表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
159/177

お葉2

 お内所の前に来る。

「伽耶、お前は綾女あやめと一緒に部屋で待っておいで。お内所の用事が済んだらすぐに戻るから。今日あたり、竹谷の旦那がくるかもしれない。その支度をしておくれ」

「あい」

 伽耶はそう返事をして、また駆け上がるようにして階段を上がっていく。


 綾女は伽耶と同様、珠緒の妹禿だった。綾女の方は七歳。伽耶より一年ほど前に、この妓楼にきていた。すぐに、ついていた姉花魁が身請けされ、世話をする者がいなくなり、珠緒につくことになったのである。


 器量は伽耶ほどではないが、綾女も将来はいい花魁になれるだろう。綾女は要領がいい。人の顔色がうかがえるのだ。それは子供に取って便利な才能だ。うまく大人の顔色を見て、その身をゆだねている。しかし、こっちがそれに気づいてしまうとそれが返って鼻につく。今の珠緒がそうだった。きっと綾女もそれを感じているのだろう。だから、珠緒が機嫌の悪い時には絶対に寄り付かないし、余計なことも言わない。

 伽耶はむしろ、珠緒が不機嫌そうにしていると、心配そうによってくる。だから、度々伽耶に当たり散らすこともあり、きついことを言ってしまう。だからこそ、伽耶の方がかわいかった。

 空気が読めるなら、同じ禿の伽耶にも一言教えて上げればいいのにと思う。それを黙っていて、伽耶が八つ当たりされるのを冷ややかに見ている綾女がいやだった。それはすべて珠緒の自分勝手な性格がいけないのだが。



「珠緒です。入ります」


 障子を開けるとすぐさま楼主の妻、お染の小言を浴びせられる。

「全くいいご身分だねえ。一体、私達をいつまで待たせるつもりだい。とっくの昔にあの伽耶を使いに出したのに、今頃、ごゆるりとお出ましかい。何様のつもりだいっ、まったく」


 近衛門の妻は、いつもこの調子で、口うるさかった。珠緒はそんなことも計算に入れていたから、平気な顔をして中へ入る。わざとゆっくり支度をしたのも、このお染への嫌がらせのつもりだった。それには返事をしないで、そっぽを向いた。


「ああ、忙しい時に呼び出したりして悪かった。通常のことなら、お客人に待っていただくのだが、事が事だけにねえ。見世が始まる前に来てもらったんだよ」

 そう言って、その場をとりなすのが、楼主の近衛門だった。近衛門は温厚だ。いつも目を細めるようにして笑顔でいる。もちろん、妓楼の主であるから、遊女たちに余計な情けはかけない。しかし、搾取しようとか、誤魔化そうとかは決してしない、公正な人だった。だから、ここの遊女たちは他の妓楼にくらべて幸せなのだ。


 近衛門がその隣を譲るようにして、少し膝を動かす。その時、初めてそのお内所に別の誰かが座っていることに気づいた。

 いつもお内所に呼ばれるときはなにかの小言だったから、楼主たちと同じ方向を向いて座ることに不思議を感じた。


 珠緒は、楼主の横に座った。そして珠緒を見ている男に目を向けた。

「話というのは、こちらの御仁が突然、来られてね、お前を身請けしたいというのだよ」


 身請け・・・・・・。

 近衛門は確かにそう言った。珠緒は座り、改めてその人を見た。そんなことを急に言いだすのは、いったいどこの誰だろうという疑念の目で。

 そこには、普段、妓楼で見かけない旅支度の男がいた。普通、吉原へくる御仁たちはたとえ、棒手振りだとしてもよく見せようと、一張羅の羽織くらいはひっかけてくる。しかし、ここに座る御仁はそんなことは全く気にしないで、ニコニコしながら珠緒を見ていた。その姿から、ついさっき遠くからここへ着いたばかりらしいということがわかる。足は洗ってもらったのだろうが、その着物や髪にはまだ砂埃がうっすらとまみれていた。

 お染の言葉を借りるのなら、薄汚い格好をした男だった。誰だっただろう、と思う。確かに見覚えがあった。


 珠緒を身請けしたいというその男は、馴染みの客ではない。そもそも、ここの客ではないのかもしれない。花魁を身請けしようというのなら、何度も通い、馴染みとなり、珠緒を寵愛してから大金を払って身請けとなる。このように突然、見知らぬ人がきて、珠緒を、という話は聞いたことがなかった。

 しかし、その男は始終、にこにこしていた。目の前に金が積まれていた。これさえ支払えば、そのまま珠緒を連れて帰ることができると思っているようだった。


「お葉、やっとできたんだ。お前をここから出してやれる。長くかかって済まなかったね」

 珠緒はハッとした。その声は、弥助だった。

 よく見るとそう、二年前にここへ来てくれた弥助だった。その時よりもかなり痩せた。その表情も力なく、やつれていた。まるで別人のようだった。だから、すぐにわからなかったのだ。

 二年はそれほど遠くないが、珠緒にとってはかなり成長した二年だった。


 弥助がここを訪ねてきたあの頃は、珠緒は廓という女の世界で苦しんでいた。弥助が現れ、幸せにしていると口では言ったが、借金地獄から比べればという意味で、ここでの生活は別の意味の生き地獄であった。


 遊女というのは、仮面をかぶる必要がある。客は普段の、その辺にいるおなごを求めてはいない。妖艶な仮面をかぶった、粋な女を求め、楽しく一夜を過ごすために大金を支払うのだ。

 当時はその仮面をかぶることもできない、演じきれないお葉がいた。苦悩の毎日で、客を取るということにも、まだまだ抵抗があったのだ。


 そのころ、付け廻しといって、今より格は下だった。珠緒は、その客によって表情と態度を変えるという子供のような遊女だった。

 それで楼主は、もうしばらく珠緒はそのままの付け廻しでいるだろうと考えたらしい。それでも向こう二年は身請け金百五十両もあれば充分だろうと言った。そう、それは当時の珠緒にとっては破格の値段だった。楼主も弥助がそんな金を持って、本当に身請けに来るとは思ってもいなかったのだろう。値段を聞いて諦めるだろうとも考えていた。


 そんなことがあって、もう二年がたとうとしていた。弥助は痩せたが、相変わらず人のいい、やさしい顔をしていた。この人は変わらないでいてくれる、そんなことにほっとしていた。


 お葉は変わった。いや、変わらずにはいられなかったのだ。徐々にその手練手管を覚えていった。

 まず、客にはいつも笑顔で迎える。しかし、しばらく足を運んでくれなかった客には拗ねてみせ、時には甘えた。そして客が世間への愚痴を言うなら、母親のように耳を傾けて話を聞いていた。

 格が上になれば、その名が挙がり、上客がつく。上客がつけば、この妓楼での自分の立場も上になる。一晩に何人もの客を相手にすることもなくなっていた。


 馴染みになる客が増えていき、評判もよくなって、「吉原細見」の格付けが上がっていた。今では大きな商家の旦那たちや、侍など数人が馴染みとして通ってくれている。それで年明けに昼三となった。昼三とは、昼夜共に金三分ということ。呼出が最高級の遊女だから、そのすぐ下の格付けとなる。

 もしも、その夜のうちに帰る片仕舞なら、一分三朱の揚代となった。




 この時の弥助の晴れやかな笑顔を忘れはしない。

「あの時、言われた金、百五十両、いえ、ここには百六十両ございます。これだけあれば、お葉はこの吉原から出られるんですよね」

 この人は、こんなにも自分のことを不憫に思っていてくれたのかと実感していた。恋女房がいるのにもかかわらず、なぜ、ここまでしてくれるのか。


 弥助がその金を差し出し、さあ、今すぐ、ここを出ようと言わんばかりだった。しかし、そんなに簡単に済むことではない。金さえ払えばいいという買い物ではないのだ。


「じょ、冗談じゃない」

 お染が唸るような、搾りだすような声を出した。お染の毒舌がさく裂した。


「冗談じゃないよ。珠緒はね、三年もかけてやっと昼三になったんだ。こっちはそれまで、散々苦労した。なだめすかして、ここまでの花魁にしたんだよ」

 そう、今、珠緒はこの妓楼の二番目だった。

 雪崩が起こるかのように、一度喋りだしたら止まらないお染の毒舌に、弥助はあっけにとられて見ていた。どうか、すべてを真に受けないで欲しいと思う。


「この珠緒にはね、今じゃ三日とあけずに通ってくる馴染みの旦那が何人もいる。みんな、ただ珠緒を買うだけじゃない。ここへの床花、差し入れもしてくれるんだ。あの時は百五十両でお釣りが来たかもしれないが、今はもっともっと上さ」


 いつもは小言しか言わないお染も、一応はそういうふうに思ってくれていたのかと、こんな時に実感する。


「それに他の旦那たちにどう釈明すればいい。金を積まれたから、どこの誰ともわからない男にくれてやったって言うのかいっ。冗談じゃない。そんなこと、言えやしない。そう簡単に珠緒を渡せはしないんだよっ。そんなことをしたら、近江屋の名が廃れるってもんだ」


 今は珠緒たちも慣れているが、このお染の底意地の悪い言い方には誰もが怯んだ。弥助もお染の気迫に押されていた。

「まあまあ、そんなに頭から言わなくても、ちゃんと話せばわかってもらえるよ」

 近衛門は穏やかにお染をなだめた。

 そして、そのままの視線を弥助に向けた。

「弥助さんとやら、済まないね。あの時、きちんと言っておくべきだった」

 そう前置きする。近衛門は二年も前にちょっと訪ねてきた弥助のことを思い出したらしい。

 弥助もそう簡単に事が進まないとわかってきた様子だった。顔が強張っていた。


「珠緒は今、近江屋の代表する花魁の一人だ。それだけの花魁をポンと金を積まれたくらいで身請けされたとあったら、ここへ通ってくれている馴染みの旦那たちに立つ瀬がない。顔向けできないんだよ。お染の言う通り、他の客たちはあらかじめ、きちんとした段階を踏んでいる。その道にはその道のやり方があるんだ」


 弥助は青くなっていた。このまま、珠緒を連れて帰ることができないとわかってきたらしい。


「珠緒を贔屓にしてくれる馴染みの旦那が、身請けしてくれるっていうんなら、話は別だ。それでもね、きちんとした吉日を選び、正式にそういう話を持ってくると、前置きしておいてくれる。こっちは事前に、その旦那の身辺も調べさせてもらわないといけないんでね。身請けしてから、やたらにそこら辺に放り出されても困るし、騙されて、他の妓楼へ売られても一大事だ。それこそ、この近江屋の名に傷がつく。だから、これは町人たちのような嫁入りと同じなんだ。その人、その家名もかかわってくる。きちんとした場を設けて、話をし、そうしてから、やっと珠緒に話がいく。珠緒が承諾してから、やっと身請けの話が決まるんだよ」


 楼主は、小さな子供に言い含めるようにさらに続けた。


「そして、再びその旦那と話し合い、ここから出ていく吉日を決める。もうその時点では、その遊女は客を取らないが、それなりに廓内の他の遊女たち、喜助や下働きの女たちにも祝いの物が配られるんだ。その支度金すべて、旦那が出すんだよ。そうしてやっと、この吉原から出ていかれるんだ」


 もう弥助は下を向き、肩の力を落としていた。

 その心情を察すると、お葉も胸が締めつけられるような思いになる。ウキウキしていた子供のような弥助が沈んでいた。


「たとえ、今の珠緒の身請け金が百五十両だったとしても、今、言ったような見えない金が動くことになる。そうなるとさらに三十両以上は必要になるだろうね」

 そう言われ、弥助はうつむいたまま、動けないでいた。お染はもうこれで話はおしまいだと判断したらしい。弥助を嘲り笑うような表情で言った。

「さあさ、今日の所はこれで帰ってもらえないかね。うちは今から見世を開けるんだ。忙しくてねぇ」


 お染がさらに付け加える。


「それともなにかい? その金で今夜は珠緒を買うかい? ああ、残念だね。お初回じゃ、その肌にも触れられやしないねえ。あはははは」

 一文の得にもならないとわかったら、お染はますますぞんざいな口をきいた。


「わざわざ遠方から出向いてくださったのに、とんだことでした。申し訳ないが、今日はこれで」

 楼主がそう言って腰を上げた。それで、この話は終わりだった。


「さあ、珠緒も支度をしないかいっ。もうそろそろ、お客人がくる。粗相のないようにね」

 お染はそう言って、当てつけのように珠緒の前を通って出ていった。そっちが呼びつけて来たくせにと、その後姿を睨みつける。

 しかし、すぐに気を取り直して弥助に手をついて頭を下げた。


「弥助さん、今日はどうもありがとうございました。そこまで私のことを思っていてくださったこと、一生忘れません。でも、もう私に係わらないでください。そんな大金を工面するのもさぞかし大変だったことでしょう。ありがとうございます。その想いだけで充分です」


 本当にうれしかった。幼いころから一緒にいた弥助。こんな心遣いをしてくれるなんて。吉原ここから出る一時の夢を見させてくれた。

 お葉は、そんな弥助の優しさを断ち切るかのように、すっくと立ち上がり、お内所を後にした。弥助はまだ、そこに座り、うなだれていた。そう、そんな顔を見ていたくなかった。どうかすぐにでも甲斐大泉へ帰ってほしい。そしてお葉のことなど忘れて、普通の生活に戻ってもらいたかった。


 珠緒がお内所を出ると、そこにすぐ上の姉花魁の新造しんぞ、がいた。珠緒の顔を見て、ぎょっとしている。怯んだ目をしていた。

「なんだい? 」

 少し声を荒げるようにして問う。

「あ・・・・・・、別に。お母さんに用事を言いつけられたから・・・・・・」


 この新造は桔梗と言い、年は十三。最近はぐんぐんと背が伸びている。大人びてきた。珠緒は、この桔梗が伽耶を時々いじめていることを知っていた。嫌味なことを言ったり、自分が言われた用事を押し付けたりしていた。


 そういうつらい経験も、のちには強い花魁にしてくれるだろうと思っているから、珠緒は知らん顔をしている。しかし、内心はこの桔梗のことを嫌っている。桔梗も、そのことを珠緒から嗅ぎ取っているのだろう。桔梗は明らかに珠緒を恐れていた。


「お母さんならとっくにお内所を出て行ったさ。今頃、二階で遣り手と何やら相談をしているんじゃないのかい」


 桔梗は、そのことに返事をすることもなく、なんとなく面白くなさそうにして、珠緒から目をそらし、二階へ上がっていった。普通なら、ここでしつけがなってないと怒鳴りつけられることだろう。しかし、珠緒は放っておいた。桔梗をやりこめても、その矛先が伽耶に向けられるだけだから。


 かわいい顔をしている桔梗だが、性根は曲がっている小娘。綾女とよく似ている性分だった。こんな二人が周りにいる伽耶は、人一倍強くならなければいけないのだ。


 その日、珠緒が自分の部屋に戻るとまもなく、引き手茶屋から知らせがきた。やはり予想していた通り、竹屋の旦那がきたとのこと。

 すぐに支度を、と思ったが、伽耶が見当たらなかった。あれほど部屋で待っていろと言ったのにもかかわらず、どこかへ行ってしまっている。

 珠緒はいつもより、気がたっていた。弥助のことがあったからかもしれない。まだ、お染の嘲り笑う声が耳にこびりついていた。あんなことをしてくれて、その好意を無にしていた。そのことが重く胸にのしかかる。


 もしも、弥助がこの妓楼への礼金として充分な金を用意していたら、珠緒はどうなっていただろう。百八十両もあれば、珠緒は身請けできたはずだ。

 楼主の近衛門はうん、と言っただろうか。実際にはダメだとも言えない状況だった。珠緒の借金をすべて払ってくれるのだ。荒っぽいが、その場で珠緒を連れて帰ることもできたはずだ。吉原の花魁の身請けの手順など、充分な金が動けばそんなものはどうでもよくなるのだ。近衛門達が最もらしく言っていたことは、弥助には身請けさせないことを、金が不十分だったという理由をつけていただけのこと。


 もし、弥助とここを出たら・・・・・・。そんなことはあり得ない。しかし、今日はそんなことを考えていた。昔のことを思い出していた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ