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お葉の過去 2

油問屋は、あぶらどいやと読むそうです。なぜかはわかりません。(Wikiにて)

 江戸にいるお葉の母、お袖が奉公している店、油問屋あぶらどいや井筒屋は深川付近にある。店の主、源之助が一代で築き上げた店だった。

 主に燈油を中心として扱っている。井筒屋の油は、他よりも高値だが、質がいいという評判を持つ。毎日、その日の油をお得意様の家に届けるため、住み込みで奉公している人達の数は、二十人ほどいた。


 お葉は、その奉公人たちの食事を作る、台所の下働きとして入った。ある程度の苦労は覚悟していたが、その忙しさは山の暮らしが天国のように思えた。

 朝は暗いうちから起きて、二つある大きな水がめに水を足す。そして米をとぐ。大釜に三つを同時に炊いた。味噌汁も作るから、手際よく炊いていかないと他のおかずが作れないことになる。

 そして奉公人たちが一斉に食事をして、彼らは店を開ける準備をするために、慌ただしく座を立った。その片付け、山のような洗い物を済ませる。それらが終わると台所の隅で、やっとお葉達も残り物のご飯と漬物にありつけた。


 しかし、安心してはいられない。一息つく間もなく、昼餉の支度に取りかからなければならなかった。昼は握り飯にすることが多かった。店の合間をみて、手のあいた奉公人が台所へきて、ちょいと口にしてまた、戻っていく。

 そして夕餉。こちらは店が閉まってから食事をする。魚などを焼いたり、煮つけにしたり少々豪華にする。こちらは朝餉のように、時間に追われることがないから、皆が和やかな雰囲気で食事をしていた。

 お葉も一番ほっとする時間だった。

 それでもお葉の仕事は終わらない。片付けと翌朝の準備があった。毎日がそんなことの連続だった。慌てていて、鍋をひっくり返すこともあった。うっかりして、ご飯を焦がすこともあった。泣いている暇もないほどの忙しさだった。


 母のお袖は体の調子がよくないということで、寝たり起きたりの状態だった。それで奉公人たちの着物の繕いなど、縫物を専門にしていた。これなら体を休めながらできる。店主の配慮だった。 

 お葉は少しでも暇をみつけては、母の所へ行って、いろいろな話をしていた。仕事はかなり過酷だったが、そばに母がいる、そう思うだけでそんな疲れは吹っ飛んでいた。


 お葉がそんな生活に慣れた頃、ある青年と出会った。その青年は、お葉がまだ暗い内から、袖をまくり上げて井戸の水を汲んでいた時、突然現れた。

「ずいぶんと力があるんだね」

 そんなことを言われた気がする。

 お葉はその言い方に、自分が女らしくないと言われたような気がしてむっとした顔をした。子供の頃からお爺の畑仕事を手伝っていた。それなりの力はある。初めは無視して水を汲み上げていた。

「ごめん、怒った?」

 それでも何がおかしいのか、青年は笑いをこらえている様子。お葉が黙ったまま、水桶の天秤を肩に担ごうと屈む。すると青年はその天秤棒を先に手にし、軽々と二つの水桶を担いだ。

「あっ」

「お勝手(台所)まで運ぶよ。怒らせちゃったから」

 

 そう言って、どんどん先へ運んで行く。いつもお葉がふらふらしながら、運ぶ重い水桶を軽々と運んでくれた。そして勝手口に置くと、じゃあ、と言って行ってしまった。一体、この人は誰? 何? という疑問しか残らなかった。


 それからもその青年は毎朝現れて、お葉の水運びを手伝ってくれた。名前は直次郎、同じ年だ。この店の次男だと知った。

 直次郎は十歳の頃から他の商家へ奉公に出され、帰ってきたばかりだった。商いの修業ということだろう。親の元で他の丁稚と一緒に働くよりも、他の家で厳しくされたほうがより多くのことを学べるということ。

 井筒屋には長男、豊太郎がいる。いづれ、この店はこの豊太郎が継ぐ。奉公人たちは、直次郎はいずれ、のれん分けされると噂をしていた。


 最初、お葉は直次郎のことをただの新入りだと思っていた。だから、友達のような口を利き、ちょっとした愚痴まで洩らしていたのだ。次男だということを他の女中に聞いて、驚くよりも腹が立った。なぜ、最初からそう名乗らなかったのか、この店の次男に水汲みの手伝いをさせてしまったこと、そして直次郎の兄の豊太郎は猫舌で、熱い味噌汁が苦手で熱々を運んでいくと睨まれるなどということまで言ってしまっていた。


 翌朝、いつものように現れた直次郎に冷たくそっぽを向いた。

「どうした?」

 直次郎のニコニコ顔が困惑する。


「どうしたもこうしたもございません。直次郎様、これは私の仕事です。自分でやれますから」


「いいじゃないか。手伝っても。それになぜ私なんかに、さまなんてつけるんだい」

 それまでは直次郎さんと、気軽に呼んでいたからだった。

「直次郎様です。ここの息子さんだったなんて知りませんでした。今までのご無礼をお許しください」

 そうそっけなく言って、お勝手に行こうとした。その行く手を阻まれる。

 直次郎が笑っていた。お葉の意固地な態度が可笑しかったらしい。


「私もここの使用人なんだよ。しかもお葉より遅く入った新入りだ。確かに父はここの主だ。そして兄はこの店を跡取り。私は他の店でいろいろと勉強をさせてもらったが、この店では入ったばかりの新米だ。だから、こうした下働きをしている。なにか間違っているかい?」


 直次郎は同い年でもずっと大人で穏やかだった。こんなことで拗ねているお葉に腹もたてず、やさしく諭してくれる。

「使用人たちはね、こうしてみんなで助け合うことが大切なんだ。助けていると自然に向こうも助けてくれる。具合の悪い時なんか感謝、感謝だよ」

 そう言って笑った。

「でも、私には直次郎様をお助けするようなことはないと思います」

 仕事が違うということを言いたかった。お葉の仕事は誰でもできるが、直次郎の仕事をお葉が代りにすることはないと想像できる。

「それは、お葉は私のことを助けてはくれないということかい?」


「あ、そのようなこと。そういう意味じゃありませんから」

 お葉がムキになって訂正した。直次郎はからかっていたようだ。

「お葉といると私の心がほぐれるんだ。一緒にいて話すだけでいい一日が送れる。お葉がここにいてくれるだけで私はうれしい、それは助かっているってことじゃないかな」

 そんなことを言われた。お葉の胸はどきどきしていた。


 しかし、その直次郎の言葉にはもっと深い意味があった。

「ここに戻ってきてよかったのか、悪かったのか」

 つぶやくようにそういう直次郎の顔を見た。どこか寂しそうな横顔。

「どうされましたか? なにか?」


「皆が、私のことを煙たがっているようなんだ。お葉が急に口調を改めたように、みんなも私のことを、ここの次男だと意識しているからね。なにか粗相があると私を見るんだよ。このことを父に告げ口しないかどうかって」

「そんなこと・・・・・・」


 ひどいと思ったが、直次郎に水汲みを手伝ってもらったこと、もしそれを知られたら、自分の仕事をさぼっていたと思われないかとお葉でさえ、そんなことを思っていたのだ。店でのことならなおさらだ。

「それに私が一緒だと、気が抜けないらしい。つまり、皆が疲れるのだよ」


 お葉は、直次郎をかわいそうだと思った。最初はこんなに大きな商家の次男に生まれて恵まれている、うらやましいとさえ、思った。けれど、その反面、それだけで周りの人に疎まれているのだ。ここにいる直次郎は、人のことを店主に密告するような意地の悪い人ではない。

 お葉の中に、ぐっと怒りが立ち込めていた。

「私は直次郎様のこと、好きです。やさしいし、よく気がつくし、そのままでいれば、いつかは周りの人もわかってくれると思います」

 そう言っていた。

 そして、自分の言ったことを改めて考え直し、付け加えた。

「あ、好きですと言ったこと、人として好きですという意味ですからね」

 早口でそういうとプイっと後ろを向いた。

「お葉、ありがとう」


 それからは、お葉なりに直次郎のことを庇った。誰かが直次郎のことを言えば、丁稚奉公をしていた頃の苦労話を聞いたまま話したりした。

 直次郎は腰が低く、油の配達がなくても、マメに得意先に出向いたりしていた。そんなふうに忙しくしていても、お葉の毎朝の水汲みを手伝ってくれる。

 それに直次郎は次男だからといって、一度も威張ることはなかったから、始めは鼻白むような顔をして聞いていた奉公人たちも、それに気づき、その存在を認めるようになっていた。今では、もし直次郎がのれん分けをしたその時は、直次郎について行きたいと言っている奉公人もいるらしい。


 そんな時だ。お葉の母が吐血した。それも大量に。それまでお袖もなんとなく自分が肺病ではないかと気づいていた。何度か吐血していたらしい。それを認めることが恐ろしくて、今まで誰にも言えなかった。しかし、今回はそれを誤魔化せないほどの量を吐いていた。もうこうなったらここにはいられなかった。


 他の人に病がうつることが心配された。それですぐ、物置小屋に畳を敷いて、そこに寝泊まりをさせられた。お葉も同様の目で見られた。その娘だからとお葉の触ったものなど口にしたくないという者まで現れたのだ。

 それで、井筒屋の主人、源之助は、お袖とお葉のために長屋を借りてくれた。当面の生活費も添えてだ。


 そのことには頭の下がる思いだったが、今まで一緒に笑顔を向けてくれた人たちが、豹変したことに打ちひしがれていた。お袖とお葉は井筒屋を追い出されたのだ。

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