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お葉の知り得た真実

 その時、珠緒は筆も持ったまま、その当時のことを考え込んでいた。筆を持ったことも忘れていたかもしれない。

「ねえ、花魁」

 伽耶が話しかけていた。

 我に返り、傍らにいた伽耶を見る。向こうもそんな珠緒の反応に驚いていた。

「あ、なんだい」

 珠緒の向かいに座っていたはずの綾女はいなかった。珠緒は妹禿たちに手習いを教えていた。その片手間に龍之介への文を書こうとしていた。


 お葉は十五になるまで、きちんとした字が書けなかった。だから、この子たちには早くから読み書きを教え、時々むずかしいことを言う旦那の受け答えにも慌てず、すんなりと答えられるような知的な花魁になってほしかった。だから、暇を見つけては、こうして二人に手習いをさせていた。

 しかし、綾女はこうしたことが嫌いだった。今日も手習いをすると聞いて、あからさまに顔をしかめていた。そして今日は珠緒が物思いにふけっていたから、その隙に逃げたのだ。

 それにくらべると、伽耶は素直になんでもやりたがった。

「あ、この字は、こう書くんだっけ」

 珠緒は、筆が止り、首をかしげている伽耶の後ろへ廻った。そしてその背後から伽耶の手に添えて、上から書いていく。

「ここは、こうはねる」

 そう言って、今度は伽耶に書かせてみた。

 また、珠緒の目は宙を見ていた。


「ねえ、珠緒姐さん。直次郎様の身請け、受けるんでしょう?」

 不安そうな目を向けてきた。

 もし、珠緒が身請けされたら、この妹禿は別の花魁につくことになる。それが誰になるのか、伽耶も不安なのだろう。綾女は誰についてもそれとなく、うまく立ち回ることができるだろう。しかし、伽耶はそんなに器用ではない。純粋な伽耶は人に騙されやすい。そして騙されてもその人の事を恨むこともしない、そんなお人よしだった。


「ねえ、他にも身請け話があったんでしょ。そっちはなんで、断ったの?」

「え・・・・・・」

 たぶん、それは弥助のこと。

「ああ、それは・・・・・・。むずかしいお金のことでね」


 そう曖昧に返事をした。そういう問題は大人のことだ。まだ幼い禿の気にすることではない。

 しかし、珠緒が気づいた。なぜ伽耶がそんなことを知っているのか。岡っ引き達は、弥助がこの妓楼を訪れた後に金を盗まれたとしか言っていない。他の花魁たちでさえ、珠緒が身請けを断ったことを知らなかった。このことを知っているのは、あの時、あの場にいた楼主とお染、そして珠緒だけのはず。

 番所から岡っ引きが来た時も、その時どこにいたかを聞かれただけ。そして、この禿たちにはそんな質問さえ、されなかったに違いない。

 そんなことを頭の中を駆け巡った。

 しかし、伽耶はそんな珠緒の驚きなど気づかずに言った。

「あのお金、盗られちゃったんだってね。あの人、かわいそう。優しそうな人だったのに」


 たぶん、その時の珠緒はものすごい形相だったと思う。伽耶がそんな珠緒を見て怯んでいた。

「いったい誰にそんな事を聞いたんだい。そんなこと、禿のお前が知らないはず・・・・・・」


 はっとした。あの時、お内所から出てすぐに、姉花魁の妹新造、桔梗がいた。お染の言動にイライラしていたから、桔梗を見て、怒鳴ったのだ。覚えがあった。

 まさかと思った。もし、あの時、桔梗がお内所での話を聞いていたら、弥助が大金を持って帰ることを知っていたはず。それを誰かに話したとしたら・・・・。

 そう考えて、ごくりと唾を飲み込む。


「ねえ、伽耶」

 珠緒は思い切り優しい声を出した。伽耶には叱り付けて口を割らせようとしても無駄だ。怯んでしまい、ますます黙りこくってしまう。安心させて喋らせるのがいい。


 伽耶は、珠緒の怖い顔が柔らかくなったから、すぐに安心した様子。騙して口を割らせることに心が痛んだが、仕方がない。

「よく知っているね。あの人は私の幼馴染なんだ。すごく優しい人だよ。それを誰から聞いたんだい。伽耶にしては耳が早いね」

 そう褒めた。すると伽耶は得意げになる。

「すごい。あの人って、花魁の幼馴染だったんだね」


「でも弥助さんは身請けできないまま、お金を持って帰ったんだ」

 そう言って伽耶を見た。伽耶は心底残念そうな顔で言う。

「かわいそう、姐さん。姐さんにはここから出て行って欲しくないけど、誰かに身請けされることがこの吉原の花魁の幸せなんだよね」

「うん、そうだよ。私も残念だったけど、弥助さんもがっかりしていたのさ」


「好きな人に身請けされたら・・・・うれしいだろうね」

 伽耶にそう言われて、珠緒が思い浮かべた顔は直次郎だった。

「それよりも伽耶。よく知っていたね。あの時、お内所の話を聞いていたのかい?」


 珠緒が部屋に戻ったとき、伽耶はいなかったのを思い出した。

「ううん、あたしじゃないよ。桔梗に聞いたんだ」

 やはり、と思った。

「へえ、桔梗がねえ。桔梗が聞いて、それを伽耶に教えてくれたんだね」

「うん」

 それがどんな意味を持つのか、伽耶には知る由もなかった。


「その話はどこでしたのだろう。見世の廊下か、誰かの部屋だったのかい? それとも台所とか・・・・・・」

 普通なら、そんなことを根掘り葉掘り聞く珠緒に口をつぐむだろうが、伽耶はにこにこしながら答えた。


「ううん、あの時は珠緒姐さんを迎えに行こうとして、部屋を出たけど、その前にお手水へ行ったんだ。そこへ桔梗が慌てて入ってきた」

 珠緒が邪険に追い払ったからだろう。その足でお手水へ行ったらしい。

「じゃあ、そこでその話を聞いたんだね」

 それなら、その周辺にいた誰かが聞いたことになる。


「ううん」

 伽耶は首を振った。

「桔梗に手を引かれた。いいことを教えてやるって言って。ちょうど怒っていた珠緒姐さんが部屋へ入るとこだった。障子が閉められると、桔梗があたしの手をひいて、下へ降りたんだよ。そうしたらお内所の戸が開いていて、がっかりした男の人が座ってた。でも桔梗はそのまま、あたしの手を引っ張って、見世の外へ出たんだ」


「見世の外っ」

 つい大声をあげた。伽耶が驚いて見ていた。

「あ、ごめんよ。そしてどうしたんだい?」

 胸がドキドキしていた。


「外で桔梗が教えてくれたんだ。姐さんが身請けの話をされて、承諾しなかったって。あんな小判を積まれても、うん、って言わなかったって」

 そんなことを、見世の外で話したというのだ。注意深く聞けば、誰もが弥助が金を持って帰るということがわかる。

「その時、誰か近くにいなかったかい?」

「えっ」


「人が通ったとか」

 伽耶は考え込んでいた。

「あ、あの時、桔梗がそんな大金があったらいいのに、って言ったんだ。その金のことを話していた時、あの人が見世を出ていった。桔梗がほら、あの人だよって言った。あたしもちょっとお内所に座っているのを見たから、すぐにわかった。その時・・・・・」

 伽耶なりにその時のことを思い出しているようだ。

 伽耶と桔梗は、見世の外だから安心していたのだろう。そんなことを外でしゃべっていたのだ。

「誰もいなかったのかい? 誰かが通っただけでもいいんだ」


「あ、あの時、桔梗が、ほら、あの人だよって言った時、隣の見世の喜助がひょいって顔を出したんだ。見世先で話をしていたから、うるさいって叱られると思ったけど、あたしたちには何も言わないで、すぐに中へ入った。それだけだよ」


「隣の見世の喜助・・・・・・」

「あ、でもちょっとだけだよ。すぐにいなくなったんだ」


「その喜助って誰だろう。名前、わかるかい?」

 ある程度の顔は知っている。そんな話を聞いて、客から金を奪おうとする輩に心当たりはなかった。すぐに思い当たらずに考えていると伽耶が言った。


「ほら、つい、ふた月ほど前に入った新入りだよ。うちに花魁たちも隣に入ったばかりの喜助がかわいい顔をしている、って騒いでいたよね。それでお母さんに叱られてた」

「ああ」

 すぐにわかった。少しばかり色白で、優男の喜助が隣の見世に入った。しかし、どことなく影があった。珠緒はああいう種類の男は、いざとなると平気で女を裏切ると思っていたから、無視していたのだ。


「ねえ、その男はすぐに中へ入ったんだね。伽耶達はその後、どのくらい外にいたんだい」

「ん、あたしたちはすぐに見世の中へ入った。もう見世が開くし、誰かに見られたらまずいって思ったから」

 そうだ。すぐに伽耶を見つけ、叱り付けたのだ。


 するとその喜助は、伽耶たちがいなくなってから、弥助の後をつけたのかもしれない。

 まだ、見世を開ける前だ。人通りも少ない時刻だった。そっと弥助の後をつけて、人のいない路地に誘い込み、その金を奪う、その男ならできるかもしれなかった。


「ねえ、この話は誰かにしたのかい?」

「ううん、姐さんだけだよ。あれからもう忘れてたし。桔梗からも誰にも言ったらいけないよって言われてたんだ」

 もうほとぼりが冷めたと思っているのか。


 その話からすると、十中八九、その男のしわざだろうと思う。

 珠緒はすぐに腰をあげ、隣へ行く。顔見知りの花魁を探し、世間話をする振りをして、見世の中を見ていた。しかし、その喜助の姿は見かけない。たまに会えば話をする花魁の一人をつかまえて、訊ねてみた。


「ねえ、うちの台所の女中が、ここの新入り喜助に気があるんだって。私にいろいろ聞いてきてほしいって言うんだけど、今、いるかい?」

 いきなりだったから、その花魁が変な顔をした。

「新入りの喜助?」


「悪いね。その女中、心ここに在らずってわけなんだよ。そのせいで、ずっと粗相ばかりしてね。だから、いい人がいるかどうか、私が聞いてきてやるよって言ってきたんだ」

 その花魁はそれで納得した。誰かを思い出しているのだろう。目が宙をおよぐ。

「あの喜助かい? 与三郎だね。あいつはもうやめたよ」

「えっ」

 思わず叫んでいた。


「もう半月ほどになる。だから、一瞬、誰の話をしているのかわからなかったんだ。ふいといなくなったんだ。楼主が大騒ぎさ。後から文が届いたらしい。故郷の母親が危篤だからやめるってさ」 


「やめた・・・・しかも半月前」

 半月前、まさしく弥助の金を盗られた頃だ。

「故郷って、どこだかわかるかい?」

 花魁は呆れ顔になる。


「追いかけるっていうのかい。そのお女中に言いなよ。やめとけって。ここへ来た時は仲見世の遠縁の者だって言っていたんだ。けど、それが嘘だってばれた。どこの誰だかわかりやしないさ。突然、いなくなったんだ。もう忘れちまいなって」

 花魁は笑って腰をあげた。もう話はお終い。

「ああ、わかった。ありがとうね」


 やはり、その喜助、与三郎のしわざだろう。どこから流れて来たのか誰も知らず、吉原で働いていた。弥助の金が奪われたその直後に姿を消している。それがもし、近江屋の喜助だったら、すぐに疑われたが、隣の見世の使用人だった。岡っ引きもそこまで聞き込みをしなかったらしい。

 隣の喜助が、禿たちの話を聞いていたとは誰も思ってもみなかった。



 珠緒はその時のことを詳細に書いていた。その文を龍之介に見せるために。そして、妹禿の不始末はすべて姉花魁にあると書き、弥助にも深く謝罪していた。


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