寒さと雪江のホームシック 雪江・龍之介
先日、葵が甲斐へと旅立っていった。
十日ほど芝にある桐野家の下屋敷に滞在して、江戸見物を楽しんだ。若い娘だけあって、きれいなかんざしや小物、江戸で流行りの草履などを見てはしゃぎ、買い求めていた。
二十一世紀であれば、アクセサリーや靴を買うようなものだ。
龍之介と最後のあいさつをした時も晴れ晴れとした表情だった。今回の江戸入りで、葵なりに吹っ切れたのだろう。悩んでも仕方がないことはもう悩むまいと、龍之介への思いに終止符を打ったようだ。
孝子は侍女と共に、そのまま下屋敷に留まることになった。十六年前のことをさぐるとはりきっている。事件の詳細が明らかになるまでは帰らないとも言って、下屋敷の家臣を苦笑いさせていた。
そんな孝子は当時のことを知る唯一の存在であり、雪江たちにとっては頼もしい限りの人だった。
雪江たちはやっと元の落ち着いた生活に戻った。いつも通りに起きて、いつものように仕事に行く。そしてだいぶ寒くなった。
雪江が江戸時代に迷いこんでから、早くも二か月がたっていた。
今までは生きていくことに必死だった。早くまわりに溶け込もうと気をはっていた。
しかし、最近、旅籠や料亭の手伝い、長屋の生活などに慣れてしまっていた。不便さにも慣れてきたが、それが鼻についてきた。またもや、ホームシック、到来である。
それに夜は暗い。尋常でないほど暗いのだ。街灯がないので、外のお手洗いへ行く時は提灯を片手に行き、ぶら下げておく。それプラス、寒さが雪江をもっと不安にさせていた。
スイッチ一つで明かりの灯る家へ帰りたい。居間へ行けば、祖父母が炬燵にあたってテレビを見ているあの家へ帰りたかった。
祖父母は今頃どうしているだろう。行方不明になった雪江を心配しているだろう。探しているだろう。
それとも・・・・パラレルワールドのように、初めから雪江たちは存在しない世界になっているのかもしれない。
祖父母のことと、これからの雪江自身のことが不安になり、生活の一つ一つが嫌になり、億劫になっていた。
ただ雪江は一人ではないということが救いだった。
お絹は姉のお信乃が婚家へ戻ってからは淋しいようで、雪江のところへ入り浸りとなり、最近はずっと一緒に寝起きをしている。お絹の長屋は着物の仕立ての仕事場になっていた。
今朝もお絹は暗いうちから起きだして、四人分の朝餉の支度をしていた。
雪江が起きてきた気配を感じたのだろう。振り返りもせず、言う。
「雪江、起きたかい。顔を洗ったら、たくあんを切っとくれ。いいかい、うすく、うす~くだよ。この間みたいに分厚く切ったら承知しないからね」
はいはいと生返事をして外へ出る。
旧暦ではまだ神無月に入ったばかりだが、実際には十一月に入っている。
外の空気は凛としていて寒かった。外トイレは本当にキツイ。これからもっと寒くなって、風も吹いて、雪も降って・・・・。真夜中におなかが痛くなったらどうしよう。それでも提灯片手に、外へ出なければならないのだろう。泣きたくなってくる。
温かい家、暖房のついた部屋、明るい照明。そんな生活が当たり前だった。夜なかに近くのコンビニで、温かい肉まんを買うこともできた。なんて幸せだったんだろう。
眠れない夜でもケータイで友達とおしゃべりしてた。明日の学校を思うとちょっぴり疎ましくなり、行きたくないなんて思ったこと、後悔している。今受けている仕打ちはそんなことを思った罰?
冷たい水で顔をさっと洗う。全身に鳥肌がたった。
以前は、洗顔フォームで念入りに洗っていた。化粧水、乳液も付けて、お肌の手入れをしていたのに、今はさらっと洗い、お絹がくれたへちま水を顔につけるだけだった。
お洒落に程遠い現状も悲しくさせた。
井戸のまわりには、近所の子供たちが騒いで走り回っているが、雪江の眼中には入っていない様子だった。
【龍之介】
龍之介と小次郎は、近くの寺の境内で剣の稽古をしてきた。一日たりともおろそかにはできない。稽古をしないと剣の腕が鈍るような気がして嫌なのだ。
夜でも動けるよう、朝暗いうちから稽古に打ち込んでいる。
ひと汗かいたので、凛とした空気が心地よい。
今朝は、小坊主たちが掃除や朝餉の支度の合間をみて、龍之介たちの稽古を見ていた。小坊主の中には、武士の生まれだが事情があって寺に入れられた者もいる。二人の朝稽古は目を引くのであろう。いつもよりも小坊主たちの人数も多かった。
小次郎が打ちこんだ木刀を避けようとした龍之介が、勢い余って見物していた小坊主の中へ飛び込んでしまった。
そのとたん、ワーワーキャーキャーと大騒ぎになった。小坊主と一緒に龍之介までが和尚に叱られてしまった。これからは小坊主たちも警戒して遠巻きで見ることだろう。静かでいい。
二人はその時の光景を思い出してはくすくす笑っていた。
龍之介もやっと元の落ち着いた長屋生活に戻った。
雪江が迷いこんできて、早二ヶ月。いろいろかき回されたが、そんな生活にも慣れた。町人たちの生活もそう捨てたものではない。気ままで自由で。
しかし、この生活がいつまで続くかはわからない。新春(新年)には江戸屋敷に戻らなければならないだろう。いつまでも元服を待たせるわけにはいかなかった。
最近では兄の正重が「甲斐での様子はどうか」と龍之介へ直接、文(手紙)をくれる。そのたびに、甲斐にいる小次郎の配下の者に甲斐の様子を教えてもらい、返信している状態だった。
先日は「陣屋(大名の藩庁がおかれた屋敷。城を持たないため)の裏山の紅葉の様子を教えてくれ」などと細かいことまでを書いてきて、冷や汗が出る思いをした。
長屋へ戻ると、井戸の前に突っ立っている女子が目に入った。
背中が丸くなっていて表情もなく、幽霊のようだ。よく見るとそれは雪江だった。
小次郎も思わず顔をしかめて、
「若、あの状態の雪江殿にはあまり近づかぬ方がよろしいかと存じまする」
きっと夜だったら、龍之介の目にも雪江のまわりに青い鬼火がいくつも見えたかもしれない。
龍之介たちが声をかける間もなく、中からお絹が出てきてガミガミやっていた。
「まったくもう、この娘ったら。また、里心がついちまって。仕方がないけど・・・・。ご飯、食べて、気を取り直して仕事へ行くんだよ」
ああして世話をやく者もいるから、雪江のあの状態も二、三日で納まるだろう。
雪江は重い足を引きずるようにして、中州へ出かけて行った。
別段心配していたわけではないが、小次郎が笑いをこらえた様子で言う。
「雪江殿なら心配ご無用でござります。旅籠へ行けば、あの落ち込んだ氣を周りに撒き散らして、他の人からいい氣を取り入れて帰ってまいります。あの方は落ち込むのも簡単ですが、上がってくるのも早い」
「い、いや、別に心配をしているわけではないぞ」
あわててしかめっ面をする龍之介であった。
長屋の屋根でコトリと音がし、かまど上の煙を逃がす小さな戸から文が落とされた。
小次郎がすぐさま拾う。そして、上を見てうなづいた。屋根の上の気配がたちどころに消える。
「若、姉上からでございます」
龍之介がさっと目を通す。
「昼に中州、離れにて」