋内の女中たちには手を出そうとも思わなかった。


 小次郎から、家老たちが龍之介のことを心配しているということも聞いていた。もしも、おなごに興味があるのならば、つまり、抱きたいのなら、それなりの女人を用意するということも言われていた。興味がないわけではない。しかし、陣屋の狭い世界の中で用意された人とそうなる、ということが受け入れられず、小次郎にきっぱりと断りを入れていた。


 村の、その娘と会ったのは偶然だった。一目で龍之介は惹かれていた。その娘、会いたさに理由をつけて何度か通った。その時ほど侍の身分に産まれたことを呪ったことはない。自由に会えないからだった。夢中になっていた。その娘とは一度だけ肌を重ね合った。しかし、その後、苦い思い出がつきまとう結果となる。それ以来、龍之介は剣の稽古しか関心を寄せなくなっていた。


「正和様、雪江様のご支度が整いましてございます。ご寝所までご案内いたします」

 その侍女の声に我に返った。

 侍女の薄暗い灯りを頼りに長い廊下を歩く。その突き当りの座敷に入った。


 そこには緊張でガチガチになった白い夜着を着せられた雪江が平伏していた。侍女が灯りを置く。

 雪江らしくないが、龍之介が部屋へ入ってきたら、そうしろと言われたのだろう。

「もうよい。わしたちは今宵、疲れている。このまま床につく故、のう、雪江」

 雪江が龍之介を見た。安心した様子だ。

「皆の者、下がってよいぞ」


 侍女はハッとして顔をあげた。たぶん、龍之介と雪江が寝静まるまで、廊下で待機せよと仰せつかっていたのだろう。

「節子にも伝えよ。今宵はここで寝るだけだと。わしは明日の朝は早くに中奥へ戻る。あちらで朝餉、身支度は済ませるとな」

「かしこまりました」

 侍女は再び頭を下げ、そう言って襖を閉めた。


「さあ、もう寝よう。わしはまだ、そなたには手を出さぬ。あまりにも急なこと故、正直わしも戸惑っておる。さあ」

 そういうと雪江もうなづいて布団に入った。

 初めて二人きりで枕を並べて横たわる。これからはゆっくりとこの距離を縮めていけばよいのだ。もう雪江はどこにも行かぬ。二人の将来は約束されているのだから。


しつこいようですが、「江戸浪漫・望んだ約束」ではこの正重と綾の話が詳しく書かれています。

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