龍之介の心情 龍之介
雪江の態度に激怒していた龍之介だが、雪江が目を見はっている視線の先を見ると龍之介も凍りついた。
この旅籠に着く前に、別の旅籠で汗と埃を落とし、旅支度から着替えてきたのだろう。葵も孝子もきれいに髪を結いあげて、化粧もしている。
葵は、あでやかな緋色(深紅色)に花の模様のある振袖を着ていて、孝子は武家の奥方らしく、淡い藍色の綸子地の間着に赤紫と白の段替りになった打ち掛けをからげていた。
(綸子とは? 洗練した生糸で織った絹の紋織物。間着とは? 打ち掛けの下に着る小袖のこと)
その葵が驚愕していた。
龍之介が葵の前で、声を荒げるような振る舞いはしたことがなかった。いつも冷静で、剣術のこと以外は興味を持たない堅物の印象であったろう。許嫁であった葵にも指一本、触れてはいなかった。
実際の龍之介は、子供ながらの悪戯もしたが、いつも小次郎とつるんでおり、女子のことよりも剣や馬での遠出の方が楽しかった。一度は小次郎以外の供を連れずにかなりの遠出に出てしまい、後で叱られたこともある。
龍之介も全く女子に興味がないわけではない。
当時の武家の息子は、早ければ十二、三歳で女の味をおぼえてしまうそうだ。遅くとも十五歳ごろには殆どが経験するという。
しかし、龍之介は身分が上だからと言って、女子を手込めにするということは好かないのだ。
龍之介は、甲斐大泉藩主、桐野正重の年の離れた弟だ。本来なら、龍之介も江戸屋敷に住むべきところだが、一歳になる前にある事情で甲斐大泉に移された。
表面上は健康上の事情により、甲斐の田舎で養生するということになっていた。
生母の記憶はない。兄の生母と違うことは明白なので、家老の村上明実、葵の父に問いただしたことがあった。すると、目を伏せて、一言だけ、身まかりました(亡くなった)とだけ言った。
子供心に触れてはいけないことなのだと思ったことを覚えている。
龍之介には、口うるさい家老たちが親代わりで、いつも一緒にいる小次郎が兄弟と思っている。それなので、龍之介のことを常に考え、心配してくれる周りの者に手を出すということが頭に浮かばなかったのだ。
そんな孝子たちにとんでもないところを見られていた。孝子にも呆れられているか、叱責が飛ぶのではないかと恐る恐る目を向ける。
しかし、孝子は別の方向を見ていた。
やばいと言いながら、一同にぺこりとお辞儀をして奥の方へ走り去った雪江の姿を追っていた。その表情は信じられないものを見て、動揺を隠せないような、初めて見る孝子だった。
それほど雪江の言動と態度は衝撃的だったのだろうか。いや、違うだろう。孝子こそが男は男らしく、女は控えめに、男をたてて女らしくするという考えだ。それとも雪江のことに腹を立てているのだろうか。
雪江の姿が見えなくなって少しの間があり、やっと我にかえった孝子は龍之介と目が合った。
「若様、何ということでしょう。若様というお方が、下の者たちの出迎えをするとは、このような旅籠の玄関先で、なにをされているのですっ」
唾を飛ばさんばかりに言う。孝子の声は女性にしては低めで、怒鳴ると地に轟くように聞こえる。
龍之介は言い訳をしようと思うが、しどろもどろになり、ただ立ち尽くしているだけだった。
その孝子たちと龍之介の間に、関田屋の隠居とお久美夫妻、徳田、裕子、他の女中たちがサーと集まり、平伏した。
「ようこそ、お出で下さいました。この旅籠の管理役を務めさせていただいております関田屋の隠居、近右衛門と申します」
と、挨拶を始めた。
龍之介と小次郎はその助け舟に乗って、奥へ引っ込んだ。
一行が離れの館に案内されて座敷に落ち着いた後、登場するのが本来のやり方なのだ。
後に、龍之介は上座に座って、孝子に叱責をくらっていた。
特に玄関先でうろうろしていたことや、桐野家の上屋敷になぜ、出向いてはいけないのかなどとクドクドと訴えられた。
龍之介がうまく返答できないとその叱責が小次郎に飛ぶ。
小次郎は無表情で(感情を表すと叱責の数が増えるため)、
「はっ、誠に申し訳ございません」を繰り返していた。 絶対に言い訳はしない。
「そなたは相変わらず、それしか言えぬのう」
と言われると、
「はっ、誠に申し訳ございません」
と頭を下げていた。
大体の叱責のネタが尽きてきた頃、葵がやっと口をきいた。
「先ほど、龍之介さまと口論をされていた無礼な娘は誰なのですか」
不思議に孝子は、雪江のことを聞きたださなかった。
龍之介としては、言葉を選んできちんと答えなければならない。 雪江の身にも影響が及ぶ。思わず膝に乗せた手に力が入った。
「あの娘は、神宮寺雪江と申す者で、甲斐の医者の娘です。関田屋を頼って江戸にきています。あのような無礼をするのも、それがしと小次郎の身分を明かしていないからなのです」
「そうなのですか。神宮寺と申すのですね。元は武家の出でしょうか」
葵には大いに関心があるようだ。
「それがしは存じませぬ。ただ、あの娘が一緒に暮らしている訳は・・・・」
「一緒に暮らしておると?」
孝子が大きな声を出す。
「あ、そうではなく、・・・・命を助けられた故に・・・・」
動揺し、しどろもどろになる龍之介。
目だけで
「若、しっかりなさいませ」
と応援する小次郎。
「はっきりなさいませ。それに若様、わたくしへの敬語は無用にございます」
と、孝子。
「あの娘は恩人にて、しかも我らは訳あって、町人の長屋に住む身。女人が一緒にいれば身分を隠すのに好都合かと・・・・。それがしと小次郎は同じ長屋にて、あの者は隣に寝泊まりしておる」
「そうですか。あの者は神宮寺雪江と申すのですね」
孝子はそう、つぶやいた。
着物作家さんのブログに、間着のことが書いてありました。どうもありがとうございます。
御存知かと思いますが、甲斐大泉藩は架空の藩です。清里の近くに大泉村(ちょっと古い)というところがありました。長野県の近くです。