雪江、危うし・上編
龍之介たちはあの夜以来、戻って来ていなかった。
お絹と一緒にいるとカラ元気で、淋しいとは言わずにいるが、いつもならそこに龍之介が座っていたと思うと、やるせない気持ちになった。
お絹もショックを受けるかと思っていたが、普通にしていた。本当は気落ちしているかもしれないが、それを表には出さない。ある程度は覚悟していたようだ。
侍の彼らが、そのまま長屋に住み着くことは浪人以外はあり得ないことだ。遅かれ早かれ、長屋を引きはらい、元のお屋敷に戻るべき人物だった。
寝ながらお絹がぽつりと言った。
「なんか、不思議だね。龍之介さんが雪江を拾ってこなきゃ、私たちはこうして一緒にいなかったんだよ」
本当にそうだ。あの時、あのタイミングでタイムスリップしなければ、龍之介とも出会っていなかっただろうし、お絹ともこうして枕を並べて寝ることもなかった。
龍之介と出会うべきならば、なぜ、今、彼は去っていったのだろう。どうせ去っていくのなら、もっと早く、こんな気持ちになる前に出て行ってほしかった。こんなに好きになってしまって、息苦しいほど愛おしいと思っているのに、突然目の前からいなくなった。
つらい、つらすぎる。
雪江はお絹に悟られないように、布団を頭からかぶって声を押し殺して泣いていた。
翌日もいつもの毎日がはじまる。
義務的に旅籠の仕事をし、同僚の女中たちと他愛のない話に合わせて笑っていた。しかし、心の中では全く面白くなく、笑ってはいない雪江。
裕子も徳田も、きっと帰ってくるなどという気休めは言わなかった。普段通りに接してくれている。
雪江はそれがありがたかった。今はそっとしてほしかった。
そして・・・・・・・。何かが起っていた。
寒さで目がさめた。とても不自然な格好で、畳の上に転がされていた。
手は後ろで縛られ、足も自由にならない。口も猿ぐつわをされている。そんな状態でうつぶせになっていて、頭を上げるとバリバリという音がしそうなくらい顔半分が畳にくっついていた。
ズキンと頭の奥が痛む。いつかの二日酔いのような感じだ。
それでもこのままだと苦しいので、体を動かしてやっと仰向けになった。
暗く、高い天井を見上げる。暗い中でもなんとなく、周りの輪郭が見えてきた。
雪江は、結構立派な座敷の中にいるようだった。長屋とは全く違うスペースである。しかし、周りにはなんとも奇妙なものがあった。
防犯などでよく窓についている格子が、雪江のいる座敷を囲っていた。籠の中の鳥のように、雪江は座敷の中に閉じ込められていたのである。
「・・・・?」
声を出そうとしたが、出ない。息ばかりが空しく出ただけだった。喉はひりひりしていて、運動会で大声を出して応援した翌日のような感じだった。
一体なにがあったの? なにが起こったの? どうしちゃったのよ。誰かにこの疑問に答えてもらいたかった。
「どうやら、目覚めたようじゃな。ひゃっひゃっひゃっ」
人がいるとは思ってもみなかったので、ギクリとして振り返った。
たぶん朝が来るのだろう。座敷の続きの間の障子がなんとなく明るくなってきている。
その続きの間の暗がりに、こちらを見て座っている影を見つけた。
「誰?」と言いたい雪江であるが、当然、声が出ない。猿ぐつわもされているので、もごもごと口のなかでもがいただけだった。
その影が動いた。ゆっくりと立ち上がって近づいてくる。
雪江は恐怖を感じた。どう考えても雪江の立場は優勢ではない。
「なあに、そう怯えなくともよい。雪江・・・とか言ったな。おぬしらしくはないぞ。いつもの元気はどうした。ひゃっひゃっ。明かりをつけよう」
その人物は雪江の名を知っていた。どこかで聞いたことのある声だ。そして特徴のある笑い方。
はっきりとしない頭で考えてみる。
暗がりでカチカチという火打石の音がし、火花が散る。ホクチという燃えやすい素材の上に落とし、その火だねをりっぱな太い蝋燭に点火した。
その蝋燭に映しだされた顔を見て、やっと思い出した。
長屋で龍之介の傷や子供の水痘の時に来てくれたあの老医者だったのだ。
声が出ないため、雪江は目を丸くして「なんで?」と表現する。
「よいよい、おぬしの言いたいことはわかるぞ。それに、昨夜の暴れ方ではもう声も出ない様子。今、縄を解いてやろう。そして事情も説明してやる。そのかわり、大人しくしておるのだぞ」
格子の向こうで念を押される。雪江はうなづいた。
老医者は大きな錠を外し、小さな格子の戸を開けて、屈みながら入ってきた。
「よいか、ここからは容易に逃げ出せぬ。去るお方の屋敷の奥にある別館に、おぬしはおるのじゃ。この牢から逃げだせたとしても、広い敷地内にはあちこちに侍がいる。門番もいる。おぬしのことは内密になっているから、事情を知らない侍たちは狼藉者として捕えるであろう。それでも逃げようとすれば斬られるかもしれぬ。ここでおとなしくしておれば安全なのじゃ、わかったな」
これには雪江も納得できず、老医者を睨みつける。
老医者はひゃっひゃっと笑った。
「やはり、それでは承知はせんか」
雪江の猿ぐつわを取ってくれる。たぶん、これは舌を噛み切って死なないようにしていたと思われる。涎でビショビショだ。でも、ものすごい解放感。
次はうしろ手の縄を解いてくれる。手が自由になり、足も解かれた。強張っていて、すぐには手が動かせない。
老医者は玄庵と名乗った。雪江の腕についている縄の跡をみて、
「これは二、三日もすれば消えよう。まだ若いしのう」
と言って、雪江を抱き起こしてくれた。
体を起したらずきずきと頭が痛む。思わず顔をしかめると、玄庵は言った。
「眠り薬を使ったからのう、痛むか?」
雪江は力なく、笑みを作る。
「しかし、おぬしはすごいのう。体もしっかりしているから少し強めにしてみたが、一刻半か、二刻(約四時間)くらいしか寝てはいなかった。他の女子ならばまだまだ目覚めぬ。男でもどうかのう。・・・・そうか、おぬしは薬に慣れておるな」
玄庵は医者らしく、医者なりの関心を示している。
雪江は、「私は超人ハルクかっ」と突っ込みたかった。
「おぬしは昨夜、ここへさらわれてきた。あれほどの大騒ぎをしたのに、思い出せんか」
ああ、そうか。そうだった。そう言われると、段々思いだしてきた。