孝子と裕子の喧嘩
龍之介と葵が座を抜けて、孝子は後に残った小次郎にいろいろ意見をしていたという。
遥々甲斐から江戸に出てきたのに、旅籠に泊まらなければならないことや、上屋敷への参上はいつになるのか、それらは皆、龍之介と小次郎がなにやら重大なことを隠れて、何かをしているからだとか、いろいろと一方的に説教をしていた。
そこへ茶菓子を持ってきた裕子が入室しても、全く構わずに孝子はクドクドと小言を言っていた。小次郎は、ポーカーフェイスで謝るのみ。
裕子は突然平伏し、
「私は只の町人でございますが、御無礼を承知で申し上げます」
と始めたらしい。
唖然としている孝子や側近の前で、
「はっきり申し上げます。孝子さまの弟君、小次郎様もご身分が上である龍之介様でさえ、孝子さまに頭が上がらぬご様子。これではいつまでたっても孝子さまだけのご意見がまかり通り、お二人はなにか言いたくても言えないかと存じます」と裕子が言った。
孝子の顔色が変わった。それでもやめない裕子。
「お二人は孝子さまに重要なことを打ち明ける覚悟をされております。しかし、いざとなって、孝子さまに叱られるのが怖くてなにも言いだせないでいるのです。そこのところをどうかお考えください」
「わたくしが怖い?聞き捨てならぬ」
皆が縮みあがり、目を合わさぬように平伏した。
「小次郎、答えよ。そちもわたくしが怖いかっ」
小次郎は、肯定も否定もできずに頭もあげることもできない。
そこへ徳田と雪江が来た。
襖は開けっ放しで、中の声が丸聞こえである。中へは入室せずに襖の陰に座って様子を見る。
徳田は、今まで雪江が見たことのない真剣な表情でいた。握りしめた拳に力が入っている。一応、正座をしているが、いつでも動けるようにつま先を立てている。(合気道では座り技があり、ペタリと座らずにつま先を立てる。膝とつま先で移動をして、立っている時と同じ技をかける)
たぶん、裕子が無礼打ちにでもなれば、体を張って助けに行くつもりなのだろう。
うらやましいと思った。裕子にはこんなに思われている人がいる。そして徳田も、自分の命を投げ出す覚悟で守りたい人がいる。
孝子は立ち上がり、裕子に近づく。
「そちは確かここの女将であったな」
「左様でございます」
「では問うが、そちはわたくしが怖くないのかえ? 面を上げよ。わたくしの目を見て正直に答えよ」
「はい」
裕子はゆっくりと頭を上げて孝子を見た。わずかに微笑みを浮かべている。
「怖くはございません。ただ、孝子さまが憐れに思えてならなかったのでございます」
「なっ」
孝子の頭に血が上った。
「わたくしが男ならば、この場で成敗しておるぞ」
「私は孝子さまのことを思って申し上げているのです。それで斬られるのであればそれも運命、仕方がございません」
「うぬぬ、おのれ、言わせておけば・・・・」
「孝子さまのご心配はよくわかります。本当に心の底から龍之介様や小次郎様のことを、いえ、他の家臣の方々やお家のことまで考えておられます」
孝子が怒りで震える手を胸元にかけた。徳田の肩に力が入ったが、孝子が手にしたのは扇子だった。それを広げて、バサバサと仰ぐ。頭に血が上って暑いのだろう。
「そちにわたくしの心がわかると申すのか」
「はい、いつも誰かの心配していて、自分が厳しく言わなければいけないという気持ち、そして皆を守れるのなら自分は嫌われてもいいというお心も・・・・」
「そちに言われることではないぞっ」
「責任感のお強いお方なのですね。まわりの男たちが歯がゆくて仕方がない、何度となく男に生まれてくればよかったとお思いのことでしょう」
「ちょ、町人ふぜいが・・・」
「しかしながら、あまりにも口やかましくされますと、効果は半減いたします」
「効果?」
孝子のみならず、他のものも効果と聞いて、ハテナと考えたようだった。
「小さなことは一つひとつその場でいう必要はございません。一応の簡単な注意だけにしておきます。同じようなことが三度ほど続いたら、次に一発大きなカミナリを落とせばいいのです。この方がずっと効果的です」
ああ、裕子方式だった。毎回グチグチとやられるのもつらいだろうが、ニコニコ顔が一変して、一喝されるのもつらい。
「ふ~む、なるほど。その通りじゃ、仏の顔も三度までと言うからのう」
怒っていたはずの孝子の表情が明るくなり、目はきらきらと輝いていた。
「わたくしの夫など、小言に慣れてしまっていて、いつも話を半分も聞いておらぬ。だから、わたくしも負けまいとして声を荒げているのじゃ。今はわたくしの顔を見れば逃げだす始末で・・・」
どうやら裕子は小次郎がかわいそうで庇っていたのではなく、孝子に的確に相手を言いくるめる助言をしたかったらしい。
徳田からも力が抜けていた。足もペタリとつけて正座をしていた。緊張がほぐれている。
「静かに話せば相手も聞きます。相手にも話をさせます。相手が心を開いた時にズバっと言えばいいのです」
「なるほど、やさしく誘いこんで、安堵しているところを捕まえる・・・・ということなのじゃな」
「はい、その通りでございます」
孝子と裕子はニンマリと笑い合った。この二人は性格は違えどもタイプはよく似ているようだ。
裕子は丁寧に頭を下げた。
「孝子さま、ご無礼を申し上げました。どうかお許しください」
孝子はあわてて裕子の前に座った。頭を上げよと言わんばかりに、肩を抱き起こそうとした時だった。
バチっと静電気のようなものが走る。
孝子はその衝撃にに驚いて、後ずさりをした。
しかし、裕子は何事も起こらなかったように平気な顔で孝子を見ていた。
「女子の身でよく頑張れましたな。さあ、もう力を抜いて下され」
いつもの裕子の口調ではなかった。
孝子はその顔をじっと見つめて、涙を流していた。裕子は我に返って、一瞬なにが起こったのかわからない様子で、きょとんとしていた。