本気で好き?
雪江は龍之介との口喧嘩を、甲斐からきた家臣に見られてしまい、恥ずかしさのあまりに厨房へこもっていた。
徳田と他のスタッフがせっせと野菜の皮をむいたり、魚をさばいたりして夕食用の下ごしらえをしている。
「どうしよう、ヤバ~イ。あんなとこ、キャーッ。恥ずかしい。龍之介さん、今頃ものすごく叱られているかも・・・・。ね~、ね、ね、ね。徳田くん、私、後で不埒モノとして捕まっちゃうかも」
いつもなら一緒になって騒ぐ徳田だが、葵たちの一行の特別料理に真剣に取り組んでいるので、雪江のうるささに閉口気味だった。
「お前、お武家さまを勘違いしているぞ。なんで、武家の女性が不埒モノの雪江を捕まえなきゃいけないんだ? とにかくうるさい。これでも切ってろ」
長ネギの束をドンと渡された。
「できるだけ丁寧に薄く刻めよ」
シュンとなった雪江は、素直に「ハイ」とだけ返事をした。
徳田にも相手にされないので、言われた通りにネギを刻みはじめた。
厨房は静かになり、まわりのスタッフもホッとした様子だ。
葵たち一行には、甲斐では普段食べられないものがいいとの提案で、海産物を主に出すことになった。甲斐は山国なので、新鮮な魚介類は手に入りにくいからだ。
それに、武家の者たちは町人に交じって、屋台のモノを口にすることもない。
徳田は、あらかじめ関田屋と相談して、天ぷらではなく、パン粉で揚げる鮭フライや海老フライをメインにすることにした。
屋台の天ぷらはその場で揚げているので、熱々が楽しめる。しかし、出来上がった天ぷらをお膳に乗せて離れに運ぶ場合、どうしても冷めてしまうことになる。
しかし、パン粉で揚げたフライは、多少冷め気味でもサクサクした歯ごたえは変わらないと考えた。
明日は、新鮮な魚を刺身にして食べてもらうつもりだった。
この料亭には、氷室があった。いわゆる冷温貯蔵庫だ。冬の間に信州で凍った天然氷を仕入れており、料亭では冷蔵庫代わりに使っていた。
それでも朝仕入れた魚を一時、この氷室に入れておいて、その日のうちに使い切るようにはしていた。食中毒を防ぐためだ。
当時、信州には氷室が三か所あり、夏の間に切りだして使う。棒手振り(ぼてふり)の中に水屋というのがいて、夏に冷たい水を売る。これは氷室からの氷を使い、川の水に浮かべたことから、不衛生なため、年寄りなどが腹をこわしたらしい。ここから「年寄りの冷や水」という言葉が生まれたそうだ。
徳田は、裕子が前日に焼いたパンを生パン粉にするため、少し粗めにおろしている。
「なっそんだけ恥ずかしいって思うのは、やっぱ、雪江は龍の兄さんのことが好きなんだよな」
「えっ急になにを言うのよ」
あ、やばい、やばい。ネギ、太くなった。それに結構目が痛くなる。玉ねぎじゃないから大丈夫だと思っていたのに、涙が出てくる。(玉ねぎは明治以降、アメリカから日本へ入ってきた)
「そいで、ココだけの話、龍の兄さんとはどこまでいってんの?」
「え・・・」
目を真っ赤にし、顔も赤くなる。先日、喧嘩の末に抱きしめられたことを思い出していた。
他のスタッフも雑談をしていた声がぴたりと止まる。みんな、雪江たちの会話に興味があるのだ。
「別に、何にもありゃしませんよ。やだなあ。水痘の二人がいた時はそっちに泊まりこんでいたし、他の時はお絹ちゃんが泊まりこんでたから、期待されたことはな~にも起こっていません」
それを聞いて、他の者たちは一度に関心を失った様子、忙しそうにそれぞれの仕事に動きだした。
「なんだ、つまんね~」
「もう、なによ」
「あるだろう、普通は」
「ないったらないの」
「もう雪江の年齢なら、次々と嫁に行くらしいぜ」
「そう・・・・らしいけど。カンケ~ないし。今は涙が出てきて止まんないのよ」
「涙にストレス分子が含まれてるって知ってるか?」
「へ~え、涙を流せばストレスが減るっていうの」
「そうなんじゃないのか?」
と、徳田は二ヤリと笑って、長ネギの束を持ってきた。
「もっと切れば?」
喰ってかかろうとした雪江は、徳田が指さす方を見た。
「あ・・・・」
離れの屋敷と旅籠料亭の本館をつなぐ中庭に、龍之介と葵の姿があった。
葵は一生懸命に笑顔で話をしている。無理に作っている様子がここからの距離でもよくわかる。それを申し訳なさそうな表情でうなづいている龍之介。
二人の距離は、三人分くらい開いていた。
雪江は、葵がなにを話しているのかはわからないけど、龍之介と一緒にいたい、近づきたいと思っているのがわかる。龍之介の表情では、すでに葵の期待には沿えないと言っているのも同然だった。
龍之介は女心がわかっていないと、雪江は思った。
あまり優しすぎて誤解を生じてもいけないが、ある程度は好意をみせてほしい。久しぶりの再会なのだし。
いや、葵が近づいた。涙を流している様子。
そして、葵は龍之介の胸に飛び込んだ。
雪江の胸が締め付けられるように、苦しくなった。
あの二人は許嫁だった。もう別れているのに・・・・。これから何が起こるのだろう。
どうしよう。あの二人が復縁したら・・・・。龍之介が葵と結婚し、あの長屋を出ていくとしたら・・・・。雪江は一人ぼっちになるような不安にかられた。
どうやら、雪江はいつのまにか龍之介のことを本気で好きになっていたようだ。葵と復縁しようがしまいが、決して実ることのない恋だと知っているのに。
「雪江、元気出せ。ショックはわかる、わかるぞ」
徳田も二人を見つめて言った。
中庭の二人は、時が止まったかのように抱き合ってそのままでいた。
「あの葵さんって、龍の兄さんと破談になった後、すぐに別の縁談がきたそうだ」
さすが、高性能のアンテナ並みのニュースキャッチャー徳田。情報が早い。
「かわいそう・・・。あの人、私より若いよね。葵さん、その縁談を受けるの?」
「ばっかだな。武家では家と家が縁組を組むんだぞ。両者の意見なんて関係ないんだ。親がよしと決めたら、縁談が成立する。子供もそういうふうに育てられているから、何の疑問もないんだろうな。俺たちの時代と違う。恋は祝言の時にするもんなのさ」
「へ~え」
確かに二十一世紀では考えられないことだろう。見合いでさえ、断ることができる。
しかし、晩婚が増えてきていて、いざ結婚となると相手が見つからない。それで婚活とかいう結婚するための活動をしている人が多かった。
考え直してみると、出会いも見合いも、二人が恋をすれば同じことなのだ。家同士で決められた結婚でも、それがきっかけとなるのだから。
ただし、他に好きな人がいて、身分違いで結婚できないというのは悲劇に相当する。葵のように、他の人に嫁がなければならないなんて。
バタバタとあわてて駆け込んできた者がいた。徳田が可愛がっているキッチンヘルパーの末吉、別名モンチッチだった。顔と動作が猿に似ているからだという。猿と呼べば怒るだろうから、モンチッチと呼んでいる。いつかはバラしてやろうと思う。
「大変です。裕子女将があのお武家さまの怖い方に・・・・」
と徳田に耳打ちする。
「え、裕子さんが喧嘩を売ってるって?」
「え~」
身分の高い人に、そんなことをしては大変なことになる。
「どうしよう」
雪江と徳田は顔を見合わせた。