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お絹の悩みごと1

「やっぱ、自分の家っていいよね」


 そう実感していた。

 そう漏らすように言うと、座敷の隅に控えているお初が同意するように笑う。あの離れも居心地はいい。けれど所詮、どこかのホテル住まいをしているようなそんな感覚だった。一、二日くらいなら快適だろうが、長期になるとやはり気疲れがしてくる。やはり、あそこは甘やかされた生活から引き離された隔離の場所だったと実感した。


 今は腹帯をしていた。ふっくらと出てきている腹もそれで落ち着き、快適だった。腹の張りはもうほとんど感じなくなっていた。しかし、油断しない。あの痛みと恐怖はもうたくさんだった。


 お絹が連日で雪江の元へ遊びに来ていた。百を連れて、昼から夕方までずっといる。庭の散歩にもついてくる。雪江にとっては来てくれる方が楽でいいが、坂本家の御新造が、毎日そのように出払っていていいのかと心配になる。


「百ちゃんもよく笑うようになったね。かわいいな。笑えるくらい小次郎さんに似てる」

「うん、この子の笑い顔に救われているよ。本当に」


 お絹の言い方が、なにかかなり重い意味を含んでいることに気づいていた。じっと見つめていると、お絹が無理して笑っているのが感じ取れる。そしてそんな雪江の視線が鬱陶しいのか、わずかに視線を外して話をするときもあった。


 何かを悩んでいる。それを言いたいが、言えない。何も言わなくても、雪江にそれを悟ってもらいたいらしい。

 しかし、雪江がそんなお絹から何かを聞こうとすると、ふわりとかわして逃げてしまっていた。そんな毎日を繰り返していた。

 何をそんなに悩んでいるのだろう。それも言いにくいことらしい。吉原のことは解決したはずだ。今までお絹はなんでも雪江に話してくれていた。いまさら隠し事などすることはないほどに。

 今までの聞いたエピソードを思い出す。小次郎は、夜帰ってきて、やっと寝たばかりの百を抱きあげ、大泣きさせてしまったとか、昼間ひょこり現れて、百に武家の女となる心得などを得々と語ったかと思うと、そのまま添い寝をしていたなど。子煩悩な小次郎らしい不器用な話がたくさんあった。

 


 百がぐずり始めた。

「あ、どうしたのかな」


「ああ、お腹が空いたんだね」

 お絹はまったく慌てることなく、少しあやすとその小さな口に、乳を含ませる。

「泣き方でわかるんだね」

「そうさ。赤ん坊は泣くことで、どうしてほしいのかを伝えてくる。それ以外は満足していたら寝ているのさ」


「へえ、私もわかるのかな」

「わかるさ。毎日ずっと一緒なんだよ」

 最も母親らしい光景だ。


「弥助さん、早く帰れるといいね」

「全くだよ。当初は二、三日のつもりで来てたらしいからね。こんなに長く江戸に留まるつもりなんてなかったのさ。もう半月になる」


「あれから弥助さんはどうしてる?」

「ん、何とも言えない。かわいそうなくらい落ち着かないみたいだよ。このまま江戸にいることが、正しいことなのかって思っているのがわかる」


「予定よりもずっと長くいるんだもんね」

「そう、最近は刀研ぎの仕事も落ち着いたようだし、今日は下男と一緒に、庭仕事をしているよ。じっとしていられないんだろう」


「そっか。桐野の家臣たちの刀、全部研いじゃったって感じだもん。刀の話をすれば、終わりがみえないお父様も来なくなっちゃったし」

 正重の場合、来なくなったのではなく、上屋敷の重臣たちからの訴えで、外出禁止になっているためだ。弥助と話をしたら最後、誰かが上屋敷から迎えにくるまで帰ってこないからだった。


 本当にどうなるのかわからなかった。弥助のことは、龍之介がウラでなにか手を廻していることは知っていた。その詳細はまだ言えないと言っていた。


 弥助は三人で吉原へ行ったその後、金のことは諦めて甲斐大泉へ帰るつもりだったらしい。しかし、もう少し待てと龍之介に言われていた。しかし、いつまで待てばいいのかわからないのだ。雪江がそのことを問うと眉間にしわをよせて、わからぬと一言で返される。


「お金、戻ってくるのかな」

 ぽつりと言った。

 雪江にとっては想像できないほどのお金だった。小判そのものに馴染みもないし、百六十両などとんでもないことだった。

 品物を盗まれたのなら、探せるかもしれない。けど、お金は使われてしまったら、それが弥助の小判だとは言えなくなるのだ。


「人の物を盗むなんて許せない」

 弥助の金のことを思い出すたびに、怒りが沸いていた。

「そうだよね。人のお金を盗んで、自分が幸せになろうなんてこと・・・・」


 いつの世も人を騙して、自分だけがいい目を見ようとする人がいるのだ。

「うん、絶対に人の物を盗んだり、誤魔化したりして得たお金では、絶対に幸せになれない」

 お絹がそう言った。

「例え、その時、楽しく過ごしていても、心のどこかに空しさが残る。罪悪感ってものがつきまとうのさ。それが人ってもんだよ。そこでその罪を改めれば、まだ救われる」

 お絹が語り始めていた。

「悪事を重ねたあぶく銭で、いい暮らしをしてもそんなものは上っ面ばかりさ。後でしっぺ返しが必ず来る」


「しっぺ返し? それって神様が制裁を加えてくれるってこと?」

 雪江にかかるとすぐに神様が登場していた。雪江にとって神とは、何でも解決してくれるスーパーマンのよう。

「あはは、それじゃまるで神様って言うのは、番屋に務めているお役人のようだね」


「あっ、そっか」

 雪江もそう考えて、吹き出していた。でも考えようによっては、人は皆が神なのだ。人のために何かをするということが救いとなるから。


「人っていうのはね、死ぬときに自分が生前やったこと、すべてを思い出すらしい。いいことも悪いこともね」

「へえ、映画みたいに?」

 映画といってもお絹にはわからない。

「自分のやってきた行動を、すべて振り返るんだ」


「じゃあ、悪いことばかりやってきた人は、そういうことばかりを見ることになるんだね」


「そう、そしてたぶん、自分のしたことで、相手がどんなにつらい想いをしたかもわかるんじゃないかな。もうそういうことが地獄への入口って感じだろう」

「それって怖い。生きているときはそれほど意識していないことでも、死ぬ最期の最期に、そんなことを見せられるなんて」


「だから、人は常に恥ずかしくない行動をしようとするのさ。誰が見ていなくても正しいことをしようとする。そりゃ誰だって、楽をして金儲けができればそれに越したことはない。けど、苦労して得たお金はその何倍も嬉しいし、価値があるってもんだよ。そう思うだろう」

「悪い人は反省させられて、いい人は最期に嬉しかったことを思い出せるんだね。すっごい、お絹って」

 お絹は照れて言った。


「これはおっ母さんが教えてくれたのさ。普通の人は死ぬとか縁起の悪いことを口にしないけど、おっ母さんは違う。人は、どんなに偉い人でもいつかは死ぬ。賢くても金持ちでも寿命は尽きる。そういうふうに公平にできているんだ。その寿命はどうにもならない」


「そんなこと、考えたこともなかった。死ぬことは怖いって思う。だから、考えないようにしていた」

「そりゃ誰だって怖いさ。死を怖いって思わないといけないんだよ。怖いから自分の身を守り、大切なひとのことも守ろうとするだろう。無謀なことをしないためにもね。だから、人は思い残すことなく頑張れるんだと思う」

「なるほど」


「死から目を背けてはいけないと思うけど、容易く受け入れてもいけないんだ。だから、人の命って尊い。こういう新しい命を授かる、そして全うに育てるってこと、すべてに重要な意味があるのさ」

 雪江は腹に触れる。

「そうだね。授かることにも、それを育てることにも大きな意味があるんだね」


「うん、今は自分のことよりも真っ先に、この子のことを考えるんだ。そして私がこんなことをしては百がなんて思うだろうとか、最近しきりに考えるんだよ」

「へえ、お絹っていいお母さん」

「そうかい?」

 お絹が嬉しそうに破顔した。


 気づくともう夕方になっていた。

「あ、いけない。もう帰らないと」

「え、もう? ここでご飯、食べていけばいいじゃない。どうせ、小次郎さん、遅いんでしょ」

「そうはいかないよ。いくら雪江のところでも、夕餉の支度の場に私がいないと、また・・・・・・」


「えっ、また?」

 そう、お絹はまた、と言った。

「あ、何でもない。とにかく帰る」

 そういうが早いか、お絹はバタバタと百を抱いて帰っていった。そんなお絹のことが気になっていた。




 その日の夕餉。

 龍之介が、吉原花魁のもう一枚の手紙のことを教えてくれた。

「珠緒が書いてきたもう一枚は、弥助への謝罪の文だった」

「えっ、謝罪? どうしてよ。珠緒さんがお金を盗ったわけじゃないでしょ」


「そうだが、金を盗られるきっかけとなったのは、珠緒の妹禿の噂話だったらしい」

「禿? 噂話?」

 禿って、聞いたことはあるが、時代劇に出てくる吉原花魁道中の子供だと思いつくまでに、時間がかかった。


 龍之介は続ける。

「うん、妹禿の不始末は、自分の不始末だと。その詳細を書いていた。そして弥助にも申し訳なかったとな」


 その子供が話していたことを誰かが聞いていた、そしてその金を盗もうと思ったらしい。それは結果的にそうなったわけで、その原因を作ったとしてもその禿が悪いわけじゃないと思う。しかし、珠緒がそのことで心を痛めているその気持ちは、雪江にもわかる。


「でも、珠緒さんがそんなことを考えても、どうなるわけでもないでしょう。そんなことを言いはじめたら、キリがない。じゃあ、その男を雇った妓楼には責任はないのかってこと。そんな怪しい人を雇ったんだから、そっちの方が罪が重いと思う」

 雪江がまた、怒っていた。吉原というところは常に大金が動く。そんなところに働く者の身元をきちんと調べなかった妓楼が悪いだろう。

「それはそうだ。もうすでにお叱りは受けているらしい。お役人からの指導を受けている」

 それを聞いて、先ほどの怒りが少しはおさまった。それならいい。


「実はな、この珠緒の文を受け取っとった後、すぐさま上屋敷へ行き、兄上に相談したのだ」

 ああ、龍之介がなにか考えがあるからと弥助にまだ、留まるように言った、その理由。


「兄上は、わしの顔を見るなり、ずいぶんからかわれた。吉原へ行ったことは既に知られていた」

 それはそうだろう。弟とはいえ、娘婿なのだ。舅としては皮肉の一つも言うことだろう。

「叱られたの?」

「いや、大笑いされた。わしのことを堅物と言われ、よくぞ、雪江の目を盗んで出かけたと、褒めてやろうと言われてな」


「堅物って、龍之介さんのこと? 」

「ん、そうだ。妻以外、手を出さぬ、頑固な身持ちのいい堅物という意味だ」

「でもさ、それが当たり前なんじゃない? 笑い事じゃないでしょ」


 今度、父にあったら、一言も二言も文句を言ってやると思う。

 龍之介はそんなことを考えている雪江を悟ったらしい。慌てて正重を庇う。

「いや、何事もなかったから、兄上は改めてわしをからかったのだ。もしもそういうことがあれば、それはそれで叱られただろう」

 男同士でかばい合う、そんな姿が目に浮かんだ。


「それよりも、兄上はすぐに調べてくれると言ってくれた」

「調べる?」

 龍之介はにやりと笑った。

「この隣の見世の喜助の行方だ。忘れたのか。兄上には優れた乱波らっぱがいることを」

 乱波、忍びのことだった。利久の時、その身辺調査にお世話になっていた。特に甲斐大泉の忍びは優秀で有名だった。


「えっ、まさか。そんなこと、させちゃうわけ? いいの? そんなことに使って」

 忍びを使って、弥助の金を盗り、吉原から逃げた下手人を追わせていたのだ。

「弥助も珠緒も甲斐大泉の者だ。その者たちを助けるために、今こそ乱波を使うと兄上が息巻いておってな」

「ええっ、父上が・・・・・・」

 雪江にはその姿が想像できた。時々妙に子供っぽいところがあるのだ。笑えるが。


 龍之介はぐっと声を抑えて言った。

「まあ、ここでの話。兄上も退屈していたらしい。乱波も久しぶりにそういう大きな動きのある任務につけて喜んでいるとのこと」

 ああ、そんな藩主あれば、この家臣あり、と言ったところ。


「先程、その中間報告を受けた。もしかするとその下手人がわかるかもしれぬとな。まあ金はどれだけ戻ってくるかわからぬが、一応、近いうちにこの件には決着がつくだろう」

「それで弥助さんも珠緒さんも次の一歩が踏み出せるってわけね」

「そういうことだ」

 弥助のためにも早く捕まえてほしかった。

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