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お絹の悩み事2

 その翌日。

 またいつものようにお絹が来ると思い、ずっと屋敷内で待っていた。けれど姿を現さなかった。不審に思ったが、きっとヒマなのは雪江だけなのだろうと思い直した。

 雪江は久しぶりにクッキーを焼いたり、徳田という名の電気のいらない泡立て器を使い、ケーキを焼こうとしていた。


 久美子に言われたのだ。今は妊婦という大変な時期だが、その身が一つのうち(まだ子供が生まれていないという意味)なら、自由に動ける。だから、今のうちにやりたいことをやっておけと。それで、裕子に教えてもらいながらお菓子を焼いていた。子供と一緒にこんなことができたらいいなとさえ思っていた。


 その翌日もお絹が現れなかった。どうしたのだろう。今度は心配になっていた。もしかすると百が熱でも出したのかもしれない。

 そう思うといても立ってもいられなくなる。昨日焼いたクッキーを持って、坂本家を訪れていた。


 雪江の心配をよそに、お絹は澄ました顔で自分の部屋にいた。百も元気にしている。

「なんだ、ずっと待ってたのよ」

「ああ、悪いね。いえ、雪江様、大変申し訳ございませんでした。ご心配をおかけしました」

 お絹はすまなそうな顔で、縫物を下に置き、丁寧に頭を下げた。

 一体どうしたのだろう。今までお絹がそんな態度に出たことはなかった。それはまるで若殿の奥方に対する家臣の妻・・・・。


 ああ、そうだった。雪江とお絹、いや、坂本絹代との本来の関係は、そういう間柄だった。頭をあげたお絹がどこか悲しそうな表情をしていた。なにかがお絹にそうさせていることがわかった。そんなことをするのは自分の意志ではないと言いたいのかもしれない。

 それで、雪江もその調子に合わせて言うことにした。

「ああ、わかりました。突然、押しかけてごめんなさい。絹代殿はお忙しいご様子。わたくしは一度屋敷に戻ります。しかし、絹代殿にはちょっと・・・・じゃなくて、少々込み入った話があります。今日、いつでも良いからわたくしの所へ来てください」


 ついつい、舌を噛みそうになりながらもそうかしこまって言った。しどろもどろの大根役者のようだった。それはお絹へというよりもこの家の使用人たちに言い聞かせるようなものだった。まるで誰かがこの会話を聞いているかのようだ。

 なにがあったのだろう。お絹らしくなかった。ここではその訳をきくことは難しそうだ。


 その後、お絹が百を抱いて、雪江のところへ現れた。

「悪かったね。せっかく来てくれたのに追い出すような真似をして」

 ほっとした。

 いつもの口調だったからだ。


「いいけどさ。ねえ、何があったの。最近、お絹が浮かない顔をしていたことはわかっていたけど」

 スヤスヤ眠っている百を挟んでの会話だった。

「私、あの家の新造、やっていく自信ないよ」

「えっ」

 どういう意味だろうか。


「やっぱ、武家の娘じゃない人がそれらしくしてるってこと、ものすごく大変なんだよ。百が生まれた直後は他のことは見えなかった。百のことで精一杯だったからね。けど、少し落ち着いてくるといろいろ気づいたり、見えてきた。やらなければならないことが山ほどあったんだ」

 やはりお絹の笑顔を邪魔していたのはあの家のことだったのだ。そもそもこれは、お絹が小次郎と一緒になることを渋った一番の大きな理由だった。

「ねえ、誰かに何か言われたの? 御新造様らしくないとか、陰口を言われたとか?」


 雪江が言ったことは核心をついたらしい。たちまち顔を曇らせた。

「言っただろう。あのお華だよ。私のこと、あの家の御新造として認めてくれてない」

 認めないもなにも、お絹はれっきとした小次郎の妻なのだ。奉公人がそこまででしゃばるのはおかしい。

「お華・・・・・・。あの嫌味を言う人のことね。小次郎さんのこと、好きだったっていう」


「そう、先日もね、私が下男に注意をしていたんだよ。垣根の手入れが中途半端でさ、ちょっと見苦しいかなってね。別にそれほどのことじゃないから、注意した後、気にしないように言ってたところへあのお華が・・・・。もっとはっきりと、なにがいけなかったことをおっしゃってくださいっていうんだ。そんな曖昧な言い方だとわからないって」

「そんな・・・・・・。犬のしつけじゃあるまいし、下男だってそれとなく言えばわかるよ。きつい人だね」


「うん。でもさ、ずっとそう思ってたんだろう。時々キツイ目を向けられていたからね。あの人なりに我慢していたんだ、きっと。その後に私にこう言った。この家を仕切るはずの御新造様が、きちんと叱ることができないと皆が動けなくなるって。不手際を叱ることも他の人への公平さを促すことなんだって。私が曖昧なことをするときちんとやっていた使用人が不満を覚えるんだとさ」


 なるほど。ぐずぐずしていて、きちんとやらなかった人をそのままにしておくと、他の者が不満に思うのだ。上に立つ者はそういうことも考えながらやらなければならない。

「むずかしいんだね」

「うん、それが最近になって本当によくわかったよ。まだ、今は百の授乳だっていって逃げることができる。自分の部屋にいる時だけが心が休まるんだ。けどずっと奥へ引っ込んでいることもあの人、気に入らないみたいだし、雪江んとこへくることも頻繁過ぎるって、注意されたんだ」

 そしてお絹はため息交じりで言った。


「いっそのこと、厳しいお姑さんでもいてくれたらって思うよ。そうすれば皆の目がそっちに注がれる。私はそれを手本にすればいいんだからね」

 それはそういう存在がいないから簡単に言えることだろう。実際は、姑問題の方が深刻ではないかと思う。

「いないから言えるんだよ」


「わかってる。でもね、私じゃ、あの坂本家を切り盛りする役なんて荷が重すぎる。いっそのこと、あのお華が小次郎さんの嫁になってあの家を切り盛りすればいいのさ」

 問題が違っていた。お絹がそんなことを言うなんて信じられなかった。

「あの家を切り盛りすることが小次郎さんの嫁になることなの? そういうことじゃないでしょ」

 そう言いながらも雪江は、お絹が本気で言っていることがわかった。これはかなり重症である。


「だって・・・・・・もう耐えられない。あの人、いつでも見てるんだよ。私がどう動いて何を言うのかね。そして私が御新造にふさわしくない行動をすると陰で笑っているんだ。こんな妻を持って、小次郎様もかわいそうにってね」

「それって本当?」

「わからないよ。でも私にはそう感じられる」


 今、お絹に何を言っても聞く耳を持たなかった。被害妄想に憑りつかれているらしい。

 あまり外出していると、また嫌味を言われるからねと言って、お絹は帰っていった。


 雪江は考え込んでいた。

 龍之介が雪江の部屋に来ても気づかないほどに考え込む。

「雪江、体の調子はどうだ? 一緒に外を歩かぬか?」

 そんな気遣いをしてくれる龍之介の言葉も聞こえていない。


 雪江が何も言わないから、終いには龍之介が怯み、なにやら気味が悪いと言い残して、また中奥へ戻っていった。それだけ雪江の頭の中はお絹とお華のことでいっぱいだった。

 責任を感じていた。お絹を小次郎と一緒にさせたのは雪江。そもそもお絹はこういうことを予測して、シングルマザーになるとまで言った。これは雪江も真剣に取り組まなければならない問題だった。



 そんな夜のこと。

 久しぶりに孝子が顔を出した。このひと月ほど甲斐大泉へ帰っていたのだ。孝子は小次郎の姉である。もしかしたら相談にのってくれるかもしれない。


 しかし、お華の実名をだしてあからさまに訴えることだけはしたくなかった。それではお華は絶対に不利だから。奉公人なのだから従えと言えば従うだろう。何も言わないだろう。しかし、人の心は変えられるものではない。彼女をやめさせても、再び同じ問題は起こるだろう。ではどうすればいいのか。


「さきほど、小次郎の屋敷に行って参りました」

「えっ」

 我に返る。

「百のかわいいこと。もうわたくしは何があっても百の側におります。あの可愛い様子、見過ごしてしまうことが罪でございます故」

 少々大げさだが、確かにそうだ。雪江が笑った。幼子は一日一日、その表情を変える。


「雪江様、こうして考えていても何も変わらないと存じます」

 そう言われて雪江は孝子に目を向けた。

 孝子も何かを感じ取っていた。お絹の問題と雪江が今、考え込んでいたことと関連があるとわかっているようだ。さすがだ。


「人間関係って本当に厄介ですよね」

「そうでございますなあ。人とのかかわりを持って生じる喜び、その反面、行き違いで起こる諍い。いろいろでございますなあ」

 孝子に相談してみることにした。


「ねえ、もし私が、例えば全然役に立たない商家の嫁だったとする。その家にはお姑さんもいなくてさ、私がその家のことを全部仕切らないといけなくなった。でも、今までそこで働いていた人たちは私のやり方じゃ、満足できないって反発された。もし、そんなことになったら・・・・・・私、どうすればいいかな」

 孝子は片眉を吊り上げて、雪江の言ったことを考えている。


「夫は店のことで精一杯なの。だから、私だけで家の切り盛りをしたい。でもみんながついてきてくれない。今まで頑張ってきたのに、私みたいな嫁はイヤだっていう」

「そうでございますなあ」

 孝子はそう言って再び考えていた。

 この問題は、たとえお絹が小次郎の所へ嫁に来なくても、ある程度の使用人がいる家に嫁に行けば突き当たる問題でもあった。


「奉公人たちはそのお内儀に期待をしすぎていたのでしょう。ところが、自分たちの考えていたような人ではないということ」

「うん、そういう感じ」

 やっぱりがっかりされたんだ。


「まず、お内儀としての自覚を持つことでございましょう。そしてその使用人たちも考えを改めなければならないと思います」

「えっ、やっぱ、そう?」


「それはあたりまえでございましょう。期待ばかりされて、その期待を裏切ることになったとしても、そのお内儀のせいではございません」

「じゃあさ、どうすれば使用人が受け入れてくれる?」

「いくら口で、言うことをきけと言ったとしても、本当に人を変えることなどできないこと」


 がっかりした。

 孝子ならすごいマジックワードを知っているのかと思っていたから。

「人を変えるのではなく、自分が変わるのでございます」

「えっ」


「そのお内儀は、腹をわってきちんと使用人たちと話をしたのでしょうか。たぶん、お内儀は勝手にそう思い、自分から壁を作っているのではないかと存じます。人と人を繋ぐ一番の方法は人を信頼すること」

「信頼? 壁?」

 なにやら、むずかしくなってきている。

「はい。自分は受け入れられていないと思い込み、自分で壁を作る、そして信頼しなくなる。すると相手もそれを感じ取り、本当に信頼されなくなる。自分に自信が持てないことにもその要因はございますなあ」

 孝子の言うことはそう簡単にいかないようだ。そんな分析をしないで、結論から言って欲しい。どうすればいいのか教えてよって思う。

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