このまま飼い殺し?
暗闇に潜む目に見えないものを想像しすぎて、よく眠れぬ一夜を過ごした雪江だった。
このまま飼い殺しにされる不安よりも、この暗闇の中、一人で過ごすことの方が神経をすり減らすかと思われた。それに長屋と違って、人が回りにいないし、幽霊が出てこないほうがおかしい状況だ。静かすぎる中、家屋のきしむ音や何かの音が聞こえてくると飛び上がるほど驚く。
長屋は隣近所の音が筒抜けだから、三軒隣の夫婦げんかもよく聞こえた。
長屋が懐かしかった。ここより寒く、狭くてうるさい。プライバシーがなくても、すぐ近くに人がいるという安心感があった。お絹も心配しているだろう。
雪江はウトウトしては目が覚めて、またウトウトの繰り返しで朝がきた。疲れた。こんな夜は初めてだ。
茜が来て朝食を運んでくれた。ものすごく濃いお茶をリクエストする。
抹茶のようなお茶を飲んでも、雪江の頭はすっきりしなかった。
玄庵が来ても、あくびをかみ殺す雪江だった。
「どうした。よく眠れなかった様子。また、あの薬が必要かのう。ひゃっ、ひゃっ」
嫌味を言われても気にしない。本当に薬で眠れたらその方がいいのかもしれないと思えてくる。
玄庵は茜が朝食のお膳を下げに出ている時に、そっと耳打ちした。
「よいな。事はどんどん動いている。多少身に覚えのないことでも受け入れよ。まもなく伸治郎様がお越しになられる。茜が身支度を手伝ってくれるから、文句も言わずに着るように」
「はい」
それだけ言うと玄庵は出て行った。
あまり詳しいことを語ってはくれなかった。身に覚えのないことでも・・・・って、なんでもハイハイって言うわけにはいかないし。
茜が桶に湯を持ってきた。まずは沐浴かららしい。
「湯あみのお手伝いを」
と言って、茜は牢の鍵を開け、中へ入ってきた。
なんだろう、茜の態度が違っている。もう雪江を恐れてはいない。むしろ、好意的になっていた。
雪江は自分でやると言ったが、茜の方が慣れている。肌襦袢の下で肌を露出しないようにして、せっせと手早く丁寧に拭いてくれた。
「ね、茜さん。これから私がどうなるのか知ってる?」
茜はせっせと手を動かして、雪江に着物を着せている。
「いえ、存じ上げません」
とツレナイ返事。知っていてもペラペラと喋ってはいけないのだろう。
それでは話を変えることにした。
「茜さんって結婚されてるの? 親兄弟は?」
どこから話をしていいのかわからないので、まずは相手のインフォメーションから得ることにする。
しかし、それですら茜は口を開こうとしなかった。なるほどそう出るのならこっちにも考えがある。
「茜さんってすごいよね。お役目とはいえ、ずっと座っていて。一日中でも座っていられるの?」
反応はない。
「私なんてちょっと正座をしているともう足が痺れてしまってだめ。なにか言われてもすぐに立ち上がれない。それに私の見張り役としても辛抱強いよね。私なんかお役目でも無理かも・・・・。すごいよ、本当に茜さんは」
わざと砕けて言ってみた。
「それは・・・・だから」
ボソボソと聞こえた。最初、茜が話しているとは思わなかった。
「えっ」
「あなた様が恵まれているからでございます」
「私が?」
茜は帯を締めながら言う。それでも決して雪江の目を見ようとはしない。
「わたくしの父は百姓家の三男でした。家や田畑は長男が受け継ぐもの。次男や三男は自分で食い扶持を探さなければなりません。父は幸いなことに商人の家に養子として迎えられ、この江戸にきました。ところが、安泰だと思われた実家の方は何年か稲の不作が続き・・・・体の小さいものたちが犠牲となりました。まだ、小さかったわたくしの従弟たちが亡くなったのです。父は江戸から食料を持って駆けつけました。でも、遅かった・・・・。」
「・・・・」
雪江はなにも言えない。口をはさむことができない。
「わたくしは小さかった従弟たちのことが忘れられません。父も毎日おまんま(ご飯)が食べられて、雨露しのげることに感謝をせよと申しております。そして何事もなく、朝が迎えられることを幸せに思えと。ここでのご奉公は、きちんと食べることができ、暖かくして眠ることができます。なんの不満もございません」
茜は合掌し、深く頭を下げた。もう着物は着せ終わっていた。
茜は牢から出ると、再び外から鍵をかけた。また一礼して座敷を出て行った。
一人残された雪江は、茜の身の上話の反芻をしていた。
そうか、そうだ。この時代はまだまだ貧富の差が激しかった。百姓一揆なども行われていた時代なのだ。
茜自身が餓えの体験をしたわけではないが、身内がそんなひどいことになったのならば、自分の立場は恵まれていると言える。そこから考えると雪江はずいぶん辛抱のない、他の人の心の傷に気づかないおめでたい人になる。雪江はずっと自己嫌悪に陥っていた。
茜が座敷を出てからすぐに伸治郎が入ってきた。支度が整うまで近くの座敷で待っていたのだろう。
玄庵が続きの座敷の隅に座り、伸治郎がずかずかと雪江のいる座敷牢の近くまできて胡坐をかいた。
さあ、どうするつもりだろう。一応身分はかなり上なので、雪江も正座をして頭を下げた。まあ、今日のところは押さえて、怒らず、怒鳴らず。
伸治郎は喧嘩後の友達との再会のように、伏し目がちに雪江を見てはにかんだ。
「雪江殿、これまでじゃ。今日で最後ぞ」
「はい? どういうこと?」
「昨日、父上から直々に婿養子の話をされた。わしには断ることはできぬ。そちを連れていくこともかなわぬ」
「婿養子って、結婚すること・・・」
伸治郎はうなづく。その表情は堅い。
「雪江殿をさらったことが父上のお耳に入ったのじゃ。中屋敷にいる女子は兄上の側室になるから上屋敷へ連れてこいとの仰せだった」
「それが・・・・私のことなの?」
「さよう、無事に雪江殿を上屋敷に送れば、今回の不始末は大目に見ようとも仰せられた。」
「ちょっと待って、なんで私が伸治郎さんのお兄さんの側室にならなきゃいけないのよ。どこからそんな話が出てきたの?」
「わしのしでかした汚点を加藤家に繋ぎとめておくことで、表にでないようにするためじゃ、そして・・・恋仲なのであろう、兄上と。先日見たのじゃ、いつもの料亭で、雪江殿が兄上に抱きついていたところを。あの姿を見て、どうにも自分を抑えられずにこのような真似をしてしまったのじゃ」
雪江の頭の中は、伸治郎の兄上と龍之介と結びつかないでいる。大体、伸治郎の兄って誰?
「恐れながら申し上げます。雪江殿の知っている御仁は、実はこの加藤家の嫡男、明知様でございます。龍之介と言うのは江戸市中で遊ぶ時の仮の名」
伸治郎は振り返る。
「玄庵、そちは知っておったのか」
「はい、この玄庵に知らぬものなどありませぬ。ひゃっひゃっ」
「そうじゃな、おぬしは誠に食えぬ狸よのう」
伸治郎は信頼していた玄庵に裏切られたようで、がっくりしていた。
雪江はそんな説明では納得できなかった。が、ふと玄庵を見ると、伸治郎の後で目配せをしたり、口をぱくぱくさせている。どうやら雪江に口裏を合わせろと言っているらしかった。
そう言えば、身に覚えのないことでも受け入れよと言ってたっけ。これがそういうことなのだろう。ここから出られる理由だったのだ。
「あ、なるほど。あの方は伸治郎さんのお兄さんだったんだぁ」
台詞棒読みの大根役者、雪江。
しかし、そんな雪江の言葉を全面的に信じて、がっくりと肩を落としている伸治郎がいた。
「兄上は先日正室を迎えたばかりではないか。それさえもわしには知らされず、事後報告となっていた。すべてが内密に、事が進んでいた」
聞き捨てならないことを言う。仮にも今から雪江が側室として行く伸治郎の兄、明知は正式の奥さんを迎えたばかりだという。こんなことって許されるの?
玄庵を見るが、今は何も言うなとばかりに口に人差し指をあてる。
「なぜじゃ、皆がわしをのけ者にする。あの父上でさえも。子供の頃は兄上とも遊んだ。しかし、あの三年前のことからすべてが変わってしまった」
三年前?ああ、ヒ素を盛ったというあの事件だ。
「母上がやったという事実はどこにもない。しかし、我らは上屋敷を追われた。今度の縁組も唐突だった。厄介払いをしたいのだろうな」
伸治郎は一人で語っていた。
「母は確かに気性の荒いお方じゃ。口を開くと奥方様(正室)の悪口ばかりじゃった。父上を一人占めしたかったのだろう。わしはそんな母を見て育った。女子とはなんと心の狭い愚かなものなのだろうと卑下していた。」
そこで伸治郎は雪江を見る。
「わしも、気づいたらその嫉妬の渦に巻き込まれ、雪江殿を渡したくない一心でこんな愚かなことをしでかしてしまった。血は争えぬのう」
なにを感心しているのだ。伸治郎の言葉にイラっとする。
「能登下村藩の姫との婚礼。わしの役目は種馬じゃ。お家の存続のため、それはわしでなくてもよいのじゃ。加藤という家名を持っていればな」
なにを言っているのだ、この人。完全に自分は不幸、この世の中で自分だけが不幸だと言わんばかりだ。雪江に同情してもらいたいのだろうか。
「大名家に生まれなかったら、いっそ町人に生まれればよかった。そうすれば加藤家の次男ということで見られぬ。自由に生きていかれたのに・・・・」
「ばっかじゃない」
つい口に出てしまった。
その自分の発した一言が怒りの炎に鞴の風を送った。頭のどこかで、確か今日は怒らないって誓ったような・・・・。
「なにバカなこと言ってんのよ。大名は嫌だ、家名で判断されるから町人に生まれたかったですって? 今まで苦労の苦の字もしたことがないくせに、なにほざいてんのよっ。中にはね、嫌なお役目を文句一つ言わないで、今日も一日食べられて、暖かくして眠れることが幸せだと考えている人もいるの。火事で親を亡くした子もいるわ。みんな心に傷を持っているの、それでも皆、前向きに生きているの。種馬としてだって結構な話じゃないの」
伸治郎も食い下がる。負けてはいない。
「そちにはわしの苦労はわからぬ。皆がわしのことを心配してくれるのはこの家のためじゃ。この家がなくなれば皆が路頭に迷うからじゃ。わしのことを本気で心配してくれる者はおらぬ。その気持ちがわかるか」
「だったら、大切に思われる人物になればいいじゃない。甘ったれてんじゃないわよ。皆が自分の生活を心配するのは当たり前。そうじゃなければあんたみたいな甘ちゃんの言うことなんかきくもんですか」
言ってしまった。やってしまった。気づいたら伸治郎は真っ青になっていた。また、やけになっても困る。雪江は声のトーンを落とし、子供に諭すように言う。
「でも、あんたのお父上は違う。こんな不出来な子供でもかわいいのよ。今度の縁組も、それがあんたにとって一番いいと思ったから、突然言ってきたんでしょ。いくら大名の息子でも人を拉致したらそれなりの罰は与えられるんじゃないかな。それをさせたくなかったから。そうじゃない? 種馬って言ったけど、加藤家の次男はあんたしかいないの。あんたがあちらの姫との子孫を作って、育てていく重大な役目なのよ」
伸治郎は雪江の言葉を考えていた。少しは落ち着きを取り戻したみたいだった。
「しかし、あちらでも厄介なものをと疎まれているのではないのか」
まだ納得がいかないみたいだった。被害妄想もいいとこだ。雪江は牢に手をかけてさらに続ける。
「そう思うんだったらあんたが来てくれてよかった、いてくれてよかったと思える行動を起こせばいいじゃないの。こんなところで愚痴ったって仕方がないわよ」
「そ、そんなことわしには・・」
「できないじゃないの、やらないからできないのっ」
怒鳴ってしまった。シーンと辺りが静まりかえる。玄庵でさえ、あっけにとられていた。
やばい。言い過ぎたかもしれない。なんとか取りなおさなければ。
「ね、頑張ってみてよ。例え失敗してもいいの。一生懸命に努力をすればそこから何かを得られる。努力をすれば結果はおのずとついてくる。周りの人だって努力をしている人を卑下したりしない。一生懸命の姿を見て、たぶん助けてくれると思う」
これはテニスの練習中に顧問の先生に言われた言葉だった。
「お母さんのことも、あんたが前を向いて頑張っている姿を見れば、もう家とかどうのこうのっていう拘りが消えるんじゃないかしら。あんたが、今を生き生きとしていればお母さんも満足してくれるよ、きっと」
もうすっかり、伸治郎のことをあんた呼ばわりしている。伸治郎も雪江の言葉なのであまり気にしていないようだ。
「私のおじいちゃんが言ってたけど、人から大切に思われたい、尊敬されたいと思ったら、まず自分が誰かを大切にして尊敬することだって」
学校でつまらない意地をはった時、喧嘩をした時などよくそう言っていた。その時は耳から入って通りすぎていくような気がしたが、今こうして人に語っている。
この言葉が彼なりに納得できるには時間がかかるだろうが、まずインプットする必要があったのだろう。次に何かが起こる時、また思いだしてくれればそれでいい。
伸治郎は泣いていた。あの自信満々の表情はどこにもなかった。玄庵は伸治郎の肩に優しく手をかける。
「伸治郎様、雪江殿から喝を入れていただきましたな。すべてが丸く収まれば、今回のことも決して無駄にはならなかったと存じます」
伸治郎は言葉にできず、うんうんとうなづく。
「雪江殿を牢から出しますぞ、そしてこの格子はすぐに取り外しまする。何事もなかったように」
玄庵が牢の鍵を開けてくれた。雪江は着せられた重い着物の裾を一抱えにして、小声でどっこいしょと呟きながら屈んで牢から出た。
雪江は泣きじゃくっている子供のような伸治郎を抱きすくめた。
「伸治郎さん、新しい土地で、新しい自分に生まれ変わって」
「雪江殿・・・・わしはまだ、どのようにしていいのかわからぬ」
小さいころから侍らしくとか泣くこと、母に甘えることが容易にできなかったのかもしれない。心に愛情と言う栄養を十分に与えられていないから、発育不良なのだ。
「ね、伸治郎さんのお父さん、お父上のことは好き?」
伸治郎が顔を上げる。そしてうなづいた。
「じゃ、お父上がどんなふうにしていたか思い出してみて。どんなふうに話し、どんなふうに人に接していたか、自分がされてうれしかったこと、楽しかったことをそれに盛り込むの。尊敬している人の真似をしてみる。段々上手にできるようになれば、今度は自分の考えを足していったらどう?」
伸治郎はいろいろ考えている様子だったが、やがてうなづいた。
「それならばできそうじゃ」
「よかった」
雪江がぎゅっと抱きしめる。
「友達としてよ。変な感情はないからね」
伸治郎からまた新たな涙が出た。うんうんとうなづいている。
「お婆ちゃんが言ってた。自分を好きになれって。どうしても自分が好きになれないなら、なぜなのか考えてみろって。自分の言ったこと、やったこと、どこかに見たくない自分がいるなら、少しづつ変えてみろって」
以前、このことを同級生に言ったことがあった。皆は感心するどころか年寄り臭いって言われた。他の同級生の親たちはそんなお説教じみたことは言わないらしい。
それからは少しの間、祖母との距離を置いた雪江だった。祖母に何か言われても返事をしない嫌な自分がいた。言われたことと正反対の行動に出てしまった。雪江はそんな自分を嫌な最低な奴だと思っていた。
今、こうして必要な人に言ってみると、よい言葉だなと実感する。あの祖父母に育てられて、本当によかったと思える。一緒にいる時にもっと感謝すればよかった。もっと孝行すればよかった。
雪江は伸治郎が泣きやむまで抱きしめていた。やがて、伸治郎は顔を上げる。
「雪江殿、かたじけない。雪江殿の言葉は皆、じいが日々言っていたことばかりじゃ。しかし、念仏のように毎日言われるとのう・・・。わかっていたつもりじゃったが、わかろうとしなかった」
「私も・・・・同じよ。偉そうに言ったけど、言いながら本当にそうだって思えたの。それまでの自分はわかっていなかった。怒鳴ってごめんね」
「いや、わしこそ。雪江殿に会えて本当によかった」
有難い言葉をいただいた。本当に偶然に起こると思われることも必然なのだ。どこかで何かを得られる。