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お葉の過去 1

 ずっと山の中腹でひっそりと暮らしていたお葉だったが、それなりに幸せだった。猫の額ほどの畑を耕し、できた作物を持って下の村の人々と物々交換をして、肉や米を手に入れていた。山にはそれなりの危険も厳しい寒さもあったが、お爺との二人暮らしは気ままで自由だった。


 お葉は、まだ母親がいたころから、よく母について村へ降り、機織りの手伝いをしていた。その家が弥助の所だった。夏の間はその家で、家事も手伝いをしながら、毎日一緒に過ごした。

 その頃から、お葉は弥助のことを想っていた。それは好きという感情なのか、兄のような存在なのかよくわからなかったが、弥助の顔を見ると安心できた。それは他の村の少年たちとは違う感情だった。


 そんなある日、突如として弥助はいなくなった。弥助は別の町の刀剣研ぎ師へ弟子入りをすることになったのだ。お葉には一言も言わず、ある夏からいなくなっていた。悲しかった。弥助にとって、お葉は単なる幼馴染であり、ただの遊び相手だったのだ。

 弥助はそれでも時々珍しい菓子などを土産に帰っていた。

 お葉にも会いにきてくれた。


「きちんとお別れを言いたかった」

 そんな恨み言のような言葉がつい、出ていた。

 久しぶりに会ったというのに、そんなことしか言えないお葉。自分に腹がたった。しかし、弥助は気にすることなく、笑顔でいる。

「ごめん。会いに行こうと思った。けど、もっと淋しさが増し、つらくなるような気がしてね・・・・。これから厳しい修行として弟子入りするんだ。だから、そんな気弱になる自分が許せなくて、きちんと頑張っているという報告をしようと決めたんだ。本当に何も言わなくてごめん」

 そう言ってくれた。


 そんな時、母親も江戸へ奉公に出ると決まった。

 以前から、いい奉公先を探してくれと、声をかけていた。母はお葉のことを心配していた。いつかはこの山から降りなくてはならない。そんな時、一家三人の暮らしがたつようにということだ。


 お葉の生活から、弥助と母がいなくなった。寂しかった。けれど、そんなことは顔に出さず、精一杯の笑顔で、お爺の手伝いをしていた。


 母は、最初の二年は、きちんと藪入り(住み込みの奉公人が帰ることのできる日)には帰ってきた。江戸からの遠方になるし、山への道は行き来ができなくなるから、正月の分を夏の盆にもらっていた。

 しかし、その翌年からは母から「都合が悪くなり、帰れない。けれど大丈夫、心配しないで」という文が届いた。その文でさえ、お葉は読むことができず、村の若者に読んでもらっていた。


 お爺が、そんなお葉を悲しそうな目で見ていることを知っていた。お爺が字を読めないから、お葉も読めない。夏の間だけ、村に下り、他の家の手伝いもしているが、行儀見習いには程遠かった。成長していくお葉を、このままこんな山の中腹に閉じ込めておいていいのか、そういう心の葛藤があったらしい。


 そんな時だ。龍之介と小次郎がずぶ濡れになって、山の家に迷い込んできた。お爺はその二人を、甲斐大泉の陣屋からきた侍の子だとすぐにわかったらしい。

 その事情は子供なりに考えた恐れ、不安だった。武士の命ともいえる大事な刀を傷つけた。子供ながら、武士の面子があるのだろう。


 お葉はそれを知って、村に帰ってきている弥助を思い出していた。いつもならここにはいない弥助が、母の具合が悪いからと町から戻ってきていた。

 その弥助が、龍之介の持っていた刀を研いで修理をした。


 お爺は、そんな龍之介を藩主の次男だろうと憶測していた。普通なら、江戸屋敷に住むはずの次男は事情があり、国許にいた。皆、それを知っている。

 そんな身分の侍に会うことが稀だった。さらにその刀研ぎを命じられることも滅多にないことだ。弥助は見事に龍之介の刀を修復した。それがきっかけで、弥助の腕が世間に知られるようになった。


 お爺も龍之介たちを助けたことから、金一封をもらった。その金があったから、この冬が来るまでに山を下りる決心ができたのだろう。お爺はお葉が知らない間にいろいろ考えていた。


 山を下りて、弥助の師匠の家の下男としておいてもらうことになった。もちろん、お葉も同じ家の下働きとして受け入れてくれることを承知してくれていた。そこなら、お葉の行儀見習いや手習いもできるだろうと考えたらしい。


 しかし、お葉はその話を断った。その頃、弥助の身辺に女性がいることに気づいていた。今までの弥助は、ほつれていた着物でも、そのまま気にしないで着ていた。けど、最近の弥助は身ぎれいにしている。明らかに女人の手が加わっていた。

 近所の人の話によると、師匠の遠縁の娘が、弥助の身の回りのことをしているとのことだった。それは押しかけ女房のような存在。ほのかな恋が破れた瞬間だった。勝手に弥助のことを想い、心を痛めた。弥助がその娘に微笑む姿を見たくなかったのだ。


 お爺が山を下りるのなら、お葉は江戸に奉公している母の元へ行こうと決心した。そんな時、龍之介がお葉のことを好いているとお爺に言われた。お葉にとって、十三の龍之介はかわいい弟のような存在でしかなかった。あの日以来、何度もこんな山奥まで会いにきてくれていた。


 ある日、村の女性から教わったことがあった。

 夜伽のことだった。もしかすると、龍之介がお葉に夜伽の相手を求めてくるかもしれないと、お爺が懸念していたらしい。その時の知識として、お葉が知っておかなければならないことを教えてくれた。


 それがその後、すぐに役立った。ある日、珍しく小次郎が一人でお葉に会いにきていた。

「山を下りると聞いた。それにお葉は江戸へ行くということも。その前に頼みを聞いてもらいたい。もちろん、お葉が嫌なら、はっきり断ってもらいたいのだが・・・・・・」


 そう前置きされて、小次郎がお葉に、龍之介との夜伽をと言ってきた。もちろん、断ることもできた。けれど、お葉も弥助に傷心していた。誰かを想う気持ちは、お葉も龍之介も同じなのだ。

 龍之介は懐いてくれている弟のような存在だった。好きというよりもかわいいと思える。そんな龍之介に、自分の姿を重ね合わせていた。お葉が感じた失恋の苦くつらい思いを、味あわせたくはなかった。どうせ続かぬ関係となる。龍之介とは身分が違い過ぎたし、お葉は江戸へ行く。たった一夜だけなのだ。

 江戸を出る前に宿場町で、一緒に江戸へ送ってくれる人を待つことになっていた。お葉はその話を承諾した。その旅籠で、龍之介と一夜を過ごすことになった。


 小次郎が用意してくれた旅籠は、その宿場町でも一番大きなところで、出された食事は今までに見たこともないような豪華さだった。しかし、そんな味などわからないほどお葉は緊張していた。

 男女のことは、以前教えてもらったが、実際にはよくわからなかった。ただ、逆らわず、声もたてずに、ひたすら我慢をせよということだった。


 いざという時、龍之介の方がガチガチになっていた。だから、お葉が落ち着くことができたのだろう。龍之介の行為の先を読み、自ら身体を開き、果てた後もその温もりを抱きしめていた。

 もうこれきりなのだ。もう会うこともない二人だった。その温もりに、弥助のことも考えていた。そして、お葉は心の中で、二人に別れを告げた。


 江戸へ向かうお葉はもう一区切りがついていた。山での暮らしから一変していた。これからは母と江戸で暮らせるのだ。もう弥助のことも、龍之介のことも、過去の人ということで、未練もなにもなかった。


 江戸へ行く。新たな人生への出発だった。歩くことを苦痛とは思わず、お葉の心はウキウキしていた。

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