龍之介のライバル登場
雪江は末吉の母の似顔絵を描きあげてから、料亭の厨房に立っていた。
いつものように野菜の下ごしらえと洗い物をしている雪江のところに、徳田が大発見をしたかのように興奮して飛び込んできた。
「すっげーっ、こんなことってあるんだな。すっげーよ」
「どうしたの? お客から小判のチップ(ご祝儀)でももらったの?」
「雪江、海老フライ定食ができたら一緒に運ぶぞ。この発見は雪江でなければ分かち合えないんだ。裕子さんは髪結いからまだ戻ってきてないし」
徳田は一人で興奮しまくり、海老フライを揚げていた。
どうやら、さっき楓の間に入った二人組の侍たちに関係があるようだ。
この料亭の海老フライ定食は老若男女に大うけで、最近では遠方からもこれを目当てに客がくるし、侍たちも珍しくなかった。
よほどの美人客ならともかく、侍二人の客に興奮している徳田を不思議に思った雪江だった。やがて、出来上がった海老フライ定食をお膳に乗せて、徳田と二人で運んでいった。
「お待たせいたしました、海老フライ定食でございます」
中から「うむ、入れ」という返事がくる。正座をしたまま静かに襖を開けて、お辞儀をする。
「失礼いたします」
徳田は巨体を丸められるだけ丸めて、小男に見えるようにしている。客商売だから、あまり大きいと客を見降ろすことになってしまうからだ。
入室してあからさまに客の顔を見ないように伏せ気味にして、ちらりと客を見た。
年寄りの侍は偉そうにふん反り返っている。奥にいる若い方の侍の顔を見て、雪江は思わず声をあげそうになった。
その侍は豊和にそっくりだったのである。きちんと髷を結っているが、自信満々の表情など本人かと思ったくらいだ。
雪江が動揺してもたもたしているのを見て、年寄り侍がたしなめた。
「これ、早くせぬか」
「は、はい、申し訳ございません。海老フライ定食でございます」
雪江が若い侍の前に、お膳を置いた。
「かたじけない」
若い侍にそう言われて、おもわず顔を見てしまった。
声はこちらの方がバリトンが効いている。間近で見ると豊和とは別人とわかるが、本当によく似ていた。
「そちは名をなんと申す」
雪江は自分に話しかけられたとは思っていなかったので、少しの間キョトンとしていた。また、年寄り侍がイライラとした口調で怒鳴る。
「恐れ多くも伸治郎さまが名を聞いておるのだ。さっさと答えい」
「申し訳ございません。雪江、神宮寺雪江と申します」
豊和ではないとわかっていてもフルネームで言ってみる。何か反応があったらすごい。
「なにい、神宮寺だと。女中の分際で」
いちいちうるさい年寄りは無視する。
「まあ、よい。人それぞれ事情もあるだろう。雪江どのか」
「はい、では失礼いたします。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりください」
丁寧に挨拶をして、座敷を後にした。
二人は無言で厨房に駆け込んだ。
「なっ」
「うん、なに? あれ」
「そっくりだろ。あれはきっと豊和の祖先だぞ」
「確かに」
「雪江、久々に見て、惚れ直しちゃったか? 龍之介さんとどっちがいい?」
「なんで?ここで龍之介さんが出てくるのよ」
「好きなんだろ」
「・・・・まあ・・・・いいじゃん、そんなこと」
「定食のデザート、雪江が持ってけよ」
「うん」
頃合いを見て、再び雪江は楓の間を訪れた。
二人分のプリンを持って、襖の向こうに声をかける。向こう側から若い声が「うむ」と返ってきた。
そっと襖を開けると、定食の膳はきれいに食べられていた。気に入ってくれた様子だ。あのうるさい年寄り侍はいない。お手水にでも行っているのだろう。
空になった皿を片づけて、膳の上にプリンを置いた。その様子を若侍はじっと見ている。木製のスプーンですくって食べてくださいと説明をして、立ち上がろうとした。
「さて、どのようにすればよいのじゃ。ここへきてちょっとやってみてはくれぬか」
スプーンですくうだけなのにと疑問が生じたが、言われるままに若い侍の横へ移動し、スプーンを手に取った。
その手をいきなり捕まれ、引き寄せられた。
「あっ」
雪江はバランスを崩して、侍の方へ倒れこんだ。そこをすぐさま抱きすくめられる。
「なにすんのよ」
侍の顔が迫ってきた。思わず両手でその顔を押し返す。
「観念せい、声を出しても誰も来ぬ」
「えっ」
どういうことなのかわからない雪江。
「そちが望めば贔屓にしてやろう」
「贔屓? なにを贔屓に? なんで私がそんなこと、望むのよ」
迫ってくる顔を手で押しのける。また、顔が近づいてくる、押しのける。
そんなことを繰り返していて、雪江は段々と驚きが怒りに変わった。
侍が本物の豊和に思えてくる。
部室で見た雪江の親友とのキスシーン。このそっくりな奴も軽い。初対面でこんな行動に出てくる。
年寄り侍はトイレに立ったのではなく、座を外したのだった。この若いのがこういった行動に出ることがわかっていて。
なんだか女をバカにしているようで、むかむかしてきた。
あわや唇が・・・・迫るという時に、テニスの要領で侍の頬をはたいた。バッチ~ンという音がする。
侍もまさか雪江がそんな行動に出るとは思ってもみなかったのだろう。唖然としていた。隣の座敷からあの年寄り侍が飛び出してきた。
「狼藉者め」
と、傍らの刀を手にする。
「そこへなおれ」
さすがの雪江も刀を見て血の気が失せる。
そこへ騒ぎを聞きつけてきた徳田が駆けてきて、畳に額をこすりつけて言った。
「お侍さま、どうかご勘弁を。この者の不始末はわたくしの責任でございます。どうか命だけは」
その騒ぎに他の座敷からも客たちが顔を出していた。しかし、興奮しまくっている年寄り侍は唾を飛ばしながらわめいていた。
「ええい、ならぬ。そこへなおれ、女子の分際で・・・」
「よい」
若い侍が年寄りの刀をさえぎった。
「なにもなかったのだ。この者はただ、膳をひっくり返しただけだ」
「はっ? しかし・・・・」
年寄りはまだ雪江を睨んでいる。
「わしに恥をかかす気か。このわしがなにもないと言っておるのだ」
「ははあ」
訳のわからないという顔で、しかたなく手にしていた刀を畳の上に置いた。
「騒がせてしまってすまぬ」
「とんでもないことでございます。こちらこそ粗相がございましたこと、お詫び申し上げます」
徳田は丁寧に述べて、また頭を下げた。
徳田は茫然としている雪江を連れて、ようやく厨房へ戻った。
「冷や汗もんだ」
「ごめん、つい」
「いや、俺もおもしろがって、一人で行かせちまったから。悪かったな。しかし、侍って怖いな」
「うん、怖い」
その侍たちは帰りがけにわざわざ雪江を探して、厨房にまで入り込んできた。
「あ」
末吉など話を聞いていたから、また斬りかかられるのかと思い、鍋のふたと菜箸を持って雪江の前にはだかる。
「雪江殿、今日はすまなかった。今後はもうあのようなことはせぬ」
「はあ・・・・」
「また来る。雪江殿の顔を見に」
「伸治郎さまっ」
年寄りがたしなめるが、伸治郎と呼ばれた侍は雪江を見つめて店を出ていった。
{長屋内}
雪江の説明と末吉の説明がついて、やっとなにがあったのかわかった。
末吉が何度も最後のセリフを口にする。
それでも侍を殴るというのは普通の女子ならやらない行動だった。
龍之介と小次郎もあきれ顔でいる。
「侍に狼藉を働く女子」
ぽつりと末吉が言う。雪江が睨む。
「また来る。雪江殿の顔を見に」
末吉がまた繰り返した。
「っるさい」
末吉は、雪江が小突こうとしたのを避けて逃げ、鍋を持って料亭へ帰って行ってしまった。
四人は無言だった。
心なしか龍之介がイライラしているように見える。すると小次郎がハラハラするのだ。
向かいの長屋から、お絹を呼ぶ声がした。母親らしい。
お絹が出て行った直後、小次郎も隣の長屋へ戻って行った。甲斐へすぐさま、文(手紙)を書かなければならないというのが理由だった。
なんとなく、申し合わせたかのように龍之介と雪江は二人きりになった。
龍之介が火鉢の上に鉄瓶を置いて、その中へ酒のお燗をする。酒が温まる間、二人は無言だった。龍之介が盃の代わりに湯呑茶碗を持ってきた。
半分くらい注いだものを雪江に差し出す。
「いつもなら、旅籠や料亭で起こったことを話してくれていたが、なぜ今日は言わなかった?」
「言ったじゃない」
「それは末吉が洩らしたから仕方なく・・・だろう」
それはそうだ。末吉が言わなかったら・・・・話さなかったかもしれない。少なくとも今日は。なんとなく言いづらかった。
前のボーイフレンドに似た人があらわれたのである。すったもんだがあったが、意味ありげなセリフを残して帰っていった。
雪江としても状況を消化しきれていないのだ。だから、それまで龍之介には内緒にしておきたかった。
「その侍は今日が初めてなのか」
「うん、そんな感じだった。前に来ていたら徳田くんが騒いだと思うし」
「またくると・・・雪江の顔を見にくると申したそうな。この次も雪江が座敷まで料理を運ぶのか?」
「えーわかんない。そう言われたら断れないと思うし、そうするかも・・・・。でもね、次の時は必ず他の人と一緒に行くから。それなら大丈夫でしょ」
名案だと言わんばかりの雪江のいうことに、龍之介はちびりちびりと酒を口に含む。肯定もしないし、否定もしない。完全にポーカーフェイスだ。
「雪江だけそこに残れと言われたら?どうするのだ」
「え・・・・」
「一緒にいた女中は言われたままに下がらなければならぬ。さあ、どうするのだ」
雪江は答えに詰まってしまった。
「あそこは他の水茶屋と違うと思っていた故、安心して雪江をやれるのだ。一度でもそんなことがあったらな・・・・もう・・・・あそこでは働くな」
そう言って、残っていた酒を一気に飲み干した龍之介であった。
雪江は信じられなかった。確かにそういう場面は起こり得るが、せっかく楽しく働いていた料亭をやめろと言われるとは思ってもみなかった。
「そんな・・・・。あのお侍さんは悪かったって言ってたわ。謝ってくれたし、もうこんなことはしないって言ってくれたのに」
龍之介の表情は固い。
「そのような口約束、あてになるものか」
「侍なのよ。そんなに簡単に嘘をつくの? 男に二言はないって言うじゃない」
「知らぬと言われたらどうするのだ」
龍之介も意固地になっているようだ。
「じゃ、侍ってそんなにいい加減で威張りくさってるの? 皆そうなの?」
「無礼を申すな。そんな侍ばかりではない」
「もうわかんない。侍ってなんなのよ」
「知らぬ」
龍之介の答えもめちゃくちゃである。
「なによ、男のジェラシーなんてかっこ悪い」
思わず叫んでしまったが、すぐに口をふさがれた。
龍之介は収拾のつかないやり取りに、唇を重ねることで雪江の口を封じたのだった。
それは一瞬のことであったかもしれないが、長い時間そうしていたかもしれない。やっと龍之介が放してくれた。
「殴らないのか?」
龍之介が間近で言う。
「素早くて、手がでませんでした」
と雪江が笑うと龍之介も笑った。
「じぇらし(ジェラシー)とはなんだろうか」
「あ、それは・・・・」
「この世には学ぶことがたくさんあるようだ」
「おっ母さんが焼き芋をくれたよ」
とがらりと戸が開いて、お絹が帰ってきた。
あわてて離れる龍之介と雪江。まったく、目を放したら二人何をしているかわからないとばかりにギロリとにらまれた。
隣では小次郎が聞き耳を立てていた。気を利かせて座を外したものの、龍之介と雪江がどうなったか気になっていたのだ。盗み聞きをする気は毛頭なく、ただ純粋に龍之介のことを心配していたのだ。
お絹が戻ったのなら、小次郎も戻ることにした。
長屋にはプライバシーなどないのである。