雪江・まともなデートがしたい
その後、料亭には伸治郎がよく顔を見せるようになっていた。
まるで、雪江に顔を忘れられては困るという感じで、二、三日おきに食べに来ていた。
一応、その際には雪江を指名し、料理を運ぶ時に一言、二言声をかけてくるくらいで、食べ終わるとすぐに帰っていった。
いつも一緒に来る年寄りの方は、無理やり付き合わされている様子で、こちらも一言、二言余計な小言を雪江に言うのだった。
しかし、雪江にとって豊和に似ているだけの伸治郎には全く関心もなく、料理を食べにこなければ、本当に忘れてしまう存在となっていた。
長屋での生活は相変わらずだが、あの夜のキス以来、龍之介と雪江の仲が少し変わった気がする。
今までは龍之介のことを好きなのに、相手の気持ちがわからないから好きではないふりをすることがあった。しかし、今は好きと言える。好きだと堂々と振る舞えることがうれしかった。
だが、このいつもの長屋生活では、中々二人だけの会話をすることでさえ難しかった。雪江が二人で出掛けたいと言ったら、即座に断られた。
武士が妻でもない女性を連れて、町中を歩くことは殆どない。しかも雪江が思い描いているのは、二人が手をつないで話をしながら歩くことだ。縁日へ行ったり、芝居を見たり、景色のいいところを眺めながらお茶を飲んだりするそんなありきたりのデートなのだ。
それを龍之介に告げると「気でも違えたか」と一言だった。
徳田にそのことを愚痴った。
「この江戸時代に男女が並んで談笑しながら町を歩けるのは町人だけだな。なにしろ、お武家さまの奥さまたちは屋敷から出ないから、そういう例がない。屋敷から出たとしても目的地まで駕籠で行くし、歩いたとしても必ず供の者を連れていく。ちょっとそこへ買い物に行くとか、お腹がすいたから何か食べに行くということはないんだ。まあ、孝子さまは別だけど」
「へ~え、じゃあ、妻は三歩くらい後ろを歩くっていうのは?」
「そう、武家の風習だろうな。敵がくることを想定して、女子供を守るために男が先を歩くって言うのが理由らしいけど。俺たちは裕子さんが先を歩く」
雪江はぷっと吹き出す。
「なにしろ、出掛けるってことはなにか目的があるってことだろ? どっかへ行くにもバスとか電車がないんだから、駕籠か船で移動しなきゃなんねえ。俺たちは一緒に歩くけど並んで歩いたとしても夫婦には見えないんだ」
「え、なんで?」
「よく女将さんと手代に間違われる。裕子さんいつもシャキッとして歩くから」
うっとりとした顔で裕子の歩く姿を思い出している。
「あー、はいはい。裕子さん、きれいだからね」
「そんなに龍之介さんと歩きたいのかよ」
「そりゃそうでしょ、二人きりの会話は皆無よ、全くなし。いつもお絹とか小次郎さんがいるし、話に入ってくる」
「でもな、雪江。小次郎さんは別だ。あの人は龍之介さんのために就いている人だから、たとえデートであれ、くっついてくるぞ」
「わかってる、わかってるけど」
雪江の食器を洗う手が段々と荒っぽくなった。
そこへ裕子が戻ってきた。離れに来ている孝子とおしゃべりをしていたらしい。
「孝子さま、最近ウオーキングに凝ってらして、お痩せになったみたい」
そう言えば、雪江は孝子にずいぶん会っていない。
「痩せたって、体重が減ったの?」
「帯よ、帯まわりが以前と違ってきているんですって」
ああ、なるほど。帯の結び目がどの辺にくるかでウエストが細くなったかどうかがわかる。いつも巻き尺を巻いているようなものかもしれない。
「孝子さまのいる下屋敷は紅葉がきれいらしいわ。私も今度一緒に歩かないかって誘われちゃった。皆も一緒に行かない?」
「あっ」
雪江は閃いてしまった。
「下屋敷の庭って広いんですか?」
「そうね、大名屋敷の庭って広いことで有名よ。跡地が公園になっていたりするから。ほうら、水戸徳川家の跡地は小石川後楽園だし、加賀藩の前田家は東京大学、西条藩松平家は青山学院大学とか聞いたことがあるわ。公園よりも広いわね。」
雪江はそれを聞いて、ニヤニヤ顔になる。
「そんなに広いなら、歩けるかも。ねっ裕子さん、孝子さま、まだいる?」
「ええ、いるわよ」
「このチーズケーキ持っててもいい?」
「いいけど・・・・・怒られるかも・・・あっ行っちゃったわ」
雪江はチーズケーキを持って、離れの戸を叩いた。
孝子は久しぶりに雪江の顔を見て、大歓迎してくれた。
「まあ、ちょっと見ないうちに・・・・きれいになったこと」
「えっそんな・・・そんなことございません」
少し顔を赤らめる。
「あのう・・・チーズケーキをお持ちしました」
「う・・・」
孝子は雪江の差しだしたチーズケーキを見て、つわりのように袖で口を押さえた。
「あれ? お好きでしたよね」
孝子はチーズケーキを残念そうに見ている。
「好きじゃ、好きじゃが、ここに通い詰めるようになって、帯がきつくなってのう。これではいかぬと毎日、下屋敷の庭園を歩いているのじゃ。おかげで少し帯がゆるくなってきたところなのじゃよ」
「あ・・・失礼しました」
ダイエット中の人にデザートをすすめてしまったのだ。さっと後ろに隠す。
さっき、裕子との会話でそんな話をしていたのに、雪江は自分のことばかり考えていてうっかりしてしまったのだ。
「本当に申し訳ございません」
「いや、雪江殿。いただく、いただくぞ。せっかく、わたくしのために持って参ったのじゃ。いただく。明日また、頑張って歩くのだから」
「え、いいんですか?」
孝子は二ヤリと笑い、
「裕子殿には内緒じゃぞ」
「ばれると思うけど」
「あ~、恐ろしや~」
と言いながらもさっそくチーズケーキを手にとって、うれしそうに食べ始める孝子であった。やはり、いつの時代でも女性は甘いものが好きである。
「それで?」
「は?」
「なにやら、わたくしに申す事があるのじゃろう。申してみよ」
孝子にはバレバレである。
「はい・・・・あのう、私のような町人でも孝子さまのいるお屋敷の庭を歩くことができますか」
「うん? 芝のお屋敷の庭を・・・か?」
「はい」
「わたくしの客人ということなれば歩けるが、なぜじゃ」
「ああ、一応、えーと龍之介さんと・・・・」
「なに? 龍之介様? はっきり申してみよ。なにがなんだかわからぬぞ」
恥ずかしかったが、もう思い切って話してしまう他なかった。
「龍之介さんと一緒に、二人でのんびり歩けるところを探していたんです。町の中は無理だって言うし」
一瞬、孝子の表情が止まる。雪江の言った意味を反芻している様子だった。
「一緒に歩きたい? 龍之介様と芝のお屋敷の庭園を。あそこは甲斐大泉藩の下屋敷ぞ。龍之介様などこの孝子に言わずとも自由に歩きまわれるはずじゃ。なんの遠慮があろう」
「でも今は、龍之介さん、この江戸にいることは隠しておられますよね」
「おお、そうじゃった」
孝子はなにやら考えていて、
「ようするに、二人で気兼ねなく歩ければよいのだな。なにか句会やらお茶会やらを開くのではなくて」
「違います、違います。二人でのんびりできればそれでいいんです」
「それならば、龍之介様とわからない格好をして、雪江殿と二人、この孝子が呼びいれたということにすればよさそうじゃ。なあに、門番も駕籠に入っている御仁の顔までは改めぬ。この孝子がそうはさせぬ」
一応、孝子との話は成立した。後は、龍之介を説得するだけだった。二人でお店を見たり、甘いものを食べたりということはできないが、誰にも気がねしないで歩けることがうれしかった。