せつない女心
孝子との話が終わると、徳田と裕子は大急ぎで厨房へ戻っていった。夕餉の支度にとりかかる時間が過ぎていた。
あまり役にはたたないが、雪江も二人の後を追って厨房へ入る。
旅籠の客の夕餉の支度は、他のスタッフがすでに始めていて、そちらには手がいらないようだ。
徳田は孝子たち一行の夕餉の支度にとりかかる。今夜のメインは海老フライと鮭のコロコロコロッケで、もうすでに下ごしらえが済んで揚げるだけになっていた。
雪江は徳田たちの仕事ぶりをちらちら見ながら洗い物をしている。
こういう時の徳田は、表情も真剣で、あの巨体なのに軽やかで無駄な動きがない。そして、そんなときに裕子が徳田を目で追っているのだ。裕子も頼もしいと思える瞬間なのだろう。
海老フライがきつね色に揚がる直前に、徳田から合図が出される。それはご飯を盛るタイミングだった。
孝子、葵たちのお膳が出来上がった。今宵は龍之介と小次郎も一緒に食べていくから、もう二膳も追加されている。それを速やかにベテランの給仕役たちが離れへ持っていった。
雪江はお茶を持って、少し後で離れへ入っていく。
孝子は、初めて見る海老フライに目を丸くしていた。葵もフライのサクサク感が気に入った様子だった。
龍之介と小次郎は、江戸の町を歩いているから、別段天ぷら自体は珍しくはないが、海老フライは初めてである。自家製のタルタルソースをたっぷりつけて食べていた。
座敷は今までになく和んでいた。特に秘めた話をした後の孝子と小次郎の雰囲気が変わっていて、葵を驚かせた。
いつも何か叱られるのではないかと、自分から口を開くことがなかった小次郎が、酒の力も手伝ってか饒舌で、江戸での話や先日の月見宴会騒動などの話もしていた。こうした様子の小次郎は二十歳前後の若々しい青年に見えた。
しかし、その場にいなかった葵はなにがそうさせたのか戸惑っている様子だった。
孝子に調子を合わせて笑顔を作っているが、自分だけ疎外されたという思いが、葵の表情をぎこちなくさせていた。
雪江は、旅籠の泊まり客の下げられたお膳の食器を洗っていくディッシュウオッシャーだ。それを”モンチッチ”こと末吉が水気を拭いて、棚に戻していく。今夜は旅籠の客が多く、見る見る間に食器の山になっていた。
「早くしておくれよ。雪江姉さん」
末吉は顔をくしゃくしゃにして言う。この癖がまだ若いのに猿のような皺を作る原因だ。
むかっとする雪江。
「あんた、モンチッチの分際で、私に早くしろって言えるの?」
「じゃあ、モンチッチってなんだよォ」
「っるさいわね。ひゃ~あ、またお膳が下げられてくる」
少し落ち着いたかと思うと、今度は離れの食事が終わったようできれいに食べられたお膳がかえってきた。みんな、残さずに食べてくれたのだ。
なんとなく、江戸の人々に二十一世紀の味が認められた気がしてうれしかった。
なんとなく大役が終わり、ホッとした雪江。龍之介たちはいつ長屋へ帰るのだろう。暗くなるまでいるのなら、雪江ももう少し手伝ってから一緒に帰ろうと思っていた。
ふと気付くと、厨房を不安そうにのぞきこんでいる葵がいた。
雪江と目が合って、安堵の笑みを浮かべる。
「葵様、いかがなされましたか。お茶のお代わりでも・・・・」
雪江のとんちんかんな言葉に、モンチッチが吹き出す。その顔に投げた雑巾を命中させる雪江。
武家の娘がお茶のお代わりをほしくて、わざわざ言いに来ることはありえないのだ。
「少しよろしいか」
それは雪江に話があるが、時間が取れるかという意味だとわかった。
「はい、モンチッチ、後はよろしく」
「ウオーイ」
雪江は前掛け(エプロン)で手を拭いて外し、タスキも外した。(着物姿で働くときは袖が邪魔になるため)
少し緊張する。葵がなんの用だろう。
葵の後をついていくと、昼過ぎに龍之介と話していた中庭に出た。
話は周囲に聞こえないが、ここは目立つ。
葵は池の前に立って、少し暗くなってきた空を見上げた。
「雪江殿は龍之介様と一緒に暮らしておるそうじゃな」
「えーと、一緒といえば一緒ですが、狭い長屋に間借りをさせていただいております」
考えながら慣れない言葉を使う。舌を噛みそうだ。汗も出てくる。
「わたくしが龍之介様の許嫁だったことは知っておるか」
「はい、存じております」
雪江にしてはまずまずの話術。
葵はずっと空を見上げている。雪江も見るともういくつか星が瞬いていた。
「わたくしは来月、嫁ぐことになっている。龍之介様にはもう二人きりで会えまい。そう思ったら、いてもたってもいられなくなり、甲斐から出てきたのじゃ。たったそれだけのためにな」
「はあ」
自分でも間の抜けた返事だと思うが、なんと言っていいかわからない。
「愚かな女子と笑ってくれてもよいぞ。武家の女に生まれたからには、家が決めたところへ嫁ぐ。たとえ、好いたお方がいてものう」
「はい・・・」
「このわたくしは、生まれた時から龍之介様の許嫁として育てられたのじゃ」
「え・・・・」
いつの間にか葵が雪江を真っ直ぐに見ていた。その目には怒りの色が表れている。孝子ならそれもオーラでわかるのだろう。
雪江は一歩後ずさりした。
「正式にそうなったのはむろん、わたくしが十二歳のころだったが、まわりの者たちが幼いころからそうなると言い、お似合いの二人とも言われた。あの孝子殿もそう言っていたのじゃ」
龍之介は次男だ。今、藩主を務めている殿さまは年が十八、九も離れている嫡男の正重だった。
「なぜ、そうならなかったのですか?」
あらましは耳に入っていたが、改めて聞いてみる。
「正重様にお子が・・・跡取りがおらぬ。ご正室は五年前に身罷られた。側室もおられぬ故、まわりが側室を作るようにと勧めたらしいが、頑として首を縦に振らなかったそうじゃ。わたくしの母はぽつりと言った。あのお方は、まだ忘れられぬのじゃなと」
「あのお方?」
「あのお方とは殿のことじゃ。まだ忘れられぬということが不思議に思い、心に残っていたのだが、その時はわからなかった。今思えば、殿には好いたお方がいたということなのかと」
「その人のことを忘れられないから、他に側室を作らなかったということですか」
「たぶん・・・・そのように思う。正重様が、龍之介様を桐野家の跡取りにすると決めた。それならば、ゆくゆくは藩主となられるお方。家老である父が恐れ多いと申し、破談にした。龍之介様には桐野家と同格かその上の家柄から御正室を迎えなければならないとな」
幼いころから、龍之介の妻になることを夢見てきたのだろう。幼心にも親兄弟への愛情とは別の感情が芽生えてきていると思う。それが突然、消えてしまった。さぞかし、つらいことだろう。
だから、葵はすぐに嫁ぐことになったのだと思う。一日も早く龍之介への思いを断ち切るために。
龍之介はどう思っているのだろうか。昼間、中庭での様子だと葵ほど未練があるようには思えない。破談になった葵が、どうしてわざわざ江戸にまでくることになったのかわかってはいないだろう。葵が龍之介に抱きついたのも、自分から飛び込んでその思いを伝え、もうこれでいいと自分なりの終わり方をしたのかもしれない。
それならば、どうして雪江が葵に呼ばれなければならないのか。
空は藍色に満ちてきれいだが、中庭は足元が見えないくらい暗くなっていた。旅籠の女中の一人が、そっと灯篭に火を入れてくれた。
葵は、揺らぐ明かりの中で雪江をキッと睨んでいた。ドキリとするくらいキツイ目だ。しかし、雪江にはそんな目で見られなければならないような覚えはない。
なにか話で気を反らせようかとも思うが、なにも浮かばずにそのまま立ち尽くしていた。やがて、その葵の目から力が消え、涙がこぼれ始めた。葵自身もそれに戸惑い、あわてて懐紙を取り出して涙をふく。
「不覚じゃ、このような醜態を見せてしまうとは」
葵は平気な顔をしようとするが、涙は止まらない。無理にそうすればするほど、心が苦しくなるのに。
「泣きたい時は我慢しないで泣いていいと思います。涙には・・(ストレス分子と言いかけて考えた雪江)涙には心の中にたまった鬱積を流してくれると聞きました。涙が出るならば出してしまった方が、後にからりと晴れるかと思います」
そう言って、雪江は自分自身の言葉に百点満点をつけた。
葵が肩を震わせて泣いていた。雪江はその肩を抱きしめてあげたいと思ったが、身分の高い人に軽々しく触れることはしてはいけないと知っている。
「なぜ、なぜなのじゃ。わたくしではなく、なぜ雪江殿なのじゃ」
葵が泣きながら言う。
なにがなんだかわからない雪江はきょとんとする。
「龍之介様の見る目が違う。わたくしを見る目と雪江殿を見ている目はまるで違うのじゃ。それが許せぬ」
「え、いや、あの、その・・・・」
さっき、百点満点を出した雪江はもう零点なみの口調になっている。
「雪江殿が、わたくしよりも身分が上で、おきれいで、身のこなし方もしなやかで落ち着いた女性ならば、諦め切れる。しかし、なぜ赤髪の島田も結えぬ、町人の女子なのじゃ」
あー、それね、つまり、雪江が葵よりも劣っているのに、なんで龍之介と一緒にいるのかっていうジェラシーなわけ・・・と気づいた。
雪江は面とむかって、龍之介にふさわしくないと言われているのだ。わかっているが、傷つく。
葵の結ばれなかった恋が、身分違いの雪江と結ばれることの方がもっと可能性は低い。それなのに葵は雪江にジェラシーの炎を燃やしていた。
葵は苦しい胸の内を出してしまったようで、涙を拭いて顔をキリリとさせた。
すごい、この人本当にすごい。
「すまぬ。無礼を申した」
「えっ、いえいえ。とんでもない・・・」(この返事は三十点)普段ならば全然大丈夫と言っているところだ。
「雪江殿がうらやましかったのじゃ」
「私がですか?」
「そのように・・・自然に龍之介様と接することができるからじゃ。わたくしにはできぬ。こんなことを言ったら嫌われてしまうやもしれぬと考えてしまうのじゃ。失態を見られたらもう龍之介様のお顔を見られぬ」
ああ、その女心はわかる、わかりすぎるほどに。ずっと憧れていた豊和に対する雪江がそうだったからだ。豊和の前では完璧な女の子でいたかった。無理して髪型も好みのタイプに合わせ、その頃の雪江の顔は豊和用のマスクで覆われていたと思う。
豊和もそんな雪江に気づまりをしていたんだなと今、気づいた。知らぬ間に自分が豊和の完璧なガールフレンドを演じ、豊和にも完璧を求めていたのかもしれない。
誰かに聞いたことがある。一番好きな人と結婚するよりも二番目に好きな人と結婚する方がうまくいくと。
その時はその意味がわからなかったが、今ならわかる気がした。
一番好きな人の前では、自分を百パーセントさらけ出せない。結婚はそんな表面だけでは生活していけないのだ。疲れた時に見せる表情、訳も分からず怒鳴りたくなる時、それを出しても受け入れてくれる人。本当に選ぶべき人は、自分のいいところも悪いところも分かっていてくれる人なのだ。
「雪江殿、たぶんそなたが望めば、龍之介様のおそばにずっといることもできよう」
「私がですか?」
「左様、側室としてだがのう」
「側室」
ドラマで見た大奥を思い描く。
「御正室は別にお迎えになるであろう。若殿には次なる跡取りが必要となる。男児は多ければ多いほど家臣も安心できるのじゃ」
雪江は葵の言葉を何度も反芻した。正室とは、正式に結婚した本妻であり、側室とはその愛人? いや、二十一世紀での愛人とはまた違う。一夫多妻の国の第二夫人ということだろう。そんな話、雪江には全く関係ない話だと思っていた。これは女性を卑下していないのか。
「側室って、正式な妻以外に作る女性のことでしょう?それって正室に失礼じゃないんですか?」
雪江はなんとなく、怒り口調で言う。
「あまり、よくは思わぬだろうのう。だが、お家存続のためには仕方のないことなのじゃ。血族が多いほど結束が固くなる。いわば、側室は殿に仕える家臣であろう」
「そうですね、そうなんですね、そうですよね。じゃあ、女は子供を産む道具なんですね」
「雪江殿、お言葉が過ぎますぞ。これは武家の女性への侮蔑にも聞こえる」
葵が少々きつく言う。
「失礼しました。男の人って複数の女性を同時に愛せるんでしょうか」
葵は雪江の強い口調におされ気味になる。
「まあ、そうよのう。時には愛情の波が高かったり、低かったり・・・するであろうな」
「そうですよね。私は同時に二人を愛せません。一人だけを愛したい。もしも、もしもですよ、私が龍之介さんの側室になるなら、私だけを見て、私だけを愛してほしいと思います。でも、御正室がいる。龍之介さんはそちらにも愛を見せなければならない。それが私には耐えられるかどうかわかりません」
「雪江殿・・・・」
葵にも雪江の怒りの意味が通じたようだった。
その背後から、ふいに孝子が現れた。
「殿ばかりを責めるのは間違いじゃ」
「孝子さま」
「もう暗くなり、外も寒かろうと声を掛けにきたのじゃ、少し聞こえてしもうた」
雪江は興奮していたので、孝子がいつからいたのか全く気づかなかった。
「もちろん、殿の中にも女好きもおるが、本当に一人だけを大切にしたいという殿もおるのじゃぞ。しかし、家の存続のために泣く泣く側室を持つということもな」
そうか、男性側にもその苦悩はついてまわるのだ。なんてプレッシャー、ストレスなんだろう。
「そこから生まれる苦難から、人間が学ばなければならないものは何なのだろうのう」
孝子の重い言葉だった。一生をかけて答えを見つけていくべき問題だと思える。
そう言えば、以前小次郎に励まされた言葉・・・確か姉上が教えてくれたと言っていた。するとこの孝子さまが?
「あのう、以前私は自分だけが不幸で、他の人のように笑える日がくるんだろうかって不安に思っていた時がありました」
葵も孝子も雪江の言葉に意外そうな顔になった。
「雪江殿が・・・そんなことを考えていたころがあったのですか」
「ほう・・・そなたも人の子よのう」
孝子もおかしそうに言う。
少しカチンとくる雪江。ちょっと待って。私って悩まないキャラ?
「私も他の人と同じように悩みます。まあそんな時に小次郎さんが、幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せがくると言ってくれました。そしてその言葉はお姉さまに教えられたと」
孝子は少し考えていたが、何かを思い出したようで笑みを浮かべた。
「そうじゃ、あれは母上がお亡くなりになり、小次郎が塞ぎこんでしまった頃のこと。母上はいつも笑っている小次郎を見ていたいのに、悲しい顔ばかりしていたら母上が悲しむ。笑うと気持ちが温かくなって、幸せになれるとな」
雪江には十六、七の孝子が幼い小次郎を不安にさせまいと笑顔を向けている姿が見えるようだった。孝子自身も泣きたかったと思う。笑うと幸せが来ると言う言葉は、自分にも言い聞かせていたのだろう。
「そのお言葉に元気づけられました。本当にありがとうございました」
丁寧に頭を下げる。
「なんの。成長したものよ。剣術しか能のない子かと案じておったが、人にそう言えるとは」
「小次郎さんは大人です」
「そうじゃの。人ひとりを笑顔に導くことができたのなら」
「はい」
「その言葉は、わたくしがあるお方から教わったのじゃ。本当にお美しく、優しいお方であった。人から受けた親切や優しい言葉は感謝し、今度は自分が他の人に同じようにしてやるのだぞと言っていた」
それも心に響く。できそうでなかなかできないだろう。
「孝子どの、そのお方とはわたくしの知る方でしょうか」
葵も気になったのだろう。
孝子は残念そうな表情で首を振った。
「そのお方は身罷った。本当に悲しかった。実の姉のように思っていたからのう」
「そうでしたか」
「雪江殿が・・・・よく似ているのじゃ。そのお方に」
「えっ私が?」
「静かに笑う顔、何気ない表情が時々ハッとさせられるほどに。龍之介様と喧嘩をされているときは別人だがな」
「孝子さま」
なるほど、それで孝子はちらちらと雪江を見ていたのだ。
「そのお方から教えられた言葉が、似た人へ伝わっていく、おかしなものよ」
三人は星を見つめて佇んでいた。
側室は家族には入らないそうです。家臣だということです。