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近江水口藩加藤家 下編

「笑うから幸せになるという言葉はのう、わらわが綾へ伝えた言葉なのじゃ。わらわはこの言葉が好きで、周りの者たちがあまりにもかしこまり、難しい顔をしておる時、そう言ってその顔をほころばせたのじゃ」


 雪江には容易に想像できた。

 この奥方ならば、蝶のようにひらひらと舞いながら周りの人たちは笑顔にできるだろう。


「明知と龍之介が生まれた時、屋敷の者たちにも悟られぬようにすぐさま桐野家に連れていかねばならなかった。わらわもそのつもりであった。しかし、生まれたばかりのわが子を見ると、母の温もりを知らぬまま、一人見知らぬ家へ養子に出すことが不憫でたまらなくなったのじゃ。畜生腹はわらわじゃ、忌み嫌うならばわらわを、生まれたばかりの子には何の罪もないと土壇場で駄々をこねたのじゃ」

 玄庵がうんうんとうなづく。その場にいたのは玄庵なのだ。


「すると侍女だった綾が、龍之介と共に桐野へ行ってくれると申してのう。龍之介を命に代えても守ると言うてくれたのじゃ。それでわらわも安心して養子に出すことができた」

 理子まさこの目から涙がこぼれる。雪江も涙がこみ上げてきた。

「桐野の若様は綾を見てすぐに気に入り、側室に迎えた。そして綾はすぐに子を身ごもったそうな・・・」


 雪江の目から涙が止めどもなくあふれてくる。確かに理子の話は母と子の泣ける話だが、自分でもおかしいと思うほど、尋常ではない泣き方だった。染子が懐紙を差し出してくれた。本人の雪江も驚くほどにあふれ出てくるのだ。これは悲しいのではない、この涙は理子の話に反応しているのだ。

 そう気づいた雪江は、涙を拭きながら考えてみる。

 

 綾、綾さんって言った。その名前には心当たりがあった。まさか、あの・・・綾さんなのだろうか? 奥方様にこれを見てもらえばわかる。


 雪江は皆の前でごそごそと懐から赤いお守りを出した。以前に末吉にみせたパウチ加工をしてある雪江の母の写真だった。裏には祖母の字で、「綾さんと雪江」と書いてあった。


「奥方様、これを、これを見てください」

 染子がさっと動いて、雪江からその写真を受け取り、理子に手渡す。

 受け取った理子は珍しそうに手に取ったが、写真を見て、「おお」と声を上げた。


「綾じゃ、わらわの侍女であった綾ではないか。それに赤子を抱いておるぞ」

 顔を上げて雪江を見る。

「その人、私を生んでくれた母です」

 理子はこれで合点がいったとばかりにうなづき、また新たな涙を流していた。


「やはりそうじゃったか。そなたを初めて見た時、そう感じたのじゃ。そなたは綾の若いころに生きうつしじゃ。そうか、綾は無事にそなたを生んでおったのじゃな」

「はい、雪江と言う名は母がつけたと祖母が言ってました」


 明知たちも理子が持っている写真を見たがった。雪江に「よいか」と聞くと雪江はうなづいた。

 明知が手にし、隣の安寿姫も覗き込んでいる。


「ほう、これはこれは。まるで本人がそこにいるような絵であるな」

「ほんに・・・。この赤子が雪江殿なのじゃな」

「はい、そうです。育ててくれた祖父が赤ちゃんを取りあげる産婦人科の医者でした。そこで生まれました」


 写真は家老たちにも渡された。この写真で、誰もが雪江を「この世の人」ではないと確信した。綾の背後に写されている病室には備え付けてあるテレビやクローゼット、窓の外には少しビルが見えた。


 あの世が霊界ならば、雪江の世界はやはり、「その世」なのだろう。だが、桐野家で雪江を身ごもっていたはずの綾が、どうやって「その世」に行ってしまったのか、なぜ、そこで雪江を生んだのかがわからない。尋ねようにもその本人はこの世にはいない。


 玄庵は医者らしい疑問を投げつけてきた。

「綾どのには不可解な傷があったということじゃが、雪江殿はご存じかな?」

 雪江がうなづく。一度だけ母のことを詳しく聞いたことがあった。


「はい、肩に切り傷が、それ自体は大したことはなかったみたいでしたが、出血がひどくて、それに全身ずぶぬれだったそうです。母は産気づいていて、母を発見してくれた人がすぐ近くにあった祖父の産婦人科へ連れてきたと聞いています。でも、かなりの難産だったみたいで、母体の負担を考えて、帝王切開に踏み切ったそうです」

 皆が雪江の説明に、目を白黒させている。


「帝王切開・・・とな?」

「赤ちゃんが産道をなかなか降りてこなくて、そのままだと赤ちゃんの命も危険な状態になるので、お腹を切って赤ちゃんを取りだす方法です」

 雪江はお腹を縦半分に切る真似をした。

 皆が息を飲んだ。染子はヒィという声を出した。

 出産経験者にはどんな苦難か想像できるのだろう。腹を絞り出すような痛みに長時間耐え、その上腹を切られたのではたまらない。


 それが原因で雪江の母が亡くなったと思われている雰囲気だったため、雪江はあわててとりなした。

「あ、でも、母はその時なにも感じていなかったはずです。痛みを感じさせない薬があるし、たぶん、母は眠らされていたと思います。切ったところもちゃんと縫い合わせたはずだし、歩いてトイレ・・・じゃなくて、ご不浄にも行かれるし。この写真はオペの二日くらい後です」

 もう雪江の説明も適当になっている。どうせ手術と言ったってわからないし、オペって言っても同じだと思ったのだ。祖父たちは日常的にオペと言ってたし、大体のことが伝わればそれでいい。

 雪江はそう簡単に考えていたが、今の説明で皆の雪江を見る目が違っていた。


 今まで無作法な娘、礼儀作法も満足にできない異端児とばかりに思っていた節があった。そんな娘が医療のことについて、淡々と話しているのだ。写真といい、痛みを感じぬままに腹を切って赤子を取りだすなどという医術は、今の世では不可能なことだった。


「なるほどのう、おぬしの世はいろいろなことが進んでおるようじゃ。それにおぬしもよく知っている。相当の知識があるとみたが」

 雪江は誉められてまんざらでもなかったが、帝王切開なんて誰でも知っているし、産婦人科医院の家で育ったのだ。

「いえ、そのくらいのこと、誰でも知っています。心臓の移植手術まで成功させる時代ですし・・・・」


 しまった、ちょっと口が滑った。まだ、罪人の墓を掘り起こして、人体の腑わけをして勉強をしている時代なのだ。心臓と言ってもピンとくるのは医者だけだろう。

「とにかく、双子だって忌み嫌うどころか自然のなされるミラクル、素晴らしいことなんです。気味悪がる人は誰一人としていません」

 理子がポツリと言った。


「そうか、雪江殿が育ったところでは双子は嫌われてはおらぬか・・・。よかった、わらわはそれがうれしい」

 玄庵はそれとなく、別の方面から分析している。


「綾どのは、斬られて自分の命が長くないと悟ったのかもしれませぬ。なにが起こったのかはわかりませぬが、自分の子に龍之介様をお守りする役目を托したく、無事に産めるところへ・・・その世というところへ行ったのかもしれませぬなあ」


 そうか、母は命の危険を察して、産めるところを求めて・・・・タイムスリップ・・・。


「聞けば相当の難産だったと、ここでは母子ともに命取りになります」

 ごくりと唾を飲み込む。もしも母が未来へ飛ばなかったら、この江戸で産気づいて雪江ともども亡くなっていたかもしれないのだ。

 綾の、子にささげる愛が難産でも産める時代、そしてその子が無事に育つ時代へと無意識に願ったのかもしれない。


 そうすると、雪江は元々は「この世」の人ということになる。だから帰ってきたのだ。今度は理子との約束、母に代わって龍之介を守るために。龍之介が窮地に追い込まれたあの時に、ここへ戻る時がきたのだ。



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