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雪江、帰る

登場人物が、気分の悪くなる表現があります。

ご了承ください。


 拉致されてからの三日間、雪江にとっては緊張の連続でくたくたに疲れていた。


 雪江は加藤家を出る時、豪華な着物は返して自分のきていたものに着替え、髪形も全部くずし、元のポニーテールにした。

 重いよろいでも脱いだような開放感だった。

 駕籠に揺られながら夜道を行く間、雪江は本当に姫としての生活を選ぶのかどうか迷っていた。


 旅籠あかりでは、みんなが待っていてくれた。関田屋こと浅倉も久美子も、裕子と徳田は料亭の忙しい合間に顔を出してくれた。

 拉致されたことは他の女中たちは知らない。皆はこの三日間を、雪江が大名屋敷に行って、行儀見習いとして働いたことになっている。急に先方からくるように言われて連絡がうまくいかず、いなくなったという騒ぎになったということになっていた。しかも、奉公があまりにもつらくて逃げかえってきたという余計なおヒレもついている。


「先生、今夜のところは、ここのベッドルームに寝かせてよ。もうくたくたなの」

 浅倉と久美子は顔を見合わせる。

「それがね、先客がいるんだけど」

「えっ、ベッドルームに?」

 

 旅籠の事務所の奥に作られた部屋には、畳ベッドがあった。畳を積み重ねただけなのだが、雪江は気に入っている。他の女中たちは、まるで牢名主のようだと不評だが。


「雪江がいない間、別のちょっとした騒ぎがあってな。お絹ちゃんが寝てるんだ」

「えっ、お絹が?」

「そう、私がここに緊急入院させたの」

「入院って、どっか悪いの? 大丈夫なの?」

 久美子は黙ってしまった。言っていいものかどうか思案しているようだった。

「実は・・・・つわりがひどくてね」

「え、お絹がつわり?」

 雪江は驚いたが、同時に「あっ」と思った。

 思い当たることがある。恐らく小次郎の子だ。そんなそぶりは全く見せなかったのに。


 久美子が入院までのことをかい摘んで話してくれた。


 雪江がさらわれる日の朝から、すでにお絹は具合が悪かったらしい。しかし、雪江にはそんな素振りをみせなかった。雪江が旅籠へ行ってから、横になっていたらしい。


 お絹の母親のお勝が、昼になっても顔をみせないことを不審に思って様子を見に来た。最初は風邪でも引いたのかと話していたが、朝から何も食べていないことを知ると大きな握り飯を持ってきてくれた。


 食欲はないが母親に言われた通りに起き上がり、お絹が握り飯を食べようとした時だった。突然の激しい吐き気を覚え、あわてて外へ飛び出した。しかし、朝から何も食べていないので吐くものは何もない。

 最近、いろんな臭いが鼻について、ずっとむかむかしているんだと力なく笑うお絹に、お勝は青ざめた顔で言った。

「お絹・・・・まさか、ややが? 誰の子だい?」


 ここから親子喧嘩になった。

 確かに身に覚えのあるお絹だが、頑として相手の名前を言わないのだ。お勝は、娘を孕まされて黙ってはいられない。相手の家へ怒鳴りこもうとしていた。

「子をどうするんだい」

「一人で産む」と返事をして、お勝に頬を殴られた。


「子育てを一人でやる苦労なんかわかるものか」

「やってみなきゃわからない」と、ものすごい言い合いだったらしい。

「勝手にしな」

と、母は言い残し、ぴしゃりと戸が閉まった。

 その晩、雪江が行方不明になったと長屋も大騒ぎになっていた。


 翌日、お勝が心配になり、そっと様子を見にいくと、お絹はぐったりとしていた。


 あれからずっとなにも口にしていないらしい。お勝があわてて何か食べさせようとしても受け付けない。水でさえ飲ませてもすぐに戻してしまい、お勝は泣きながら、関田屋へ助けを求めた。連絡を受けた久美子がすぐに様子を見に行った。


「妊娠初期の大事な時だし、一応、私の目の届くここへ緊急入院させることにしたの。ここならいつも誰かいるし、トイレもついているから、ふらふらと外へ出なくてもいいし」

「今は大丈夫なの?」


「そうね、熱中症に効くドリンクを作って少しづつ飲ませているけど、まだ飲みがたりないわね。この時代、脱水症状とか言ってもピンとこないし、どれだけシリアスなことかわからないから。本当は点滴をすると回復が早いんだけど」


 白湯に砂糖と塩を混ぜたドリンクが大きな急須に入っている。久美子はそれを持ってベッドルームのドアをノックする。返事はない。

「久美子です。開けるわよ」 


 寝ているお絹はちょっと見ないうちに、かなりやつれたようだった。久美子と一緒に入ってきた雪江を見て、笑いかけた。

 まるで別人だった。顔は青白くて目に光がない。まるで瀕死の重病人だった。

 久美子がドリンクを湯呑についで渡すが、お絹はほしくないと首を振った。


「少しづつ飲まないといけないの。お絹ちゃんの体には水分が必要なのよ」

「わかった。後で飲みます。そこへ置いといて」

 お絹はそう言って、背中を向けた。

 久美子は湯呑を持ったまま、諦めたようにため息をつく。こんな感じでなかなか飲まないということが分かった。

 今度は雪江が、滅多に出さないような優しい声で言った。

「ね、お絹。これ、飲んで。」

 お絹は振り向きもせずに言う。

「それ、いや。へんてこな味だし。腹がすいたら何か食べるから」


 つわりは普通、安定期に入るまで続く。今日明日、どうにかなるというものではない。

 祖父の病院にもこうした患者が入院したことがあった。

 つわりもひどいが、それを理由になにもしなくなるのだ。ずっと寝ていて、トイレに行くのも難色を示す。挙句の果てには点滴を一昼夜することになる。

 ある程度は安静が必要だが、寝たきりになることはないと祖父が言っていた。母親になる自覚を持たなければならない。

 この江戸には点滴はない。お絹は自分で何か口にしなければいけないのだ。


 雪江にいい考えが浮かんだ。す~と息を吸い込む。そして、お絹の耳元にそっと囁いた。他の人には聞こえない声で。


「言われたとおりにこれを飲まないと、父親が小次郎さんだってこと、言いふらすわよ」


 その一言でお絹の目は開かれ、起き上がった。

 顔には赤みがさした。その調子だ。今度は芝居がかった調子で大きな声を出す。

「くやしい、お絹に先を越された」

 皆が目を丸くして黙りこむ。

「初体験、絶対に私が先だと思ったのにィ」

 お絹の目に光が入った。力強いいつもの目だ。


「おやまあ、なんだってんだい。雪江はまだ、おぼこ(処女、子供)かい。あっはっは。笑っちゃうね」

 もういつものお絹の口調に戻っていた。

「うわあ、その言いぐさ、頭にくる」


 雪江にとっては軽い挑発のつもりだったが、完全にお絹にやり込められていた。

「あ~、いやだ、いやだ、子供は。雪江ももうちょっと色艶を身に付けた方がいいんじゃないのかい?そうじゃないと龍之介さんも手を出しにくいってことさ」

 キイイイイィと歯を食いしばる雪江。

「なんだ、雪江姉さん、まだ、おぼこか。おいらと一緒だ」

 急に末吉が現れて、よく状況を理解していないのに口を出すから、雪江の強力なゲンコツをもらったのは言うまでもない。


 お絹は湯呑を受け取って、コクンコクンと喉を鳴らして飲んでいく。

 雪江の言葉で、お絹が言うことを聞いている。久美子も浅倉も驚いていた。

「ほうら、喉が渇いているんじゃないの。今夜は私がそっちのベッドに寝るからね。ちゃんと言うことを聞かないとだめよ」

「わかった」

 お絹は大人しくうなづいた。

 久美子たちは苦笑しながら部屋を出る。元気が出たお絹に安心したのだろう。雪江がついていれば大丈夫だ。


 雪江とお絹は、久しぶりに枕を並べて寝ていた。

「どうして父親が小次郎さんだってわかったんだい?」


「う~ん、孝子さまがね、ちょっと普通の人には見えないものが見えるの。それで小次郎さんのまわりを赤ちゃんに宿る魂が飛び回っているって言ってたの。まさか、その相手がお絹だとは思わなかった」

 それを聞いて、お絹は自然と手が伸びて、お腹を撫でる。


「早くから胎児・・・お腹の赤ちゃんの体に入って温もりを感じている子もいれば、生まれる寸前まであちこち飛び回っている子もいるらしいよ。どちらも生まれてくることを楽しみにしているんだって」

「へ~え」

 お絹の表情が母親っぽくなる。


 まだまだつらい悪阻つわりの時期は、子供を身ごもった喜びを噛みしめるどころではない。 しかし、子供の魂が父親のまわりを飛び回っていたと聞いてうれしくなったらしい。

「私にはこの子がいる。この子がいつも一緒にいてくれるってわかったから、甘えてなんかいられない。具合が悪くても食べるし、言われた通りに飲むよ。この子のためにも」


「そうよ。悪阻つわりはね、安定期に入れば霧が晴れるようによくなるんだって」

 お絹はうれしそうにうなづいた。

「小次郎さん、私が子供を身ごもったこと、知ってるんだね」

「うん」


「でも、いいのさ。もう会わないだろうし」

「本当に一人で育てるの?」

「仕方がないさ、住む世界が違うんだ。私がお侍さんの妻に・・・・」

 お絹は首を振る。

「大丈夫さ。男だったら剣術を習わせる。女だったら、ちゃんと手習いをさせて、武家奉公もいいかもしれないね」

 かなり先のことまで考えているようだ。母親になるということは、自分のことよりも一番先に考える存在ができるということなのだ。


 雪江はそんなお絹が少しうらやましくなった。しかし、頭の中ではお絹の「住む世界が違う」という言葉が巡っていた。

 雪江も選択しなければならない。住む世界が違うと言って別の道を進むか、そちらに飛び込むか。

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