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お絹の悩み事4

 そんな時、こちらに向かって誰かが廊下を歩いてくる足音がした。衣擦れの音もする。

 お絹もそれに気づき、口をつぐんだ。

 その者が声をかけてきた。

「失礼いたします。雪江様、絹代様。正和様が直ちに広間へお出でになられるようとの仰せでございます。小次郎様も一緒におられます」

 雪江が障子を開けた。

 そこにはお華が座っていた。


「龍・・、あ、正和様がここにきているということ?」

「はい」


 一体何の用事だろう。雪江は私用でここへ来ているのに、わざわざ龍之介が小次郎の屋敷にまで来て、呼び出すということ。なにか重要なことでもあったのだろうか。

 お絹をちらりと見た。お絹は心配そうに眠っている百を見ていた。せっかく寝たばかりの百。この奥の部屋に一人で寝かしておくことに不安を感じているらしい。すぐに目が覚めてしまうかもしれなかった。しかし、連れて行くのもためらわれた。


「さあ、じゃあ、すぐに行って戻ってこようか」

 雪江はそういって立ち上がる。

 しかし、お絹は心配そうだった。

「起きるかもしれない。どうしよう」


「じゃあ、連れていく?」

「えっ、まさか。正和様の御前に呼ばれて、そんなところに赤子を連れてはいけない」

 お絹が慌てていた。その気持ちも分からなくはないが、この際仕方がないと思う。

 雪江はまだ、じっと廊下に控えているお華に気づいていた。


「じゃあさ、戻ってくるまでお華さんにここにいてもらったらどう? それなら安心でしょ」

 我ながらいい案が思いついた。

 しかし、そのとたん両者の顔が強張った。お互いの顔を見ずに、けん制しあっている。

「あ、では誰か他の者を呼んで参ります。少々お待ちください」

 お華が狼狽していた。

「いいよ。お華さん。私達、すぐに行かないといけないんでしょ。他の人を呼んでいる暇はない。ねっ、お華さんに任せておけば大丈夫。行こう」

 ここは何が何でもそうさせるつもりでいた。こうして、人を頼ること、信頼関係を築くこと。


「でも・・・・・・」

 言葉を濁すお絹。そしてまだ、躊躇しているお華。

「すぐに他の者を呼んで参りますから」


「ね、ちょっと待ってよ。なんでお華さんじゃだめなの。忙しいの? それにお華さん以外、他の女中さん、百ちゃんのこと、抱いたことある? なかったでしょ」

 お絹の産後は、このお華がずっと生まれたばかりの百の世話をしていたのだ。

 お華はうつむき加減でぼそぼそと言った。

「わたくしは・・・・・・。しかしながら、御新造様が承知なさらないと思います」

 すると、お絹がピクッと体を震わせたのがわかった。


 本当に、このお華という女性ははっきり物事を言いすぎる。悪気はないのだろうが、その物言いに相手が圧倒されてしまう。ドンと押されるような勢いだから、相手が怯んでしまうのだ。

 けれど、第三者の雪江は、その言葉の微妙なニュアンスを感じ取っていた。


 お華の言い方には、【今、私は百の面倒をみたい。けれどお絹がうん、と言わないだろう】と聞こえた。それはいいことのように聞こえる。


「ねっ、お絹。他の奉公人さんなら百ちゃんが泣いたとき困るよね。あやし方もわからないし、第一、抱っこして落としちゃっても困るしさ。ちょっと危なっかしいよね」

 他の女中には悪いが、この際、ダメ女中に成り下がってもらう。お絹はそんな雪江の言ったことを真に受けたらしい。ものすごい困惑した表情になった。

「う・・・・ん」


「ねえ、お華さんしかいないよ。ね、お華さんなら、絶対大丈夫だし、安心できるよね。さあ、もう行かなきゃ、正和様たちを待たせてる」

 そういってお絹の手を引いた。

 もうお絹も嫌だと言えずにいた。そのままふらりと立ち上がった。


 雪江が、お絹の代りに言った。

「じゃあ、お願いします。さっき、一度起きちゃって、今さっき眠ったばかりなの。眠りが浅いからもしかするとまた起きるかもしれない」

 お絹ももう何も言わず、ただ、頭を下げた。そのことの意味は、お願いします、だとわかった。


 お華の表情が変わった。百を任せてもらえるとは思っていなかったらしい。それだけの大役を仰せつかったから、精一杯頑張るという責任感ある表情だった。

「かしこまりました。百様のことはお任せくださいませ」

 そう言って、お華は頭を下げた。

 よしっ、と思う。ガッツポーズをしたくなったが、やめておいた。


 廊下へ出た。

 お絹の気が変わらないように、その手をひいて廊下をどんどん歩いていく。

「なんだろうね。こんな昼過ぎに呼び出されるなんてさ」

「うん」

 お絹の気のない返事。まだ百のことが気になっているらしい。


 広間は開け放たれていた。

「雪江です」

 そう言って入る。

「絹代でございます。お待たせ致しまして、申し訳ございません」

 お絹は深々と頭を下げて、中へ入った。


 正面には龍之介が座り、その脇に小次郎と弥助が座っていた。

「突然、呼び出して悪く思うな。急に書状が届いたので、すぐに知らせようと思ったのだ。雪江が、こちらに来ているとのことで急きょ、この場を借りた」

 突然の連絡、もしかして、もしかすると・・・・・・。

 雪江は弥助を見た。弥助はいつもより表情が明るい。


「兄上の乱波からの書状。下手人が見つかったらしい」

 あの、弥助の金を奪い、そのまま逃げたその犯人が見つかったという。二十一世紀並みのすごさだ。

「まさかっ。すっごい。うそみたい」

 思わず叫んでいた。


 龍之介と小次郎が吹きだした。

「わしから、乱波たちには雪江がすごいと言っていたとだけ、伝えておく。まさか、うそみたいは余計なことだ。あの者たちに、そのような言葉は失礼にあたる」

「えっ、ごめんなさい。だって、本当にすごいんだもん。まさかっていうのは、本心じゃなくて、え~と・・・・・・。私はその人たちに会ったことがないから、どれだけすごいのかわかんないもん」

 そう言って口を尖らせた。

「まあいい。やはり、珠緒の思った通り、見世先で禿が話していたことを耳にして、弥助から金を奪ったらしい」

「やっぱりそうだったんだ」


 隣の妓楼の喜助、与三郎だったのだ。

「その者はその足で、すぐに吉原を出た。そして途中の茶屋で妓楼へのお暇の文を書いて、それを下男に届けさせていた。田舎の母が病に倒れ、すぐに帰らなくてはならないとな」

「へえ」

 

「与三郎はな、そこで茶一杯と握り飯を三つ、作ってくれるように頼み、その代金として小判を一枚置いていったらしい」

「うわっ、すごく怪しい」

 そんなことをしたら、私がやりましたと証言しているかのよう。なぜ、役人はそういうところまで聞き込みをしなかったのか。やはり江戸の役人は甘いと思う。

「本人もそれしか手持ちがなかったと見える。それにすぐに江戸を出なければならない。それには弁当もいるだろう」

「そりゃそうだけどさ。その人もちょっと浅はか。それでお金はどうなったの」


「まあ、そう急ぐな。与三郎は実家へ帰った。武蔵の入間というところだ。本当に母親が病に倒れたらしい。母親のために、うまいものを買い、有名な医者にも見せた。もうだめだとわかっていたらしいが、そうせずにはいられなかったんだろう。金でできることなら、なんでもやるつもりだった」

 百六十両もの大金を持っているのだ。なんでもできるだろう。

「しかし、その母親はその金を疑い、病に伏せりながらも息子を一喝したそうだ。普段の息子のことを良く知っている母だから、おかしいと思ったらしい。けれど一生懸命に働いた金だと嘘をついた。母はそれを聞いて安心し、言ったそうだ。よかった、お前が堂々と稼いだ金なら喜んで使わせてもらうと」


「きちんとしたお母さんだったんだね」

「しかし、それだけ与三郎の胸は痛んだらしい。最期の最期まで嘘をつき、人様から奪った金で母を喜ばせようとしたのだから」


「お母さんが本当のことを知ったら、どれだけ悲しい思いをするか・・・・」

 それは想像できた。

「その数日後に母親は亡くなったらしい。乱波が行ったときには落胆して、放心状態だった与三郎がいたそうだ。残りの金は手つかずにそのまま残っていた。あの者は自分のためではなく、母親のために使おうとしていた」

 それまで犯人を絶対に許せないと息巻いていた雪江だが、気持ちが沈んでいた。


「じゃあ、お金は殆ど戻ってきたんだね」

「そうだ。使ったのは十両くらいだろう」

「よかった」

 それは喜ぶべきことだ。普通なら、犯人が捕まってもお金は使われてしまい、残っていないだろう。


「これも正和様、小次郎様、そして正重様のおかげでございます。本当にありがとうございました。これで甲斐へ帰ることができます」

 弥助がそう言って深々と頭を下げた。


「いや、礼には及ばぬ。そして先程、そのことを吉原の珠緒にも文で知らせた。するともうすぐにその返事が届いた」

 龍之介は袖のたもとから、その文を取り出した。


「弥助、そちは以前、その金を珠緒の借金のために使ってもらいたいと言っていたな」

 弥助の顔が引き締まる。

「はい。今もそのつもりでございます」


「その心配は無用とのこと」

「えっ」

 弥助は、わけがわからないという困惑した表情を向けた。

「珠緒が、このほど油問屋の次男に身請けされることになった。囲い者ではなく、妻として迎えてくれるとのこと」

「え・・・・・・」

 

「以前からこの身請けの話があったそうだ。しかし、妻に迎えられても吉原にいた花魁だったと知られたら、店に迷惑がかかるのではないかと迷っていたらしい。しかし、元々二人は恋仲だったそうだ。向こうの店も珠緒のことをすべて承知で許したそうだ」

 そう聞いて、弥助も安心した様子だった。

「そうですか。それなら安心しました。珠緒が、いや、お葉が幸せになってくれるならそれでいいんです。よかった」


 龍之介はもう一枚の文を弥助に渡した。

「これは弥助に」

 弥助は、珠緒からの文を読んでその手が震えていた。涙ぐむ。

 珠緒のことを思って、百六十両もの大金を持って出てきてくれたことのお礼状だった。

「お葉、幸せに。よかった」

「うむ。めでたい」


 なんとか決着がついた。雪江もお絹もほっとしていた。

「弥助、よかったな。使われてしまった金は兄上が出してくれるとのこと。それをまた手形に変えて、道中、慎重に帰るようにな」

「ははっ。なんと言っていいか・・・・。お礼の申しようがございません」


 弥助はさっそく明日の朝早く、江戸を出ることになった。

 途中の小仏の関所まで誰かお供一人をつけ、送ることになった。予定より長引いてしまった江戸の滞在。一日も早く帰りたいだろう。

 家に帰ってからすぐに、借りたお金を全部返して回ると言った。これでもうお葉のことは気に掛けず、これからの自分のことをを見ることができ、進めると言った。

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