お葉の過去 3
長屋への簡単な引っ越しもすみ、お葉は母の看病をしながら、近くの飯盛り屋で働くことになった。住み込みの井筒屋とは違って、昼から出て夜までだからずっと楽な仕事だと思えた。どんな形にしても母と一緒に暮らせることはうれしい。
そんな時、肺病に効く薬を処方してくれる医者のことを耳にした。その時はまだ、お葉には金の蓄えはあった。江戸を出るときにお爺が、有り金を全部持たせてくれた。それに龍之介との夜伽の後、小次郎から江戸への餞別として、まとまった金をもらっていた。これらはいつか母と一緒に家を借りて住みたいと思っていたものだ。それを今、母のために使おうと決心し、その医者の門をたたくことになった。
中山洪庵は、人当たりのいい親切そうな中年の医者だった。大きな屋敷に住み、助手のような若手の助手も数人いる。それだけで立派なお医者様だと信用していた。洪庵はお袖の容態を聞くと、すぐさま長屋へ出向いてくれた。
洪庵は、母の様子を見るとわずかに顔をしかめたが、お葉には笑顔を向けて言った。
「もっと早く私の所へ来て、治療にかかればよかったのう。母御は長くかかるかもしれない。しかし、私の出す薬を欠かさず飲んでいれば、徐々に効いてくるであろう」
そう言ってくれた。
母の容態は素人目に見ても悪いことがわかっていた。その言葉に救われる思いだった。
この時ほど、お金を持たせてくれたお爺と小次郎に、感謝したことはない。
お葉の毎日は、飯盛り屋で働きながら、母の看病をする。そして時々洪庵の所へ行き、その容態を洪庵に告げて、薬をもらう。その薬は高値だったから、お金が尽きることを心配して、近くの旅籠でも働くことにした。母の事情を話すと、時々その様子を見に帰ってもいいとまで言ってくれた。
時々、長屋へ直次郎が姿を見せた。どこかのお得意様まわりの途中で、一言、二言をかわして帰っていく。お葉が二か所で働くことに心配をしていた。
「大丈夫。私は元来、丈夫にできているの。おっ母さんのためだもん」
直次郎は、時々貴重な卵や野菜を差し入れてくれた。体の弱っている母には必要な物だ。ありがたかった。
「すまない。今の私にはこんなことしかできなくて・・・・・・」
「そんな・・・・。直次郎様がここにきてくれると私、安心するんです。病に倒れた母とこの世に取り残されたようで怖くなる、けど直次郎さんの顔を見ると、ああ、よかった、一人じゃないって思えて・・・・」
うまく心の内を伝えきれなかったが、直次郎もうれしそうにしていた。
月末に母の薬代を払った。その一回でお葉が持っていた持ち金をすべて失った。洪庵はその時のお葉の動揺を見抜く。長くかかると言われたのに、たったひと月でお金が尽きてしまったからだ。
「このまま薬を出していくよ。おっ母さんには今、この薬が必要なのだ。毎日欠かさずに飲むことが大事なんだよ」
「でも、もう私にはそんなお金はありません」
洪庵はにっこり笑う。そういう貧乏な患者たちを良く知っているらしい。
「金なんて後払いでいい。おっ母さんが治れば二人で稼げるだろう。その時、きちんと返してくれればそれでいいよ」
その時の洪庵が神々しく見えた。
「ありがとうございます。一生懸命に働きます。毎月、わずかでもお返ししていきますから」
感謝してもしきれない。涙がこぼれた。
しかし、にこにこ顔の洪庵が、お葉の前に手慣れた様子で証文を取り出す。
「こんな時に悪いが、一応けじめをつけさせてもらうよ。薬代として証文を書くということ。承知してくれるね」
「はい、もちろんです」
お葉がそういうと洪庵の笑顔がさらに明るくなった。
「よかった。それではここに、そういうことが全部書いてある。名前を書き、印をおしておくれ」
お葉は言われるままに、その証文に名前を書いた。読み書きは井筒屋で少し習っていた。それでも洪庵の証文には読めない字が多かった。しかし、全面的に洪庵のことを信用していた。
「あ、印鑑はありません」
「じゃあ、拇印でいいよ」
そう言われて、お葉は親指に朱肉をつけ、名前の下に押していた。
「さあ、お葉ちゃんは何も心配することはない。おっ母さんのことだけを思って、看病しなさい。薬はきちんと飲ませるんだよ。毎日ね」
その時のお葉は確かに不安に思っていた。これからどれだけのお金が借金として加算されていくんだろうと。けれど洪庵の言葉を信用していた。元気になったら母と二人で一生懸命に働けば、すぐに返せると、その言葉を信じていた。そうするしかなかった。
本来なら、その場所に直次郎を呼びたかったが、なぜかその二、三日前から、毎日のように顔を見せていた直次郎が姿を見せなくなっていた。いろいろと任せられるようになったと、嬉しそうに話していたから、今までのように抜け出せなくなったのだろうと単純に考えていた。
それから半月がたった。そこへ見覚えのある井筒屋の手代の一人、半七が、お葉の飯盛り屋へ来た。それまで直次郎に会わなかったことを思い出していた。
どうしたのだろう。直次郎が体でもこわして寝込んでいるのではないかという考えが頭をよぎった。
「お葉、頑張っているらしいね。おっ母さんの具合はどうだい?」
「あ、まあまあです」
半七は顔を曇らせる。言いにくいことを言わなければならない、そんな顔。
「実は、直次郎様のことで」
「はい」
お葉が緊張して、ぐっと拳を握り締めた。やはり、何かあったのだ。
「商売屋には、やはり肺病は困るのだよ。もう係わりないと言っても、時々直次郎様がお葉に会いに、ここへ来ていることは知っている。もし、直次郎様が肺病にかかったら、それこそ大変なことになる。お葉もつらいだろうが、もう直次郎様には会わないでやってもらいたいんだ」
そう言われて、お葉の視界から色が失われ、すべてが色あせてみえた。ほんのかすかな幸せが失われていく。
半七は、今、直次郎がどれだけ頑張っているかを告げていた。お得意先に毎日顔を出し、その上、新しい取引先も見つけてくる。皆が直次郎のことを認めていた。そこへ肺病でやめたお葉たちの所へ通っているという噂もたった。
「直次郎様は、これから私と一緒に大阪へ仕入れにいく。しばらくは江戸を留守にする。いいね、戻ってきても、絶対に会わないでほしい。直次郎様には私から、お葉が会いたくないと言っていると告げる。わかったね」
そう言って手代はお金の包みをお葉に握らせた。
一瞬、頭に血が登ったが、直次郎の立場を考えると仕方がないと思えるのだ。それに、今のお葉には直次郎と会うことよりも、母のことでいっぱいだった。言われるままに薬を飲んでいても、咳が止まるわけではないし、食欲が出てくるわけでもなかった。
悲しかった。お葉はそんな不義な金を受け取っていた。そんな自分が情けなかった。しかし、これも直次郎のためにもなると自分に言い聞かせた。
「わかりました。もう金輪際、直次郎様と会いません」
こうして、手代の言われるままに、長屋も引っ越した。さらに他の食い物屋に仕事も変えた。大坂から帰ってきた直次郎が、お葉を探しても見つからないようにするためだ。それからお葉の心の中から、直次郎が消えた。忘れなければならない人だ。
そうしているうちに数か月が過ぎていた。
もうお葉の生活には張りがなかった。淡々とやるべきことをやっていただけ。
暖かい春を迎えた頃、お葉がいつものように夜遅く長屋へ戻った。夕方、一度母のために、おかゆを作りに帰っていた。その時は珍しく全部平らげ、珍しく笑顔まで見せていた。安心していたのだ。
暗い中、手さぐりで家に入る。月の明かりだけで、お葉はそっと母の隣の布団に体を滑り込ませる。それでも母がお葉の気配を感じ、いつもご苦労さん、疲れただろうと声をかけてくれた。
その晩は母は何も言わなかった。ぐっすりと寝ているのだろう。そう思った。しかし、お葉が暗闇の中、シンと静まり返ったその様子に異変を感じた。聞こえるはずの母の息づかいが聞こえなかったのだ。そこには誰もいないかのように。
「おっ母さん? 良く寝てるのね」
そっと声をかけた。それでも返事はなかった。
思い切って行灯に火を灯す。その揺れる薄暗い光に照らされた母の姿は、血まみれで、もうすでに息絶えていた。
たぶん、お葉は叫んだのだろう。隣のおばさんが飛び込んできた。長屋中が大騒ぎになっていた。あっけない母の死だった。
お葉はそれから二、三日魂が抜けたような呆けた状態だった。目の前を大勢の人が行き過ぎて、気づいた時にはもう母の葬式が終わっていた。
洪庵が来たのは、それから初七日が済んだころだった。お悔やみを言い、申し訳なさそうに借金の証文を持ってきたのだ。
もうすべてがどうでもいいと思っていたお葉だったが、その金額を見て血の気を失った。
それは五十両もの大金となっていた。
「話が違います」
「いや、違わないよ。これが往診料、薬代、それを処方する時間と作業料なんかも含めてある。さらにその月末に払ってもらえていないから、どんどん利子がついて、こうなったわけだ」
お葉の息が止った。
「ほうら、ちゃんとここに書いてある。薬代の他、その他の費用は後に換算して請求する。そのすべては洪庵にゆだねる、とね」
それは最初に名前を書いてくれと言われた証文だった。そんなことが書いてあったとは知らなかった。
「お葉ちゃんの名前も書いてあるんだ。このことを全部承知しているということ。いまさら知らなかったって言われても困るよ。私も助手たちも、山の中を苦労して歩き、時間をかけて採取した薬草を調合したんだ。この世にお金がかからないことなんてないんだよ。それなりのお金は支払ってもらわないとねえ」
「でも、今の私にはそんなお金、払えません」
洪庵はそれほど表情を変えずにいう。そういう答えを予測していたらしい。
「ああ、そうかい。まあ心配しなくてもいい。私はあるところから、そのお金を先にもらう。あとはお葉ちゃんが、そっちへ返してくれるようにするとしよう。それでいいね。そうすれば私とはもう関係がなくなる」
それは選択の余地はない、強い押し付けた言い方だった。思わずお葉はうなづいていた。
洪庵が怖かった。ニコニコしているその顔の裏側には、こんなどす黒い面があったのだ。洪庵はホクホク顔で、帰っていった。