誰もが心に傷を持つ 龍之介
突然、裕子が口火を切った。
「孝子さま、実を申しますと私たちはこの時代で生まれた者ではございません。ずっと先の未来から迷いこんできたのです。信じがたいこととは存じますが、孝子さまならわかっていただけるかと」
いつもの調子で淡々という。
龍之介も今の孝子なら、摩訶不思議なことも受け入れられると思うが、心のどこかではそんなことがあるわけがないと、はねつけられるのではないかと不安も持っていた。
孝子は驚いていた。
「未来と申すか。今より先の時代・・・と」
「そうです。今からおよそ二百年後の世から。この雪江と徳田、わたし。そして関田屋、旅籠の女将のお久美の五人が時間を遡ってきたのです。それも突然に。そして、私たちはそれぞれ別の時に現れました。まず、関田屋が、そして十六年前に徳田と私が」
「十六年前じゃと・・・」
孝子の言う新太郎が亡くなった年だった。龍之介も複雑な思いで聞いている。桐野家で起こったことだ。
「はい、その時私は見知らぬお方の姿を見ました。赤子の時、子供の笑った顔、剣の修行で涙を流している姿。すんなりとした長身の切れ長の目を持つお侍でした」
「ああ、そうじゃ、それは新太郎さまじゃ」
長い沈黙が続いた。孝子は孝子なりに、この見せつけられた大きな真実を飲みこもうとしているのだろう。
裕子が時間を遡ってきたと打ち明けたのは、孝子も自分の秘めたることを皆に告げたからだと龍之介は思った。
そして孝子は明らかに雪江のことを意識している。あの雪江の言動と行動に対してなにも言わないのはおかしいのだ。なにかあると思う。
まだ、長時間の正座に慣れていない雪江が足をもぞもぞさせることによって、場の空気が動いた。それをきっかけに孝子が口を開いた。
「なるほどのう。それで魂のことは納得がいく。裕子どのは今の我らの世に何かを忘れ物でもしたのじゃな。まるで元の魂が亡くなるのを待ってから舞い戻ってくるとは、本当によほどの理由があるようじゃ。それに・・・。」
孝子は真正面から雪江を見ていた。威圧感はないが決して隠しごとができない目で見つめられ、雪江はどうしていいかわからないが、目をそらすこともできずにいた。
孝子はそんな雪江を見て、ふっと笑った。緊張が解ける。
「それで・・・龍之介様もこの者たちが遠い未来からきたことをご存じだったのですね」
孝子の柔らかな物言いにうなづく。
「皆の者。この孝子にこのような大事なことをよく話してくれた。礼を申すぞ」
「もったいのうございます」
裕子が優雅に頭を下げた。あわてて徳田と雪江も頭を下げた。
「実はわたくしの母も同じように人に見えぬものが見えるお方だった。自分と同じものを持つと嘆いておった。そして、決して人には悟られるでないと」
小次郎の目が見開かれる。
「母上も・・・でございますか?」
「そうじゃ、そちは氣を鋭く感じるが見えぬ。わたくしは幼いころから人の頭上に色があるのを見ていた。人が笑ったり怒ったりすると輝きが違って見えるので、つい、口に出してしまったことがあった。それをおばばさまが(祖母)、たいそう気味悪がって。わたくしをまるで幽霊を見るかのようにして見ていた。そして何か凶事が起こるとわたくしのようなものがいるからだとお怒りであった。それが悲しくて、この力を呪った。いっそ、目など見えぬ方がいいと思ったくらいじゃ」
小次郎が悲しそうな表情になる。
「おばばさまがそのような・・・・信心深いお方でございました故」
「小次郎、わたくしはおばばさまを恨んではおらぬ。ただ、悲しかっただけじゃ。おばばさまがそうしてくれたおかげで、わたくしは決して他の者には悟られまいと努めたのじゃ」
「姉上」
「そうか、遠い未来ではわたくしのような者も堂々として生きておるのだな」
龍之介は孝子たちの祖母を知っている。わんぱくだったため、よく捕まり、小次郎が叱られた。叱り方は今の孝子とそっくりだった。
幼い龍之介は二人で同じ悪さをしても、いつも小次郎だけが叱られる理不尽さに気付いた。
ある日、祖母がいつものように小次郎だけを叱りつけている時、龍之介が「悪いのは二人、なぜ小次郎だけを叱るか」と喰ってかかった。小次郎の祖母は目を丸くして見ていたが、やがて笑い、「それでこそ、人の上に立つ御身分の龍之介様」と誉められ、その後は小次郎と共にこっぴどく叱られた。
そうだ、今の孝子とよく似ていた。
身内とはなんと厄介なものなのだろう。これが他人であったなら、それほど気にも留めないことも、身内であるが故に見過ごすことができないこともある。
人一倍、優しくしてほしいのに。
ふと、上座に座っている龍之介とずっと下にいる雪江と目があった。雪江はにっこり笑いかけてきた。
龍之介は、初めて雪江を見たかのようにドキリとし、心が騒ぎ始めた。苦しくなって思わず、プイと目をそらした。
ふいに雪江がきれいで輝いて見えたのだ。毎日顔を合わせていて、龍之介も遠慮のいらない雪江に少しづつ惹かれていることは気づいていた。そして、このままでいいのかもわからないでいた。
再び雪江を見ると、龍之介がそっぽを向いたことでふくれっ面になっている。感情が丸見えだ。おかしくてプッと吹き出した。
そんな龍之介と雪江を、孝子は見ていた。
気恥ずかしくて、あわててしかめっ面をする龍之介。
今度は雪江と徳田が何やら小声で話し始めた。この二人はまわりに聞かれたくない話であれば、もっと小声で話すべきなのだ。すべて丸聞こえである。
「雪江、言いたいことがあるなら皆に聞こえるように申せ」
孝子を意識して、かしこまって言う。
「なによ、なんだか知らないけど不機嫌なんだから。言いますよ、言えばいいんでしょ」
孝子に未来から来たとわかってから、雪江の言葉づかいも態度も元に戻っている。
それでも雪江は孝子に一礼をした。
「すみません、つい。あのう、すごい偶然だなって思ったんです。裕子さんと徳田くんが前世で、龍之介さんの家、桐野家の家臣だったってこと」
「そうね、雪江ちゃん。偶然は必然なのよ。これには意味があると思うの。雪江ちゃんもきっとどこかでつながっているはず」
雪江は裕子を見る。十分納得していないようだ。
裕子の言うとおり、偶然はなにかしら意味を持っていると龍之介も思う。
今回の葵の旅に、この孝子が気まぐれでついてこなければ、裕子たちの前世などわからなかっただろう。
「でも、裕子先輩、私は先輩と違って、ビジョンを見ていません。誰かの生まれ変わりとしてここへ来たんじゃないってことですよね。孝子さまも私のリーディングではなにも見えないって・・・。私は何のためにここへ来たのか」
雪江にしては珍しく、真剣に考えているようだった。
「私たちも元桐野家の家臣ということがわかっただけよ。それが今の私たちにどういう意味があるのかまではわからないわ。まあ、何かに引っ張られてついてきた・・・ような気がするけど」
孝子はそれらの会話を聞いていたが、
「雪江殿。今は何も見えずともそれは何もないということではないぞ。今はそれを知る時ではないということじゃ。その時がくれば、雪江殿の霧も晴れてこよう。焦るでない」
「今は知る時ではない・・・んですね。わかりました。ちょっと安心しちゃった」
雪江は本当に単純である。
一通りの話が終わったと思った。しかし、孝子は改まって裕子の方を向いた。
「裕子どの、いや、新太郎さまと呼ばせてくだされ」
裕子も背を伸ばす。
「あの時、新太郎さまは・・・騒ぎに起きてきたわたくしを庇って、刺客に斬られたのでございます。わたくしがあの場にいなければ、新太郎さまは亡くなることはなかったのです。なんと申し訳ないことを。わたくしのせいで・・・・」
思わぬ孝子の告白だった。
「孝子さまのせいではございません。それも運命でした」
裕子がそう慰めようとした。
「それは違うぞ」
龍之介は何かに背中を押されるようにして、話し始めた。
「孝子殿のせいではない。すべてはこのわしのせいなのじゃ。赤子のわしを刺客は狙っていたのであろう。あの時、命を失った者、傷を負った者、すべてはこのわしがいたせいで起こったのだ」
「若っ」
「龍之介様、なにをおおせられますか」
「そうであろう、すべては公にされず、ご公儀にも届けられなかった。あの時のことは誰一人として口にせず、亡くなった侍たちも病死ということになっていた。さらに、わしは江戸に留まらなければならない身分であったのにもかかわらず、その後に甲斐に移された。病いのためということでな。わしが江戸屋敷にいたら、誰かの都合が悪くなるのであろう」
孝子は小次郎をキッと睨む。
「小次郎、そちが若様になにか吹き込んだかっ」
龍之介は初めて孝子に声を荒げた。
「そうではない。小次郎は何もしておらぬ」
龍之介はハッとして声を落とした。
「そうではない。わしが・・・・。ほんの軽い気持ちで、なぜ甲斐に住むことになったのかをさぐり始めたことがきっかけだったのだ。誰に聞いても病いのせいと。江戸屋敷での騒動はなんとか知ることができたが、それ以上はわからぬのじゃ。当時、近江水口藩の加藤の家の者が出入りしていたということだけがわかった。それも必死で止める小次郎を振り切って江戸に出てきて、初めてわかった」
孝子は真っ青になっていた。
「甲斐大泉藩の方ではわしは江戸屋敷で修業をしているということになっている。そして江戸では甲斐にいることになっていたのだ。ある夜、小次郎が留守の時に加藤家の下屋敷を見張っていた。そこへ帰ってきた家来たちに見つかって・・・。腕には多少自信があったが、複数では歯が立たなかった。なんとか近くの松林に逃げ込んだが、足を取られてあわやという時に・・・」
龍之介が雪江を見る。それにふられて皆が雪江を見た。
「あ、その時に私が現れたってことね」
「なんと・・・無謀なことを、若様がそのような・・・・」
「いや、これはわしがなんとしてでも知るべきことなのじゃ」
龍之介の意思は固い。
ふいに孝子が扇子で膝を打った。ぴしゃりという音が響く。
「わかりました。孝子は甲斐には戻りませぬ。この江戸にしばらく留まりまする。わたくしも心にひっかかることがございます。若様とてなぜお命を狙われたのかわからぬままに桐野家の家督を継ぐのは危のうございます。真実を見極めるためにもわたくしは江戸にとどまりまする」
孝子の宣言に皆が驚愕したのは言うまでもない。