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江戸の火事と末吉の母の面影

 寒さで背を丸め、幽霊のような表情の雪江も、朝の旅籠の掃除をバタバタやっていたら、いつもの雪江に戻った。それに末吉がくれた温かい石、懐炉かいろもある。それは末吉がかき集めた落ち葉を燃やし、その中に石をいれて焼いたものである。布でくるんであるのでそれほど熱くはない。


 真冬になると手が切れそうな冷たい水で仕事をしなければならないこともある。そんな時は時々この懐炉で温めているらしい。

「末吉に必要なんでしょ」

と言うと、

「おいらは大丈夫。まだそれほど寒くない。雪江ねえさんは女子おなごだし、弱いから」

と笑って行ってしまった。


 朝の掃除が終わり、料亭のランチの仕込みまで時間があった。雪江は旅籠の事務所に呼ばれた。関田屋の隠居、浅倉がきていた。


「よっ雪江。なんだなんだ、その顔は。十年も年を取ったみたいだぞ」

 まだ、幽霊のような余韻が残っていたのだろう。

「それでも先生よりは若いので、かまいません」

 そう言って、ぷいと顔を背けていた。いきなり浅倉に笑われて、機嫌がまた悪くなった。


「はっはっ、そう怒るな。朝晩、かなり寒くなったから雪江んとこにもいいものを届けておいたぞ」

「えっいいもの?」


「ストーブと湯沸かし器と毛布ってところかな」

「え~そんなのあんの? この時代に」

「あるある。ストーブは箱火鉢。炭をおこして灰の中で火加減を調節していく、ほら、客室にも丸い火鉢があるだろう。あれの大きいやつだ」

「ああ、なるほど」


「湯沸かし器は、その火鉢に鉄瓶をかけておけば、いつでも熱い茶が飲める」

「鉄瓶?」


「鉄でできているやかんだよ。少し大きめのを用意しておいたから」

「ありがとう、先生」


「そして、毛布は冬用に綿をいっぱい詰めて縫ってもらった懐巻きだ。今使っているものの上に掛ければいい。お絹ちゃんに注文しといたからもうすぐ出来上がるだろう」

「あ、そういえばなにやら縫ってた」


 この時代の掛け布団は今のような毛布タイプではない。綿入れ、半纏はんてんの裾の長いものを掛けて寝ていた。


「陶器でできている湯たんぽもあるぞ」

「お湯を入れて足を温めるものね。すごくうれしい」

 今夜から寒さにふるえずに眠れると喜んでいる雪江をみて、

「お絹ちゃんが一緒だから大丈夫だとは思うが、一応言っとくぞ。夜寝る時、外出する時は火鉢の火は消しておくこと。炭も安くないし、怖いのは火事と一酸化炭素中毒だ」

 火事はわかる。一酸化炭素中毒って・・・・聞いたことがあるけど、ピンとこない。


「あ、わかった。練炭自殺とかの・・・・」

「そうだ。時々換気をするんだぞ」

「うん」

 少し神妙な顔になる雪江。


「江戸時代の火事は頻繁に起こっている。半鐘の鐘が鳴ったらすぐにこの中州に逃げてこい」

「うん、わかったけど、もしここも危なかったら?」

 雪江の中の、江戸の地理はそう広くない。


 浅倉はグンと声をひそめる。

「ここの日本橋中州はな、今の老中、田沼様の時代に埋め立てられて町ができたんだ。寛政改革まで繁栄したところだ」

 なるほど、この辺りは最近できたばかりの店や建物ばかりが並んでいるわけだ。

「寛政改革までって、その後は?」


「取り壊される。ここを埋め立てたから上流で洪水の被害が起こってるんだ。それにここは水茶屋も多くなり、風紀もみだれているからって次のご老中がね・・・・」


「じゃあ、先生はここが将来取り壊されることを知っていて、旅籠と料亭を建てたの?」

「しーっ声が高い」

 雪江はしまったと口に手をあてて、辺りを見回した。

「そうさ、寛政改革で取り壊されるなら、それまでは火事で焼失しないってことだろう」

「あ、なるほど。でもさ、それって何年後のことなの」

「九年、もないな。八年後だ。一七八九年のことだから」

 なんとも浅倉の大胆な発想だった。


「もったいないよ。こんなに繁盛しているのに」

「だからだよ。ここは埋め立てられて注目されていた。人々がよってくる。そこへ店を開いた。この間に名前を売っておけば、他へ移転しても客はついてくるっていう筋書き(シナリオ)だ」

「すご~い。さすが先生」


「じゃあ、火事に巻き込まれそうになったら一応大事なものだけを持って、ここへ逃げてくればいいのね」

「そうだ、命よりも大事なものはないが、持ち出したい物を枕元に置いておけ、そうすれば暗闇でも持って逃げられるから」

「わかった」

 雪江の頭の中では、唯一持ってきたバックパックに大事なものを入れておこう、そしてそれを枕元におけば・・・というシナリオができてきた。


 そこへ末吉がひょっこり顔を出した。

「あ、雪江姉さん、こんなところにいた」

「なに?」


「裕子女将が髪結いに行くって」

「あ、わかった。昼は私が出ればいいのね」

「うん」


 いつもの末吉と少し表情が違ってみえた。

「どうかしたの?」

「うん・・・火事のこと、話してた?」

 雪江は朝倉と顔を見合わせる。

「おいら、おっ父さんとおっ母さん、火事で死んだんだ。その時のことを思い出しちゃったから」

「え・・・」

「まだ小さかった弟を助けに、家に入ってって・・・」


 浅倉が末吉の頭をなでる。

「末吉が火事の怖さを一番よく知っている」

 こくりとうなづく。

「それって何歳の時なの」

「六歳。いつもおいらが泣くとおっ母さんがきて慰めてくれたのに、あれからはいくら泣いても来てくれなくなった」


 シーンとする。今は確か十一のはずだ。五年がたっていた。その時の恐怖と悲しみは決して消えはしないだろう。

「でもな、淋しくないよ。おいらの家族はここにたくさんいるから」

 かわいいことを言ってくれる。


 徳田に聞いたことがあった。みなし子になった末吉はここで働く前、どこかの店でこき使われていたらしい。他の奉公人が嫌なつらい仕事をすべて末吉に押しつけたそうだ。末吉が栄養失調と過労でふらふらしていたところを浅倉が見つけて、お金を払って引き取ったということだ。


「じゃあ、私は末吉のお姉さんってことね」

「うん、雪江姉さんには本当の兄弟はいるのかい?」

「いないよ」

「へえ~。一人っ子か」


 雪江は肩をすくめる。

「まあ、そうだけど。母親が早くに亡くなったから」

「えっ、雪江姉さんもおっ母さんがいないのかい」

「私が生まれて四日目に亡くなったそうだから」


「ひゃ~っじゃおっ父さんは?」

「どこの誰かもわかんない」

「ひえ~っ、そんな」

 末吉は大げさに驚いていたが、やがてボロボロと涙を流し始めた。


「末吉、どうしたのよ」

「・・・雪江姉さんがかわいそうだ」


「なんで?」

「だって・・・おっ母さんの顔を知らないなんて、つらい時、誰の顔を思い出すんだよ」

 ワーワーと泣き始めた。

 そこへ旅籠の女将の久美子がやってきた。


「あらら、雪江ちゃん、また末ちゃんを泣かしてる」

「先生、人聞きの悪い。泣かしたことはありませんよ」

「あら、失礼」

 久美子は浅倉と一緒に笑っている。


 雪江は事務所の戸を閉めた。そして、ごそごそと懐から赤い袋を取り出す。

「私、お母さんの顔、知ってるわよ」

 お守り袋にしては少し大きめで、袋は手縫いになっていた。中から取り出したのは小さくカットされた写真だった。パウチ加工が施してある。


「他の人には内緒よ。私がこういうものを持っていること」

「へい」

 末吉は急に真顔になり、ものすごく大事なものを扱うように、一度手を着物でぬぐってから写真を受け取った。

 浅倉と久美子も覗き込む。


 写真には若い女性が赤ちゃんを抱いている姿が写っていた。

 長い髪を後ろで束ね、少し顔色が悪いが穏やかな微笑みを見せていた。これが祖父の産婦人科医院で撮った母のたった一枚の写真だった。


「これ・・・・雪江姉さん? じゃなくて、雪江姉さんのおっ母さんなのかい?」

「そう、これを撮った翌日に容体が悪くなって亡くなったそうなの」

 裏には祖母の字で、綾さんと雪江と書かれていた。

「お母さん、美人ね。それにすごく若そう」

「うん、お婆ちゃんが言うのには、十八だったって。でも、すごくしっかりしていたそうなの」 

 

 末吉はいつまでも写真を見ていたが、気づくとまた泣いていた。

「やだ、今度はなによ」

「うらやましい。雪江姉さんが」

「なんで?」


「こんなにすごい絵がある。会いたい時にいつでも会えるじゃないか。おいらのおっ母さんは・・・・時々違う顔になっちまうんだ。夜中に思い出そうとしても思い出せない時もある。焦れば焦るほど他人の顔になっちまうんだ」

 ああ、わかる。それに末吉はまだ六歳だったのだ。記憶があいまいになっていてもおかしくはない。


 雪江はいいことを思いついた。

「先生、ペン、ある?」

 久美子が茶箪笥の引出しから、雪江が持っていたペンケースを取り出した。紙ももらう。


「末吉のお母さんってどんな感じの人? 長い顔、丸い顔だった? 誰か似ている人はいないかな」

 末吉はキョトンとしていたが、白目だらけになるほど黒目を上にむけて考え込んでいる。

「あ、裕子女将」

「え」

「少し裕子女将に似てる」

「オッケー」


 雪江は裕子の顔を思い浮かべて、紙にちょいちょいと描いていった。

 うりざね顔の涼しげな眼もとの裕子の似顔絵だった。漫画チックに簡単な線で描いてみた。

「へーえ、うまいもんだ。似てる」

 浅倉も久美子も覗き込んで、感心している。

「そうね、よく特徴をとらえているわ」

 雪江は絵というよりも、イラストを描くことが好きだった。

 しかし、末吉の反応は違った。そのイラストを見たとたん、

「こんなの裕子女将じゃない。おっ母さんでもないや」

と、突っぱねた。


 単純すぎるところが気に障ったのだろう。末吉にとっては神聖なる母の姿なのだ。

 久美子が筆をとりだした。硯で墨をすり始める。

「雪江ちゃん、筆で描いてごらんなさい」


「えーっ、先生。無理よ。私、ペンでしか描いたことないもん」

「大丈夫、ここまで特徴をとらえていたら、筆でも描けるわよ。一本の筆で太くも細くも描けるから」

 墨に筆を入れる。

「濃い線は毛先をキュッと搾って、墨をつけていくの。水が多ければ淡い線が描けるのよ」


 言われるままに指で筆の毛先を搾り、先をとがらせた。そこへちょいと墨をつけてみる。そして、思い切って顔の輪郭を描いてみた。なるほど、筆の扱いによって好みの太さの線が描ける。

 雪江は裕子の顔を思い出しながら、丁寧に描いていった。

 その絵は、裕子と言われると「なるほど」と言われるような絵だった。それほどそっくりには描けなかった。しかし、末吉はその絵を見て「おっ母さん」と大喜びだった。


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