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お葉の過去 4

 それからしばらくは、誰もお葉のところへ来なかった。ただ平穏な日々が続いていた。お葉は少しでも借金を返そうと、日夜、頑張って働いていた。母がいなくなって、その悲しさと淋しさを紛らすために働いていた。

 お葉の借金は洪庵の手から離れた。では今後はどこへどうやって返すのだろう。そう懸念していた。


 ある日突然、お葉のところに現れたのは、高利貸しで有名な藤田屋だった。洪庵に似た笑いを浮かべ、新たなる証文を手にしていた。

「これが洪庵先生へ支払った金額です。これを今度からうちへ返してもらえればいいだけです」


 洪庵への借金は五十両だったはず。しかし、そこには六十両と書かれていた。しかし、もうお葉は何も言わずに証文へ名前を書いた。いまさら五十両が六十両になっても、そう大差はない気がした。訊ねてもそれなりの理由をつけられて、結局はそのままになる。そんな諦めだった。


「では、月に二度、うちの取り立て屋が参ります。少しでもいいから渡してやってください。そうじゃないと毎日の利息がつくから、借金がどんどん膨らむことになりますよ」

 そんな金、その利息でさえ、お葉一人ではいくら頑張っても返せるものではなかった。


 ふと、直次郎のことが頭によぎる。

 母亡き後、もしかすると井筒屋に戻れるかもしれないと考えたのだ。しかし、すぐに思い直した。いまさら、あそこへ戻っても、皆は以前のように迎えてはくれないだろう。そして既に一度、暇を出されている身だ。お葉は奉公した日も浅い。信用が薄かった。それに借金の取り立て屋が井筒屋にもくるかもしれない。そうなるともっと迷惑がかかる。

 直次郎の笑顔を思い出していた。絶対に直次郎には迷惑をかけたくなかった。


 お葉は朝から晩までがむしゃらに働いた。そしてその賃金のすべてを取り立て屋に渡した。それほどの金ではなかったが、取り立て屋は何も言わずに、その金を持って帰った。

 これからずっとこんな生活が続くのだ。


 お葉が長屋へ戻るときは寝るだけ。煮炊きもせず、夜遅く帰って、倒れるように寝床にもぐりこみ、朝起きて働きに行く。

 そんなことが三月みつき続いた。

 一度、旅籠からの賃金が一日遅れたときだった。取り立て屋は毎回違う顔だ。その時、いつもよりもずっと渡す金が少なかった。

「明日、お金がいただけるのです。もらったらその足で払いに行きます。どうか今日はこれで勘弁してください」

 そう懇願した。


 するとその取り立て屋は言ってきた。

「そんな微々たる金を払っても、お前さんの借金はなくならない。それどころか、毎日加算されているんだ。知ってるだろう」

 そう改めて言われると言葉に詰まる。それはお葉もわかっていた。けど、金貸し屋の方からは、わずかな返済でも何も言わないでくれていた。そのことに感謝をする一方で、不安にも思っていた。

「あ・・・・。わかっております」


 やっとのことでそう言った。すると取り立て屋の若い男はにやりと笑う。

「へえ、そうかい。じゃあ、どうするつもりなんだい? このままではもっともっと借金が増えていく。まさか、夜逃げでもしようって腹だったのかい?」

 その男の声は、ぞっとするほどやさしい。そして顔には笑みを浮かべている。けれど、その目は冷ややかで恐ろしく、お葉の目を捕えていた。


 夜逃げなんて、考えもしなかった。なるほど、世の中にはそんなことをする人たちもいるのだ。働きに出ると言って、そのまま江戸を出てしまえば、もしかするとお爺のところへ帰れるかもしれない。そんなことを遠い目をして考えた。


「うちのところから金を借りた夫婦がいてね、その二人が夜のうちに逃げたんだよ。けれど、うちには方々に言いなりになる手下がいてねぇ、どこへ逃げようとすぐに捕まえられるようになっている。その二人も江戸を抜けるその手前で捕まっちまって、あと少しってところでだよ。かわいそうになあ。あはは」

 おかしくもないのに笑う、その顔が不気味だった。


「それでどうなったかっていうと、男の方は殴られ蹴られの果てに、その辺へ捨てられた。もしかするとそのまま野垂れ死にしたのかもしれないなあ。そして女房の方は、そのまま岡場所行きだ」


 岡場所と聞いて、お葉は身を堅くする。

「いや、そういうことがあったっていう話さ。なあ、お葉ちゃん。お葉ちゃんはかわいい顔をしている。そんなに切羽詰ったことになる前に、水茶屋に仕事を変えたらどうだい? そこに住み込みで働けばいい。オレがいい所、知ってんだ。まず、オレが常連になるよ」


 水茶屋、この男の言う茶屋は色茶屋のことだろう。色を売る、つまり、客の求めに応じて体も売るのだ。岡場所とそう変わりない所だ。

 咄嗟に顔をこわばらせた。それを男の感じ取ったのだろう。下卑た笑いを浮かべ、立ち上がる。

「まあ、いい。それはお葉ちゃん次第だ。このまま、もう少し頑張ってみるといい。うちの店も良心的なんだよ。もう少し様子を見るつもりでいるし」

 そう言って男は帰っていった。


 その頃のお葉は笑わなくなっていた。旅籠の女将に、いつも切羽詰った怖い顔をしていると言われた。客に笑顔が向けられないから、ずっと風呂焚きや飯炊きばかりやらされていた。

 笑顔を忘れていた。山にいた頃はお爺と二人だけだったが、毎日が楽しく、良く笑っていた。江戸にきて母の容態が心配だったが、母に笑顔を向けていた。その母がいなくなり、お葉は笑わなくなった。笑う必要がないのだ。人はなぜ声をあげて笑うのだろう。いったいどうやって笑うのか、そんなことも忘れてしまっていた。心が凍ってしまったかのようだ。


 そんな淡々とした生活の末、お葉は倒れた。旅籠の仕事をしているときに、意識を失った。過労だった。

 いくら若く、健康な体でも、数か月を体を酷使して働いていた。食べる物も客の食べ残しをちょっと口にするくらいだった。

 それにろくに寝ていなかった。それほど先のことを考えていたわけではなかったが、不安に押しつぶされそうになり、夜中に何度も目を覚ましていた。お葉が倒れる二、三日前は、幽霊のような顔をしていると言われていた。


 お葉の長屋に運ばれた。不思議によく眠れた。お葉が倒れて三日、その間、死んだように眠っていた。夢も見ずに、お金のことも考えなかった。時々、隣の長屋のお内儀が、水やおかゆを持ってきてくれた。それを口にしては再び眠りについた。

 いっそ、このまま深い眠りに入り、目覚めなければいいとさえ、思った。

 張りつめていた糸が切れてしまったようだ。がむしゃらに働いていたお葉がその足を止めてしまった。もうそうなると、また走りだすことがとても困難で、とてもつらいことのように思えてきた。

 もう限界だった。そして、もうすべてがどうでもよくなった。


 四日目にはなんとか起きられるようになった。隣のお内儀に感謝した。笑顔を向けることができた。この数日間、周りの人々がお葉のことを心配してくれていたと知った。取り立て屋も数回来たらしい。けれど、長屋の皆が勇気を振り絞って追い返してくれたと聞いた。


 お葉をこれ以上働かせたら死んでしまう。そうなるとお前たちは人殺しだ。番屋へ駈け込むぞと脅したらしい。

 取り立て屋もお葉が寝込んでいるのなら、金が手に入るわけではないので、おとなしく引き下がってくれたようだ。もしも取り立て屋が逆上して誰かが傷ついたら、そんなことを思って身震いする。きっと迷惑をかけていたにちがいない。


 お葉を庇ってくれたことは本当にうれしかった。取り立て屋は、この次はこうはいかないぞ、と捨て台詞を吐いていったらしい。

 こんなに暖かい人々にこれ以上、迷惑をかけられない。お葉はこの数日、眠ったことで、きちんと行く末を見ることができるようになった。


「取り立て屋さんが来たら、中へ入れてください」

 隣のお内儀が目を剥く。なに言ってんだいと言わんばかりに。

「その人は仕事をしているだけなんです。店のご主人に言われて、私の所へきて、お金を取り立てにくる、それだけのこと。私に恨みがあるから来ているんじゃないんです。大丈夫です。きちんと話をしますから」

 でも、と口ごもるお内儀。

「私がきちんとお金を返せないからいけないんです。ねっ」


 その日、取り立て屋は二人で来た。そしてさらに二人、柄の悪い男たちを連れていた。今度は長屋の連中には屈服されないと息巻いているかのようだ。しかし、長屋の人々は素直に受け入れた。拍子抜けしたような顔で、お葉の家に入ってきた。

 お葉は、取り立て屋を前にして、頭を下げた。

「申し訳ありません。もうこれ以上、私にはどうすることもできません。私にできることなら何でもいたします。だから、この長屋で暴れることだけはやめてください」

 それはお葉が、借金のために、なんでもする、どこへでも行くということだった。


 翌日、お葉のところへ金貸し屋の主がきた。

「よくわかったらしいね。お前さんにはもうそれほどの選択はないのだよ。このままでは借金を返すどころか、膨らむ一方だ」

 そう穏やかな声で言われた。お葉も素直にうなづく。

「はい、わかっております」


「一番手っ取り早いのは吉原だろう。他にも同じようなところはあるが、世間が近すぎる」

「世間が、・・・・近すぎる?」


「そう。吉原ってとこは、一度遊女になるとその町からは出られない。ということは、周りにいる女たちは、その殆どが同じような境遇の者ということになる。お互いの傷をなめ合う同士になれるということ。他の岡場所は地女がそのあたりをうろうろしている。そんな姿を見ると、お前さんも惨めになるだろう」


 吉原という町。公許の遊郭の集まる町だ。そこに住み働く女もいるが、女性の出入りは厳しいと聞いている。入るには通行の許可証を得て、出る時にはそれを見せないと出られない。遊女たちの足抜けを防止するためにとられた策だった。

 その町に囚われた鳥のようだが、その広い空を目の当たりにしなければ、自分が惨めになることもないと考えた。同じような年頃の娘が幸せそうに歩いているそんな姿を見て、自分にはない幸せに嫉妬するなら、世間が見えないところの方がいいと考えた。


 翌日、お葉は決心した。吉原へいくと。もうこの世には未練などなかった。金貸し屋の口利きで、お葉は近江屋妓楼へ買われた。この時、お葉はもうすでに十六になっていたから、その日、いきなり見世に座らされた。


 近江屋は中見世だった。吉原の中、二百件ほどの妓楼がある。大見世はいわゆる高級ホテルのような存在で、吉原の中の六、七軒ほどに過ぎない。そして中見世は十六、七軒ほどでまあまあのランクのホテルに位置づいていた。そして小見世と呼ばれるところは安宿、安い旅館といった存在だった。


 まず、お葉は珠緒という名をもらった。

 始めの頃は愛想がなかったから、それほど客がとれなかった。一晩に二人の客がつけばいい方だ。それに決まった部屋がもらえないから、大部屋に衝立をたて、そこへ客と寝転ぶという相部屋だった。

 近江屋では交じり見世とも言われていて、引き手茶屋を通して遊ぶ花魁と、見世先に座り、行き交う人に買われる女たちがいた。お葉はしばらくそんな生活をしていた。

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