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 母と子

 今日は、裕子にパンをもらった。バスケットに入れているが、すれ違う人が匂いを嗅ぎつけてなんとも不思議な顔をする。


 江戸時代にオーブンがないからパンなど焼けないと思っていたが、裕子のところには石窯があった。薪を入れて焼くタイプの、本格的なイタリアレストランでピザを焼いているのを見たことがあった。

 関田屋こと朝倉が特別に造らせたものらしい。週に一度は朝倉もパンを食べるのだそうだ。 

 江戸時代では、カステラが焼かれていた。一般的には鍋式で、上下から火を入れる日本式オーブンだった。すり鉢で材料を練っていたらしい。


「イースト菌のかわりに、甘酒の種、酵母菌を使うの。牛乳からもチーズ、ヨーグルト、バターも作れるわ」

「練るとか混ぜる力仕事はもっぱら俺の仕事だけどな」

 巨体の徳田は、自分も役に立っているとアピールし、力こぶを見せた。


 長屋の木戸をはいっていくと、向かいのお絹のところを覗き込んでいる十三、四歳の少女がいた。背中には子供を背負っている。雪江の足音に気づき、目があった。

 見たことのない顔だ。驚かせないように、にっこりと笑顔を作る。それでも少女は戸惑っていた。


「何か御用ですか?」

「あ・・・・あのう、お信乃さんは?」

 その時、背中の子供が起きて、ぐずり始めた。


「あらあら、お信乃さん? いないのかな」

 雪江がお絹の表戸を叩こうとした時、すぐさま中から戸が開いてお信乃が飛び出してきた。

「慎吾っ、やっぱり慎吾」

「あーっ、若おかみさん、よかった、会えて」

「おのぶちゃん」


 おのぶと呼ばれた少女は破顔し、そのまま泣き顔に変わった。

 お絹も田ノ助、お勝も騒ぎを聞きつけて出てくる。

 お信乃は、少女から男の子を受け取って抱きしめた。

「おっかさん、会いたかったよォ」

「慎吾」


「慎吾、大きくなって、お婆ちゃんだよ。覚えているかい?」

 お勝も涙ぐんでいる。

 

 男の子はお信乃の息子だった。背中で眠っていたところを起きてしまい、ぐずり始めた声を聞いてお信乃が気づいたのだ。


「おのぶ、どうしてここへ? お姑さんは知っているのかい?」

 おのぶは下を向いて、首を振った。

 お信乃の顔色が変わる。おのぶはワッと泣きだした。


「すみません、勝手なことをして。一応、置き手紙はしてあります。坊ちゃんが、・・・若おかみさんがいなくなってから、ずっとぐずっていたんです。遊んでいるときはいいんですが、起きてはおっ母さん、眠くなるとおっ母さんって泣いて、もうかわいそうでいられなくて・・・・。一目だけでも会わせたら元気になれるかなって思ったんです」

 お信乃はそれを聞いて不安そうな顔になる。しかし、子供は愛おしいと見えて、その手を放さなかった。


 お絹がそれを察して言った。

「じゃあ、私、向こう(婚家)には無事でいるからって、言いに行ってくるよ」


「その必要はありません」

 凛とした声が響く。そこには品のいい初老の女性が立っていた。

「お姑さん」

 一同がその女性が誰なのかわかると、さっとお辞儀をした。雪江だけが訳が分からず、きょとんとして眺めていた。目が合って、あわてて頭を下げる。怒っているようだが、怖い感じではない。


「お姑さん、申し訳ございません。おのぶは慎吾のことを思って、私に会いにきたんです。どうか、おのぶには・・・・・」

「若おかみさん」

 緊張した雰囲気に、慎吾がおびえて泣く。


 初老の女性は、お信乃の姑の美里だった。後ろについてきている下男に顔を向けると、下男はうなづき、すまなそうな顔でお信乃の抱いている慎吾を取り返した。

 母親から引き離されるとわかった慎吾は、また火のついたように泣きだした。下男は慎吾を抱いたまま、木戸のところで待っている駕籠に向かって歩き出した。


 美里は何も言わず、おのぶにも来るように手招きをし、一応、丁寧に頭を下げて背を向けた。

 なんの話し合いもしようとしないで、子供だけを連れにきたのだ。あんなに泣いている子供をあやそうともしないで。雪江の中に猛然と怒りが込み上げてきた。


「ちょっと待ってください。それだけなんですか? 連れて行っちゃうんですかっ」

 皆がギョッとした。龍之介も出てきている。

 美里も驚いたのだろう、雪江を振り返った。


「私、事情は知りません。でも、あんなに母親に会いたがっていた子供を、わんわん泣いている子供がかわいそうだと思わないんですか」

「あなたは?」

「私は向かいに住む雪江と申します」

 美里は雪江を見て、微笑んだ。


「雪江さんね、そう、あなたは何も知らない。でも、孫とそこにいる嫁のために怒ってくださって、礼を言います」

 また、くるりと背を向けて、泣きわめいている子供の方へ歩き出した。

 その背に向かって言う。


「私には父も母もいません。父の存在は全くわかりません。どんな人だったのか、なにが好きなのか。母も私を生んですぐに亡くなりました。だから、母の顔を覚えていないんです。でも、その慎吾ちゃんにはお母さんがいます。どんな事情があるにせよ、子供が親に会いたいのは当たり前です。月に一度でもいいから会わせてはもらえませんか? 母親と二人きりで過ごす日を作ってはもらえないでしょうか・・・」


 美里の足が止まった。背中で聞いている気配だ。


「この世にいないのなら諦め切れるけど、ここに慎吾ちゃんの生みの親がいるんです。離縁されても、慎吾ちゃんの母親はお信乃さん一人だけです」


 高校生になった雪江でも母が恋しいのだ。母という存在を知らないというのに。

 あんなに幼い子供が母のぬくもりを求めるのは当たり前だ。養祖父母がどんなによくしてくれても、母親の存在は特別だった。


 美里は意外だという表情で振り返った。じっとお信乃を見ている。

「離縁された? 新吉があなたに三くだり半(夫から一方的に出す離縁状)を書いたというのですか? お信乃、あなたこそ、新吉もこの私のことも嫌になって、飛び出し離縁をしたではないですか。そのおかげで、新吉は世間の笑い者になっているのです」

「えっ」


 そこへ、下男がぐったりした慎吾を連れて戻ってきた。

「おかみさん、大変です。坊ちゃんが大変な熱で・・・」

 美里が慎吾の額に手をやる。

「それに、ここんとこ・・・」

 下男が慎吾の首を見せた。水泡がいくつかできていた。


「水痘っ(水ぼうそうのこと)」

 遠巻きに見ていた長屋の住人から悲鳴が起こった。

 当時、疱瘡(天然痘)、麻疹はしかと並んで水痘も流行していた。かかると高熱を発するから、油断すると命も危なくなる。予防接種などないから、子供から子供へと簡単にうつった。

 龍之介が叫ぶ。


「とりあえず、小次郎のところへ寝かそう。すぐに医者を呼ぶ」

 田ノ助が、よし来たとばかりに一目散で走っていった。

 雪江は手を挙げて言った。

「あ、私、水ぼうそうならやったことあるからうつらない。大丈夫。看病できるよ。他には? これは一度かかったら大丈夫だから」

 下男がうなづく。

「あっしは子供のころにやってます。半年前、娘がこれにかかったばかりなもんで、すぐにわかったんです」

 お信乃もお絹、お勝も戸惑いながら首を振る。美里が一歩出た。


「私もやりました。一度やるともうかからないとはよくご存じで」

 美里は龍之介に一礼し、丁寧に言った。

「手前どもは客商売、もし、差し支えなければ慎吾を、そして子守のおのぶもここで養生させていただけますか?」

 おのぶはきょとんとした顔をしているが、頬が赤い。熱が出てきているのだろう。たぶん、感染している。

「どうぞ、お使いくだされ」

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