その後の雪江は
加藤家での長い話は終わった。いつもの雪江ならすぐに足がしびれてしまって、人の話に集中できなくなるのに、今回は自分の生い立ちがわかったので、足のしびれなど気にならなかったようだ。そのことを実感したのは、明知たちと家老たちが座敷を去ってからも雪江一人だけが立てないでいたからだ。足を投げ出してさすっている。
染子が呆れかえって見ている。玄庵と庵は顔を見合わせてにやにやしていた。
理子は、ホホホと鈴を転がすように笑い、
「雪江殿、動けるようになったら、わらわの部屋へもう一度きてもらいたい、よいな」
「はい」
と、一応返事をするが、いつ歩けるようになるのかわからない。
玄庵は雪江に近寄り、
「では、その後、桐野様へ使者を出し、迎えに来てもらうようにしようと思うが、いかがかな? 龍之介様のところへ桐野の姫として帰るがよい」
「桐野の姫?」
「雪江殿のことじゃ、なんじゃ、もうわかっておられるかと思ったが。桐野正重様のご側室、綾さまのお子ならば、桐野の姫ではないか」
玄庵にそう言われて、ハッとした雪江だった。
そうか、そうだった。龍之介の双子という真実と母のことが明らかになって、そっちのことは考えていなかった。母のことが分かれば、父のこともわかったことになる。
しかし、それはここでのこと。理子がそう言ってくれているだけで、何の保証もないのだ。もしかすると母は桐野の殿の子ではなく、別の人の子を身ごもっていたかもしれないし、例えそうであったとしても、桐野の殿が知らない、身に覚えのないことと言ったらなすすべがない。
全く別の世界で生まれ、育ち、また戻ってきたと言っても信じてもらえない可能性が高い。DNAを調べるわけにもいかないし。
雪江の中で不安がどんどん広がって行った。疲れも手伝ってか、考えがどんどん悪い方へと進んでいく。
「玄庵先生、ちょっと待ってください。私にじっくりと考える時をください。そして、ここで話したこと、わかったこと、母の事とかをあちらの家へなにも話さないでください。玄庵先生ですよね、両家を繋ぐスパイは」
わざとスパイという言葉を使った。染子はもちろん、玄庵本人も意味はわかっていないだろうが、身に覚えのある玄庵はなにも言わずに、二ヤリとしただけだった。
「怖いんです。あちらへいっても身におぼえのないことって言われたら」
「しかし、龍之介様はおぬしを桐野家へ引き取るつもりでおるぞ。牢のこともご存じじゃ。今すぐにでも迎えを寄こしたいと言うのを待っていただいている」
「それは・・・・実を言うと疲れちゃって・・・・。武家屋敷での作法とか言葉づかい、そして正座。もう肩も背中もカチコチ。一度「あかり」へ戻りたいんです。あそこのスタッフ用のベッドでゆっくり眠りたい」
そう、こんなに重い着物も脱ぎ捨てて、かんざしで飾られた高島田の髪もくずして・・・眠れるだけ眠りたい。
玄庵が医者の顔に戻っていた。
「そうじゃのう、おぬしは牢に閉じ込められていて、大変な目にあった。よく眠れなかった様子じゃったしのう」
「そうなんです。龍之介さんには早く会いたいけど、今日は無理。どうせ会うなら疲れた顔じゃなくて、いい顔みせたいし」
本当の胸の内は、龍之介そっくりの明知を見たから、龍之介に会ったような錯覚を覚えていた。内緒のことだが。
玄庵は、息子の庵に何か伝え、庵はうなづいた。
「桐野様には雪江さまのお体のことを考えまして、今夜は旅籠「あかり」の方へお送りするということをお知らせいたします」
と言うと、足音も立てず、廊下を滑るように去った。
玄庵は雪江の腕を取って立ちあがらせる。染子ももう片方の腕を取った。足はまだしびれていたが、歩けないことはない。
理子の部屋へ向かう。そして部屋の前まで来ると、
「雪江殿、また会ってゆっくりと「その世」の話をお聞かせ願いたい。なかなか興味深い話じゃった」
「いえ、私なんて」
「いいのじゃ、おぬしがおもしろくてな」
玄庵は染子に雪江を托して、一礼をして去って行った。
理子は先ほどの座敷ではなく、もっと奥まった座敷にいた。座敷牢の雰囲気に似ている。どこの屋敷にもあるのだろうが、トラウマになってしまったようで、ドキドキしてくる。思わず支えてくれている染子の手をぎゅっと握ると、染子も優しく握り返してくれた。
理子は座敷に一人座っていた。雪江を見るなり顔をほころばせる。
「お疲れのところをすまぬのう。わらわの話は簡単に済ませる」
そして、染子に向かって、
「人払いを、そちも外で待つように」
「はっ」
染子は雪江を座らせて出て行った。
雪江の背後で襖が閉められ、少し後にさらに他の襖が閉まる音が聞こえた。
理子と二人きりになった。
なんだろう。もう大体の話は済んだはずだった。しかも人払いって・・・内緒の話?
「そなたが綾の娘とわかったから、話しておこうと思ってのう。桐野家でなぜ綾が斬られたかじゃ」
「あっ」
と思わず声が出る。
そうだ、そうだ。またうっかりしていた。あの時は、なぜ母が肩を斬られ、産気づいたのか考える余裕がなかった。
もしかすると、奥方様が話そうとすることは、龍之介たちがさぐっていた十六年前の事件の事かもしれない。裕子と徳田の前世の侍がなくなった、あの・・・。
「家老たちは皆知っている。だが、明知は知らぬ。このことは胸にしまったまま墓へ持っていくことになっているのでのう。桐野の殿との約束じゃ」
墓へ持って行くってことは死んでもその秘密を言うなということ。ゴクリと唾を飲み込む雪江だった。
が・・・・そこへ染子の声がした。
「奥方様」
「なんじゃ、人払いと言うたではないかっ」
理子が声を荒げる。理子も人の子、苛立つこともあるのだと妙なことに感心する。
「申し訳ございませぬ。只今、明知様がお越しになられて・・・・」
染子のあわてた声が皆まで言い終わらないうちに、襖がガラリと開いた。
そこには厳しい表情の明知がいた。
「明知、無礼であろう」
さすが、母親だ。わが子の行動を改める声は厳しいものがあった。しかし、明知はかまわずに雪江の横へ、デンと胡坐をかいて座った。
「ご無礼をお許しください、母上」
「そちは、休んでおられよ」
今度は哀願するようにいたわりの言葉をかける理子。
「大丈夫でございます、母上」
理子の内緒話に突然の明知の登場。
まだ、悲しい過去が明らかにされます。
本当は悲しいとかつらい話は苦手なのですが、こういう展開になっていきました。