お葉
突然、考えてもみなかった客人たちがお葉を訪れていた。
もう二度とそのお顔を拝めるとは思っていなかった龍之介と、そのお供の小次郎。そして、弥助がこの近江屋の妓楼に来ていた。
とりわけ、龍之介の成長ぶりは見違えるように立派になっていた。最初は誰なのかわからないほどだった。もう奥方がおられるとのこと。無理もない。それだけの年月が立っていたのだ。
龍之介のことは忘れはしない。あの頃は、まだ生意気そうな頑固さをその表情にみせていたが、今はずいぶん穏やかになっていた。龍之介とは、たった一夜のことだったが、お葉にとっても初めての男性だった。その思い出があったからこそ、吉原へ身を売る覚悟もできていた。
龍之介から、初回でかなり奮発した床花までいただいた。その中に文が入っていた。
そこには弥助のことが書かれていた。弥助の金のことは知っていた。弥助が帰ってからその後、すぐに番屋から弥助のことで聞きに来たからだ。
数日に渡り、この近江屋はいろいろ調べられた。岡っ引きからは、お葉はかなり疑いの目を向けられた。弥助の金のことを知る者が限られていたからだ。お葉が手を廻して、誰かに指図をし、その金を奪ったのではないかと思われた。しかし、弥助がここへ来たのは突然だった。甲斐大泉から江戸にやってきて、その足でここへ来たらしい。弥助が来ることも知らず、そのような裏工作をするような暇は全くなかったのだ。
さらに、弥助がこの見世から帰ったすぐ後、お葉は馴染みの旦那を受け入れていた。旦那はお葉を一人にする間などなく、そのまま泊まっていったのだ。その事情が証明されたらしく、それから、番所からなにも言ってこなくなった。
しかし、弥助のこと、気にはなっていた。それを確かめようにも所在もわからないし、変に気を廻してもまた、疑われる可能性もなくはなかった。
しかし、まだ、金のことで甲斐大泉へ帰れない弥助のことを知った。そして、また二日後にやってくるからということなので、お葉は事件当時のことを事細かに思い出し、書いた。
そう、あの当時のことを思い出していた。
**********お葉の回想
その弥助が訪れる少し前、夕べからずっと入り浸っていた客をやっと見送り、夕暮れからの客に備え、入浴を済ませ、髪も結ってもらったばかりの時だった。
化粧をしていると、「珠緒姐さんっ」と、禿の伽耶がドタバタと足音を鳴らし、お葉の部屋の方へ走ってきた。ちょうど眉を整えていたところで、細い弓なりにかいたその眉をひそめる。
あれほど、足音を立てて廊下を走ってはいけないと言ってあるのに。
躾けのできていない子だね、と、これでまた、八千代姐さんに嫌味を言われる、そう思った。八千代は、お葉より二つ上で、ここへ売られてきた当初はいろいろ面倒を見てくれていた。しかし、お葉がどんどん格上げしていき、ついには八千代と同格になっていた。それが気に入らないらしく、最近は特にいろいろな嫌味を言ってくる。
お葉がそんなことを思っているとは知らずに、伽耶はお葉の部屋の前で止まり、静かに声をかけた。
「珠緒姐さん、入ります」
そう、お葉はこの近江屋妓楼では珠緒と呼ばれている。
再び、眉を整えていた。
「なんだい、お入り」
そっけなく、そういうと、伽耶は安心した様子で襖を開けた。
「珠緒姐さん、お母さん(妓楼の女将)がお内所(帳場)へすぐに来いとのことでございます」
一瞬、動かしていた筆を持つ手が止った。しかし、そんなことは聞こえていなかったかのように、再び眉をかく。
もうすぐ見世が開く刻限だった。皆がその支度に追われて忙しくしているとわかっているはずだ。なぜ、このような時に、お葉がお内所なんかに呼ばれなければならないのか。少々腹をたてていた。
お葉はそのまま、紅を手にした。急ぐことなく、紅を引きはじめる。
楼主は、いつだって自分の部屋から出るときは、この近江屋の花魁として、恥ずかしくないようにしろと言っている。それなのに、まだ、化粧の途中でうろうろしていたら、叱られるだろう。それにそんなぼやけた顔を他の花魁、遊女たちに見せることも屈辱だった。
いつだって、珠緒は澄まして、ドンと構えているのだ。
伽耶は、お葉がなかなか腰をあげようとしないから、すぐ後ろでオロオロし始めた。
「ああ、姐さん。お母さんがすぐに呼んでこいって、ああ、どうしよう。また叱られます」
伽耶はお葉の妹禿だ。まだ、六歳。つい先だって、お葉につくことになった。小さな田畑を耕す百姓の家に生まれ、度重なる飢饉で、兄妹の四番目の伽耶が吉原へ売られた。
一番上の兄はその父を助けるために家に残る必要があった。次男はもうすでに隣村の商家へ奉公にいっている。そしてすぐ上の姉はまだ十一だが、嫁に行くことが決まっていた。隣村のもう少し大きな百姓家で、働き手が欲しいのだろう。春になれば嫁ぐのだ。
そして今回の飢饉では、行く手の決まっていなかった伽耶にその番が回ってきた。伽耶がこの家のために何ができるかだ。いわゆる口減らしだった。
聞くと、伽耶の母親も山を越えた温泉宿に行ったらしい。母親も家族を守るために、下働きをしながらその身を売る悲しい女たちの行く末だった。
伽耶は、よく幼い弟のことを口にする。すぐ下の弟の世話は、伽耶にとって、ご飯を食べる代償として当然の仕事だった。しかし、兄、姉には食べ物があっても、伽耶や弟にまで回ってくることは殆どなかった。幼い弟は空腹で泣く。泣かせると伽耶が叱られた。そしてご飯をもらえない。だから、よく外へ連れ出し、弟の気を紛れさせたという。伽耶も空腹だったのに、それを甘えられる相手がいなかった。
お葉は伽耶を気に入っていた。素直さが顔に出ていた。にっこり笑うその顔を見ているとこちらも笑顔になれる。きっと将来は花魁になれるだろう。しかし、気が弱い。なにかにつけ、その顔を曇らせる。誰かに皮肉を言われれば、そのまま受け止め、胸を痛めるのだ。それは幼いからということもある。けれど、生来人を疑うことが苦手、ということもあった。このままでは売れっ子になったとしても、周りの嫉妬ややっかみに負けてしまう。たとえ、楼主に頭ごなしに叱られても、平然として、プイっと横を向くくらいの気の強さがなければ、のし上がってこられないのだ。
それはお葉がその身を持ってよく知っていた。人がいいだけでは生きてはいけない。信用した分、裏切られたらより深く傷つけられる。
そんなことを思いながら、ゆっくりと化粧をしていた。後ろでは伽耶が泣きべそをかいていた。
「姐さん、姐さんったら。早く行かないと」
「わかった。もう行くよ」
懐紙を口にはさみ、余分な口紅を落とす。そう、もうそこにいる、鏡の中でにっこり笑うのは、近江屋の妓楼、昼三花魁、珠緒なのだ。
伽耶がはっとして、珠緒を見ていた。
「花魁、きれい・・・・・・」
「ありがとうござりんす。さて、お内所まで」
すっと手を差し出した。すると伽耶は珠緒の手を取る。ようやく腰を上げた。
部屋を出ると、廓内は見世を開く準備に追われていた。皆がバタバタしている。そんな中、しずしずと廊下を下り、一階のお内所へ歩いていった。